ナキ第5話
翌日の朝、私は留置場の塀を登っていた。サナギがそこにいることがわかっていたからだ。まだサナギには上着だって返せていない。私はサナギともっと話をしなければいけなかった。
留置場のどこにサナギがいるかはわからなかった。だから、しらみつぶしに留置場の独房を外から覗いた。
ほとんどの房には人の姿はなかった。こんなところにいればフェレスですぐに死んでしまうのだろう。
ふと一つだけ薄く光を放っている窓があった。私はその格子窓に手をかけて中を覗き込んだ。中ではサナギが猫のように蹲っていて、傍らにはロウソクの火が揺れていた。
「サナギ」
蹲っているサナギはなんの反応もしなかった。私は死んでしまったのではないかと不安になった。けれど、胸の辺りはゆっくりと動いていたので大丈夫だと思った。
「サナギ」
それでも彼は反応しない。寝てしまっているのだろうか。
「サナギ、私ね。マテラって人に会いました」
そう声をかけるとやっとサナギはこちらを見た。でもその目はいつものサナギとは少し違っていて、驚いているようだった。
「マテラ……そう言ったのか?」
立ち上がったサナギはこちらを見上げながら言った。
「はい、あのマスクを被っていた人、あの人が自分はマテラだって」
「そんな訳がない」
サナギは強く言い放った。私は看守が来てしまうのではないかと気が気ではなかった。
「でも、あの人はマテラだって言っていました」
「あいつには近づいては駄目だ」
「わかってます。もうあの人には近づきません。サナギはどうするつもりですか? こんなところにいたら本当に処刑されてしまいます」
サナギは答えなかった。再び床の上に座り込んでしまう。
「サナギは何もしていないのですから、逃げてください。大人たちはミュンクヴィズの生き残りだからって、ただそんな理由だけで殺すつもりです。逃げてください。サナギの力ならここを抜け出せませんか?」
サナギは後ろを向いたまま首を横に振った。
「俺にそんな力はない。俺たち一族もただの人間だ。君も勘違いをしている」
「それなら、私が手伝います。だから逃げましょう」
「ナキ……俺は逃げるつもりはないんだ。ここで終われるのであれば、それでいいと思っている」
ロウソクが揺れて、サナギの影が幽霊みたいに揺れていた。
「どうして、そんなに死のうとするの……どうすれば。私は普通の人が嫌いです。こんな風に話せる人とはもう会えない。そんな人もう……サナギがいないと私はまた一人で」
なぜか涙が出て自分が惨めに思えた。私はどうして私として生まれてしまったのだろう。
「俺も君のことは普通の人間として見てはいなかったよ。俺の目には君は異質に見えた。他の人間とは明らかに違っていて……だから、気にかけた。一族の者には君はさぞ奇妙に見えることだろうと思った。俺は君を囮に使ったんだよ」
「どういう、ことですか?」
「俺は一族の生き残りをずっと探していた。君は知らないかもしれないがその者は多くの街で死を蔓延させていた。だから俺はその者を追ってここに来た。そして君を見つけた。最初、君が一族の者だと思ったが、違っていた。君は病にかからないんだろう? だから同胞が君を狙うことは想像できた。奴は病の進行を止められると困るだろうから、君を殺そうとすると思ってずっと見ていたんだよ。ナキ」
サナギは座ったまま、こちらを振り返った。瞳にロウソクの火が映っている。
「だから、君を利用したんだ。他の人間と俺は何も変わらないよ」
「そ、そんなことない。サナギは優しくて、優しくて……」
私はこれ以上の言葉を言えなかった。声が出ないほど涙が出たから。私はエゾモのことを思い出した。最初はエゾモもとても優しくて、こんな大人がいることに驚いた。サナギもとても優しかった。けれど、それもエゾモのように利用するためなのか。
私はそれ以上何も言うことができなくて、独房から離れた。涙は止まらないけれど、とにかく走って留置場を後にした。
留置場の塀を越えてから私は無我夢中で走った。いつの間にかあまり知らない通りに来ていた。狭い路地がいくつもある通りだった。早朝のそこはまだ暗くて街灯がいくつも灯っている。ここはサナギと会ったあの雨の日の場所だった。
あの日も私は一人で走っていた。両親が死んでしまってから二日目のことだったからよく覚えている。煙るような雨の中で冷たさに震えながら、どこに行けばいいかもわからないあの感覚、私は再び同じように路地の角で蹲るように座り込んだ。地面の灰色がよく見えた。暗いからどちらかと言えば黒に近かったけれど。
「私はどうやって生きていけばいいの?」
誰も答える人はいない。この街の人は多くが消えてしまって、生き残っている人は恐怖に怯えながら家に閉じこもっているのだ。
私にはその恐怖がない。病に対する恐怖、死に対する恐怖、それらがないから、きっと誰にも理解されない。理解できない。
私はただ寂しいだけなのに誰も私を。
「それなら僕と一緒にくる?」
私が見上げるとそこにはあの小さな鳥人間が立っていた。
私は身構えたけれど、立ち上がれなかった。
「そんなに怖がらなくていい。僕は何もしないからさ」
「そんなこと信じられません」
「そうだよね」
その人は笑っていた。
「それにしてもこんなところで何をしているの?」
首を傾げながらその人は言った。
「あなたに話す必要はないです」
「そうかい?」
「あなたさえいなければ、サナギはもっと……」
「サナギと何かあったんだね」
「違っ……」
「わかりやすい子だね」
くすくすと笑っているその人は本当に幽霊みたいにふらふらしている。
「サナギと喧嘩でもしたんだね。留置場に忍び込んで逃亡でも企てようとしたのかな?」
この人はなんでもわかっているように話す。
「サナギは死を甘んじて受け入れるだろうね」
「どういうことですか?」
「聞いてないのかい? ふふふ、そうかそうか」
笑うばかりで私の質問には答えようとしない。
「だから、それはどういうことですか?」
その人の窪んだマスクの目の奥が紫色に光った。
「うん、それなら僕と一緒に来てくれれば真実を話そう。どうだい?」
何を考えているかはわからなかった。ただ、サナギが死のうとしているなら私が生きる理由はもうないのかもしれない。これ以上一人は耐えられない。
「本当に教えてくれますか? サナギのこと」
「ああ」
彼は笑い声を上げる。その声はとても澄んでいる。ただ、それ以上に不気味な雰囲気がある。
「では、行こうか」
私は彼についていくことにした。
どこに連れていかれるか不安だったけれどそこはフォルミード倉庫の隣にある小さな小屋だった。こんなところ誰も近づかない。
小屋の中にはベッドが一つあり、それ以外はランタンと小さな椅子が一つずつ。
「僕の住処だよ。どうだい? とてもいいところだろう?」
彼は得意げに言う。ただお世辞にもいいところとは言えなかった。木製の壁は今にも崩れそうだし、床は歩くとギイギイ音がする。
「さあさあ、座ってくれ」
私は小さな椅子に腰掛けて、彼はベッドに腰掛けた。彼は部屋の中でもマスクをつけたままだった。
「取らないのですか? そのマスク」
「ああ、見た目にコンプレックスがあるんだよ」
「私にそれを言いますか?」
「何を言っているんだい? 君はとても綺麗じゃないか」
「そう言うのはいいです」
マテラは「そうかい?」と言う。
ベッドの上でマテラは足を揺らしていた。まるでその仕草は子供のようだった。
「さっきのこと、サナギについて教えてください。どうしてサナギは死のうとしているのですか?」
「ハハッ、せっかちだなあ。まあ、いいけれど。そんなの決まっているよ。彼はね。罪悪感に押し潰されているんだ」
「罪悪感?」
彼は頷いた。
「罪悪感だ。それは彼があの森を出て行く前から続いているんだろうね」
「そんな言い方ではわかりません」
「うん、そうだろうね」
「はぐらかさないでください」
「君はサナギがとても好きなんだね」
うるさい人だと思った。
「そ、そんなことはどうでもいいです」
「サナギはね。一族のものだけれど、一族の者ではないんだよ。彼はずっと昔に森を追放された身だからね」
「追放ですか?」
マテラは立ち上がって言った。
「過去に彼は問題を起こした。そして、そのために森を追放された。ただそれだけだよ。だから、サナギは生き残った。一人、僕たちの森が焼かれている時もどこかでのうのうと寝ていたことだろう」
マテラはランタンを手に取り火を灯した。「暗いからね」と言う。
「でも、それは仕方がないことですよ。そんなのサナギにはどうしようも……」
「うん、仕方がない。サナギは僕らの滅びさえ知らなかったのだから」
「それならそんな言い方しなくても……」
マテラはくすくす笑う。「本当に君は」と言った。
「君はサナギを助けたいのかい?」
私はその言葉に答えることができなかった。私を利用したと言うサナギ、死のうとしているサナギ、私がサナギにできることなんてないのかもしれない。
彼は静かに言う。
「それならさ。僕がサナギを助け出してあげるよ」
私は彼を見た。その声には今までのふざけたような感じはなかった。
「君みたいな子どもにはできないだろうから代わりに僕がやってあげる。僕もこれ以上同胞を失くしたくはないからね」
「そんな簡単に言いますけれど、本当にできるのですか?」
「できるよ。僕にはね。でも一つだけ、約束してもらいたいことがある」
「なんですか?」
「僕の邪魔はもうしないで欲しいんだ。君にもサナギにも、ね」
彼は言い募る。
「僕はもう君やサナギに危害は加えない。だから、サナギを助けたら早々にこの街を離れてほしい。そうすれば、全てがうまくいくと思わないかい?」
嬉々として語るマテラに私は不安を覚えた。
「街の人は、どうなるのですか?」
マテラは笑った。面白いことを見つけた子どものような声だった。
「そんなの決まっているじゃないか。あの子らが満足するまで喰らい尽くすまでのことだよ。でも、いいじゃないか。君だって街の人のことは好きではないんだろう?」
「それは、そうです。けれど……」
「君はサナギと一緒に幸せに暮らすべきなんだ。今まで辛い思いをしてきたんじゃないかい? それなら、これからは幸せな時間しか待っていないよ」
私は生きることが辛かった。辛くない時なんてなかったくらいだ。他人の目に怯え、生きることが私には息苦しい。
「僕からしてみれば、君はとても綺麗だからね。これはお世辞でもなんでもないんだ。僕は他の人間は醜くて見るに耐えないけれど、君のことはそうは思っていない。だからこそ君はむしろ他の人間から冷遇されてきたんじゃないか? 僕らの一族のようにその外見、体質だけで阻害されてきた。ただ、違うだけで人間は無意義な恐怖や被害妄想を膨らませる厄介な動物なんだよ。だから」
マテラは囁くように言った。
「今更他の人間を気にすることはないんだよ。君はもう十分に苦しんだ。それでいいんだ」
彼の言葉はとても心地良い。私はこんな風に言われたことはなかった。もう何もしなくてもいい。病院に行かなくていい。血を抜かれなくていい。他の大人に変な目で見られなくてもいい。どれほど良いことだろう。
私はいつの間にか頷いていた。
「うん、それがいい。僕はその答えを支持するよ。君は間違っていないんだ」
私はそれが正しいことなのかわからない。
それから二日が過ぎた。エゾモが言っていた処刑の日、私はフィンズベリー広場に向かっていた。
マテラは処刑の日がサナギを助ける唯一の機会だと言った。
「危ないから、その日は絶対あそこに来てはいけないよ」
彼はそんな風に言っていたけれど、そんなことはできなかった。私もサナギが心配だった。どんなことを言ってもサナギはサナギだと思う。私を利用していたとしてもサナギはいつも私を助けてくれる。だから、次は私がサナギを助けるのだ。そう心に誓った。
フィンズベリー広場には三日前と同じように大勢の人だかりができていた。
どうして彼らがわざわざ外に出てまでサナギの処刑を見ようとするのかはわからなかった。まだフェレスは蔓延しているし、毎日死人が出ている。そんな中でも彼らはフィンズベリー広場に集まってくる。人ってとても馬鹿な生き物なのだと思う。
「やっと悪魔が死ぬ」
誰かが呟くのが聞こえた。
「早く殺してくれないのかなあ」
誰かが呟く。
「どんな風にあの悪魔を処刑するんだろうか?」
「なんでも四つ裂きにするらしいぞ」
誰かが言う。
こんな風に嬉々として彼らは言葉を放つ。私には彼らの方が悪魔のように陰湿に思える。
私は人混みの中に入っていく。一番後ろではサナギがいるのかさえわからない。私は人をかき分けて前へ、前へ進んだ。
今日が終われば明日になる。明日になれば楽しいことしかない。そう思った。今日サナギを助け出すことができたなら、明日はこの街を遠く離れて、どこか知らない街を目指そう。列車に乗って違う街へ、違う世界へ。
今日を乗り切れば私は幸せになれる。
私が壇の前に着いた時、まだサナギの姿は見えなかった。
壇上ではエゾモと他にも数人の大人が立っていた。
「それではこれより公開処刑を行う」
エゾモは高らかに声を上げた。彼は壇上からフィンズベリー広場に集まった人々の顔を眺めた。そして、彼は壇の一番近くにいる女性に目を向けていた。それはラナだった。ラナもわざわざ見に来ていたのだと驚いた。
エゾモが何かを話してから、壇上に巨大な十字架が掲げられた。磔十字。
「これより罪人を処刑する。これは正義の行いである。咎人は裁かれなければならない。我々の亡き家族、友人たちに捧ぐ」
両腕を縛られたサナギが連れてこられた。サナギの様子は依然として変わらず落ち着いていた。全てを受け入れているような目をしている。紫色の綺麗な瞳は光を失ってしまったかのように淡く揺れているだけだった。
そして、彼は十字架にはりつけられる。右手を押さえつけられて十字架に括りつけられようとしている。
誰かが叫ぶ。
「なんだ⁉︎」
黒い塵のようなものがサナギの側にいる人の腕を覆っていく。
「あああああああああ!」
叫び声が上がる。黒い塵はその人の腕を覆い尽くして霧散する。
その人の腕には肉がなかった。血はぼとぼとと流れているのだけれど、その腕の肘から下は綺麗な白い骨が剥き出しになっていた。血が壇上を赤く染める。
「なんだこれは⁉︎」
エゾモが叫んだ。
人々は混乱で叫んだり逃げたりして、押し倒されている人もいた。
サナギだけが冷静にある一点を見つめている。サナギの視線の先にはマテラがいた。もうマスクも着けていなかったけれど、その雰囲気で彼だとわかった。
「さあ、贖罪はもう済んだだろう? サナギ」
遠くからでも彼の声はよく聞こえた。
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