ナキ第4話

 今日も私は病院に足を向ける。風が強い日で建物の隙間を冷たい風が何度も通り過ぎていく。私は上着の裾と帽子を抑えながら歩いた。


 近くの新聞屋の新聞が風のせいでパタパタとひらめいている。そして、一枚の新聞が外灯に引っ掛かりバタバタと音を立てていた。私はその新聞の一面を見た。号外と書かれたその新聞には『ミュルクヴィズの一族を捕らえる』という見出しがあった。私は目を見開いてそこに書かれている記事を読んだ。


「フィンズベリー広場にて公開審問を行う……」


 新聞には「フェレスの感染源」、「意図的に持ち込んだ可能性」、「呪われた一族の生き残り」と斜め読みしただけで何が書いてあるかはわかる。


「ミュンクヴィズの一族が捕まった……」


 ミュンクヴィズの一族と呼ばれる者が捕らえられ審問にかけられる。そして、その記事の横には白黒でわかりにくかったけれど、人物のスケッチが載っていた。


 それは黒い髪の男のスケッチで無造作に伸ばされた髪の隙間には鋭い目と瞳が描かれていた。それは間違いなくサナギだった。


 サナギがミュンクヴィズの一族の生き残りだと新聞には書かれている。けれど私は違うと思った。サナギは悪くない。サナギは私を助けてくれた。私に優しくしてくれた。もし、サナギがフェレスを持ち込んだとしたら私はとっくに殺されているはずだ。サナギは確かに変わった瞳をしている。何か私の知らないことを知っていて、私にわからないことができるけれど、サナギは悪い人ではない。


 あの小さな鳥のマスクの人がきっとミュンクヴィズの一族だ。だから私を殺そうとした。あの人が病原菌を持ち込んだのだと思う。こんなことは間違いだ。


 私はすぐにフィンズベリー広場に向かった。あの新聞は今朝のものだった。だからもう審問が始まってしまっているかもしれない。


 私はサザーク橋に差しかかって空を見た。橋の向こうの雲は目まぐるしく形を変えていた。強い向かい風の中を走った。


 私は体力がある方ではないからすぐに息が上がって苦しくなる。きっと病気になって咳をいっぱいしてしまうとこんな風に苦しいのだろう。私にも普通の人の気持ちはわかる。


 その日、私は病院に行くことなどすっかり忘れてしまっていた。それよりもサナギが無事であるかどうかが心配だった。


 ギルドホールの前を通っていくとフィンズベリー広場が遠くに見えた。そこにはもう多くの人が集まっていて広場の入り口まで人が溢れていた。所々に鳥のマスクをつけた人もいるのが見え私は少しだけ近づきたくない気持ちになった。あの時の小さな人があの中に紛れているのではないかと疑いながら私は広場の東の方から回り込んで入った。


 広場の中心には壇が設けられていてその上に一人の男の人が立って何かを話している。その傍らには椅子があり、サナギが後ろ手に縛られて座っていた。


「サナギ!」


 私は叫んだのだけれど、人混みの雑音で声はかき消されてしまう。数人がこちらを見ているのが見えた。どの人の顔も暗く陰が落ちたように見える。


「これは公的処置である」


 壇上の人が叫ぶ。その声には聞き覚えがあった。男の人なのに高い声をしていて、髪は金色だった。遠くからだと顔は見えなかったけれど、それがエゾモであることはわかる。


「我々は問わねばならない。神は本当に我々を見放したのかと。しかし、それよりも前に我々は本当の悪魔を裁かなければならない」


 エゾモが高い声で宣言すると群衆のそこかしこから、声が上がる。「悪魔の一族だ」とか「死刑だ」とか、きりがない。


「ここに捕らえた者は罪人の生き残り。辺境の村を滅ぼし、悪魔を呼び寄せる悪魔使い。さあ、名乗れ」


 エゾモはサナギの首にかけられた鎖を引いた。サナギは呻いて群衆を見ていた。紫色の瞳が輝く。群衆は静まって、彼の声に耳を傾けているようだった。私は人混みをかき分けて、サナギの近くへ、できるだけ近くへ向かった。


「……名前は、サナギ、西の森の、ミュンクヴィズの者だ」


 暗き森の一族、ミュンクヴィズ、サナギはそう言った。私は壇の前まで来た。人の声が後ろから波のように押し寄せる。サナギの顔には何の表情もなくて、恐怖も焦りも感じられない。


 エゾモはニヤリと笑っていた。そこにはあの優しい顔はなかった。


「ミュンクヴィズ、この言葉はこの国の者にとって憎悪の対象でしょう。それはそのはず彼らは悪魔を呼び寄せる。このご時世に悪魔なんて……と街がこうなるまでは僕もそう思っていました。多くの人は自分には関係ないと座ってワインでも飲んでいたことでしょう。しかし、皆さんはもう気楽にワインを飲んでいられる状況でない」


 エゾモはどんどんと話を進めていく。他愛のない本当にどうでもいいような話をしているのにそこにいる人たちは妙に熱を持っていて「そうだ」と声を上げる。


「諸悪の根源である彼に僕はどうにかこの病の進行を止めることはできないかと訊いたのです。しかし、彼はなんと答えたと思いますか? さあ、もう一度言ってみろ」


 エゾモはサナギを睨みつける。


「わからない」


 サナギは低く呟いた。しかし、それは多くの人の耳に届いたようだった。


「これが罪人の言です。罪悪感もましてや贖罪の意識さえまるで感じられない。このような罪人を野放しにしていいはずがない。見てください。この呪われた瞳を! これこそが罪の証です」


 エゾモはサナギの目に手を当てむりやり見開かせる。そこには紫の瞳がある。誰もがその瞳に見入っている。


「これが罪人の目です。この忌々しい瞳こそが証拠、彼がこの街の住人でないことがよくわかるはずです。この忌まわしい者があなた方の大切な家族や友人を殺したのです。だからこそその報いは受けさせるべきなのです」


 彼は涙を流しながら訴えていた。その姿に共感する人も憐れむ人もたくさんいたのだと思う。辺りからいくつも声が上がっている。「死刑だ」とか「人殺し」とかそんな言葉が飛び交っていて、サナギは俯いてそれを受け入れるように黙っていた。私にはそれがわからない。サナギは決して人に危害を加えるような人ではない。


 こんなのは審問でもなんでもなかった。吊し上げとしか言いようがない。こんなことは止めなければいけない。そう思いながらも、私は声を上げることができなかった。私は人が怖かった。


 他の人々の声には熱がこもっていて、壇上に上がろうとしている人もいた。それぞれの顔は歪んでいて、怒りに満ちている。私は彼らが恐ろしかった。沸騰したお湯のようにバタバタと手をあげたり、身体をよじらせている。まるで心がなくなってしまった人形のようだと思う。


 怖い。


 私は帽子を目深に被り直した。


「私はこの男に死刑を求刑します。しかしながら、この場での断罪はまだできません。三日後、この広場で公開処刑を行いたい。私はそのためにこの男の罪を完全な形で白日の下に晒すことを約束しましょう」


 広場の熱気はいよいよ強くなって、人々は歓声を上げていた。人を殺すと宣言したエゾモにみんなが喜んでいることが嫌だった。サナギは俯いたまま全く動かない。


 ふいに肩を叩かれた。


「君はどう思う?」


 後ろから声がして振り返るとそこには小柄な人が立っていた。


「君は彼が悪人だと思うかい?」


 その人は顔に鳥のマスクを着けていた。私は夕暮れ時のあの人だと直感して逃げようとした。けれど、壇上近くには人が押し寄せていて身動きが取れない。


「私を、殺すつもりですか?」


 身長はあの時の人にとても似ていたし、声も同じような気がするけれど、確信が持てなかった。マスクをつけた人は他にも大勢いる。


「君は恐ろしいことを言うね。僕がそんなに悪人に見えるかな?」


 その人はくつくつと静かに笑って言った。声はこんな雑音の中でもよく聞こえる澄んだ声だった。


「それよりもさ、僕が先に訊いているんだから答えてくれない? あの人は悪人に見えるかい? 僕には見えないんだよね」


 その人は子供のようでもあって、大人のようでもあった。身体は小さいけれどとても落ち着いたしゃべり方をしている。


「わ、私は彼が悪人ではないことを知っています!」


「そうかそうか。君は彼と知り合いなのか……うん、僕もそう思うよ。彼の目はとても優しそうだものね」


 この人はまるでサナギを知っているかのように話す。


「どうしてそう思うのですか? 彼が悪人でないって」


「どうして? 病なんて自然に流行るものだよ。それなのにどうして誰かのせいにするのさ。そもそもが馬鹿みたいなんだよ。こんな噂に惑わされる人間って……人間って本当に盲目で気持ちが悪いと思わないかい?」


 その人は笑っていた。


「それは……そうかもしれませんけれど」


「でも、もし仮に本当にフェレスが恣意的に流行ったものだとしたら、犯人があんな無様に捕まると思うかい? そんなことはあり得ない。本当の犯人がいたとしたらきっと舞台裏でほくそ笑んでいることだろうね」


 その人はますます笑って言う。


「本当に馬鹿だよね。人間って」


 嘲るような嫌な声だった。


「知っているかい? 人間が死ぬととても醜くて臭いんだよ。見た目だって元から醜いのに。ほら見てみなよ。サナギのあの瞳、美しいだろう? 彼は美しいんだよ。人間なんて身体中どぶの色をしているからね」


「今、サナギって?」


 その人は親しげにサナギの名前を呼んだ。その人は隠す気なんてなかったのだと思う。


 私は突然辺りが騒然となっていることに気づいた。壇上を見るとサナギが立ち上がっているのが見えた。そして、手にかけられた縄が氷のように溶けてしまう。


 サナギはこちらを見ている。そして、私が襲われた時のように右手を上げていた。塵のようなものが彼の右手に集まっていく。それは数を増やし、杖のように伸びていく。


「全く、そんなに怒らなくてもいいのにね?」


 私の後ろでその人が呟いた。


「ほら、行こう」


 その人は私の腕を摑んで走り出す。人混みに紛れるように進んでいった。


「放してください! サナギは何を?」


 何も言わずにマスクの人は私の腕を引く。


 後ろからサナギの声が聞こえる。


「ナキ! 行くな」


 私はすぐに立ち止まって、サナギの方を振り返った。サナギはとても心配そうにこちらを見ている。いつもの優しい顔だった。


 私はいつもサナギに心配ばかりかけているなと思う。


「あなたも、ミュンクヴィズの人……私を襲ったのも」


 サナギの手からあの黒い塵が離れていくのが見える。確実にそれはこの人に向かって飛んでいる。


 私は手を振り払った。


「ハハッ、そうだよね。わかるよね。わかってしまうよね。まあ、隠す気なんてなかったけど」


 塵がその人に近づいていた。けれど、その人が腕を振るとその塵はすぐに消えてしまう。


「ねえ、君は生きていて楽しい? それとも辛い?」


 この人は一体誰なのだろう。どうしてこんなに親しげに話すのだろうか。


「そんなことあなたに、言う必要ありますか?」


 その人は大声で笑った。


「それはそうだね。でも、勘違いしないでほしい。君を傷つけようなんてもう思っていないよ」


 その人は私の額に指を当てた。


「ハハッ、不思議だなあ。君って本当に不思議だ」


 私の顔をまじまじと見て言った。


「サナギに伝えておいて、僕はマテラだってね」


 その人は走り出した。私は叫ぶべきだと思った。あの人が悪いんだって。振り返って目の前の人々を見た。


「やはりこの男が、罪人なんだ」


 誰かが叫んでいる。


「この場で処刑しろ!」


 他にも叫び声が聞こえる。


「悪魔の使いだ! さっさと殺せ」


 恐れと怒りが混ざった喧騒の中で、取り押さえられたサナギの目はまるで死んでしまったように虚ろだった。サナギは絶対に違うのに人々にはサナギが悪人にしか見えないのだと思った。


 サナギは鎖で縛られてどこかに連れて行かれてしまう。


 サナギが去った後も辺りは騒然としていた。誰もが確信を得たように目をギラギラとさせている。


 こんな日も昼下がりの空はとても薄い青色をしていて綺麗だった。

 

 公開審問の後、私はすぐにエゾモの家を訪ねた。


 日は傾き始めていて、私は急ぎ足で歩いていた。キャノン通りの突き当たりに灰色の石造りの建物が見えてくる。決して大きくはなかったけれど、綺麗な建物だった。


 私は黒い木製の扉をノックする。


 中から女の人の声がした。扉がゆっくりと開き、そこには目尻が涼やかで綺麗な女の人が立っていた。


「あら、綺麗、これは可愛らしいお客様」


 きっとこの人がエゾモの奥さんなのだと思った。その人からはベルガモットのいい香りがしている。


「こんにちは。私、ナキと言います。以前エゾモさんにお世話になって……」


「彼に? ああ、わかったわ。この間あなたのことを彼が話していた」


 彼女はとても静かに笑う人だった。とても綺麗な人で笑うと目尻にシワが寄る。


「彼まだ、帰ってきてないの。ごめんなさいね」


「あ、いえ……エゾモさんはまだ帰ってきてないのですね。わかりました」


 それもそうだと思った。あれからまだそれほど時間も経っていなかったし、仕事が残っている可能性のほうが高い。


 私は会釈して、帰ろうとした。


「待って、主人に用があるなら中で待っていていいのよ。今ちょうど夕食も作っているの、よければ食べていかないかしら?」


 彼女は寂しげに見えた。表情はいたって普通で笑みを浮かべている。けれど、声音が少しだけほんの少しだけ震えているように思えた。


「わかりました。お邪魔でなければ……」


 彼女は強く頷いて、扉を大きく開いた。


「どうぞ」


 私はダイニングに通された。家の中はとても質素で木製の椅子が四つ並んでいる。一つだけ子供用の椅子が隅にあった。


 彼女は鍋に火をかけ始め、ゆっくりと混ぜている。


「そこに座っていてね。もうすぐ夕食ができるから、二人で先に食べちゃいましょう」


 彼女はにっこりと笑って指先を唇に当てた。その指先には白い布が巻かれている。わずかに赤色が滲んでいた。


「ああ、これ? さっき切ってしまって。あまり慣れてないから」


 私の視線に気づいた彼女はそう言った。


 エゾモの家ではいつも料理はエゾモが作っていると言っていた。


「本当にお客さんなんて久しぶり……主人も最近は帰ってくるのが遅くて……今日はあなたが来てくれて嬉しいわ」


 この家はとても質素でパッとしないけれど、部屋には外の光がたくさん入ってくるから明るい。どれだけ質素でもどれだけ地味でも私はここがいい家だと思った。今も昔も私の家はこんなに明るくなかった。


「ナキさん、でよかったかしら」


 彼女が言った。


「はい、ナキです」


「あの人から聞いていた通りとてもきれいなお嬢さんね。私はラナよ」


 それから彼女はしばらく鍋の中をかき混ぜていた。


 私はその後ろ姿を見て少しだけ母のことを思い出した。


 幼い頃の記憶、私が唯一覚えている旅の記憶だった。


 両親と一度だけ遠出したことがある。列車に乗ってこの街から西に向かっていたことしか覚えていないけれど。


 それは私の身体のことを誰も知らなかった頃で私もあまり自分の見た目を気にしていなかった頃だった。だから、それは私にとっては良い思い出だ。見たこともない道の端、廃墟の黒い煉瓦の塀の上で一人空を見上げていると母は心配そうにこちらを見た。


「天使みたいだわ。一人でどこかに飛んでいってしまいそう」


 母はそう言って私のことを撫でてくれた。


 私は嬉しい気持ちで遠くの森を見た。青々とした森の中にはいろいろな生き物が楽しげに生活している。そんな妄想を膨らませていたと思う。


 あの森には大きいイチイの木があったことを記憶している。


 記憶の中には優しい母がいて笑っていた。ただ、今はそれよりもサナギのことを強く思う。その森の向こう側にはサナギたちがいたかもしれないと。森の中で他の動物と楽しく過ごしていたかもしれないと。


 私はすぐにでもサナギを助け出さなければならないと強く思う。けれど、サナギを助け出す方法がわからない。一つだけできることはエゾモに本当の元凶、マテラの存在を知らせることだった。


 私にはラナの作る料理もまた美味しそうに見えた。トマトが入ったスープを器に入れて私の前まで持ってきてくれる。


「正直、自信はないんだけどね」


 ラナははにかんでパンを切り分けた。


「とても美味しそうです。ありがとうございます」


 私とラナはテーブルの前に座って早めの夕食をとった。


「最近、あの人は帰るのが遅いから先に食べてしまいましょう」


 私は早速パンに手を伸ばし、スープにそれをつけた。スープにはトマトやジャガイモ、ニンジンなどが入っていて、具材はどれも煮崩れしている。私はそれを口に入れた。パンはサクサクに焼かれていて美味しかったのだけれど、スープは酸っぱいような甘いような変わった味がした。


 手を止めた私を見て彼女は「美味しくない?」と心配げな目をする。


 私は首を横に振って、飲み込んだ後、「美味しい」と言った。


「無理はしないでね」


 彼女はとても美人だけれど、料理は本当に苦手なようだ。


 私はダイニングの西側の壁を見た。そこには子供が描いたような絵が飾られていて、三つの黄色いものが並んでいた。


「あの絵は?」


 ラナは俯いて「娘が書いたの」と言った。


 私は言わなければ良かったと後悔したけれど、ラナは「いいのよ」と笑った。


「あの子が最後に描いた絵なの。苦しんでいる中で絵が描きたいって言ってね。それであれを描いてくれたの」


 それは太陽とその下に三つの何かが戯れているような絵だった。きっとこの三つのものはエゾモとラナとその子の姿なのだろうと思う。


「まだ一ヶ月しか経たないなんて信じられない。あの子が逝ってしまって、おかしくなりそうだったけど……あの人のおかげね」


 彼女はスープを口に入れて「人が死ぬのを見すぎたからなのかも」と呟いた。


「でも、あの人は少し変わってしまったかも……あんなに優しかったのに、最近はいつも怒っているようなの。あの絵を睨みつけながら汚い言葉を使っていたの。少し驚いた」


「エゾモさんは、復讐したいのだと思います」


 ラナは首を傾げる。


「どういうことかしら? 主人は何に復讐なんてしようとしているの?」


「病気を持ち込んだ人がいるって、エゾモさんは言っていました。だから、その人を探すために必死なんです」


「そんなの、そんなこと……今更だわ。だから、最近帰りが遅いのね。あなたにあったのもそのためなのかしら」


「それは……どうなのでしょう?」


 私は曖昧にしか答えることができなかった。


 それから、ずいぶん待ったのだけれど、エゾモが帰ってくることはなかった。


 ラナは「ごめんなさいね」と言い、私は「ありがとう」とだけ言った。


 私は帰り道、サナギとエゾモのことを考えた。夜の街で霧が辺りをいっそう暗くして街灯だけがゆらゆらと人魂のように揺れている。


 エゾモの私に対する優しい目とサナギに対する恐ろしい目、本当に一人の人間なのだろうかと思うほど二つは違っていた。


どうしてサナギは罪を否定しないのだろうか。サナギは確かにミュンクヴィズの一族なのかもしれないけれど、どうして自分のしていない罪に反論しないのだろう。


 サナギは何を考えて、なぜ頑なに口を開かないのか。エゾモのいいなり人形のようだった。私だってサナギが助けを求めてくれれば、どうにか助けようと思う。今でも助けようとしているけれど、サナギの目は誰も寄せ付けたくないかのようだ。彼は全てを受け入れているように見える。


 私は街灯の明かりを見ながら一人テムズ川にかかる橋を渡る。


 夜道を怖いと思ったことはなかったのだけれど、今は少し変わってしまった。いろいろな人に会って少しだけ夜が怖くなった。


「マテラ」


 私はあの人がとても怖かった。どんな人かわからない。顔だって見たこともない。けれど、あの声と瞳、そして雰囲気が私の知るどんな人にも当てはまらない。


 私はあの人が怖い。ただ私を襲った時あの人は震えていた。それだけが頭の中で引っかかっている。どうしてあの人は震えていたのだろう。


「誰の名前だい?」


 顎に手を当てながら前を向いて歩いていたので、後ろの人に気づかなかった。私が勢いよく振り返るとそこにはエゾモがいた。あんなに待っていたのにこんな道端で会うなんて変な話だ。


「どうしてこんなところにいるのですか?」


「今仕事が一段落してね。それよりこんな夜に出歩くのは感心しないね」


「私は、さっきまでエゾモさんの家で待っていたのですよ」


「そうなのかい? それは悪いことをしたね」


 エゾモは言いながら私の横に並んで歩いた。


「仕事帰りにしては、帰り道と反対ではないですか?」


「ああ、そうなんだけど……ここに用があってね」


 エゾモはあの優しい笑みを浮かべて言った。


「そうですか」


 彼はテムズ川の向こうを眺めていた。


 私は話題を変える。


「奥さんに会いました。とても美人でした」


「ああ、ありがとう。ラナはとても優しい。僕の自慢だよ。料理は全然ダメだけど」


「それは、そうですね」


「食べたのかい?」


「はい、スープを作ってくれました。嬉しかったです」


「ハハッ、美味しかったではないんだね」


 私が頷くとエゾモはほころんだ表情を引き締めた。川は街の光を反射してギラギラとしていた。


「昼間の話だけど、君を連れて行こうとしていたのは誰だい?」


 エゾモは慎重に言葉を選んでいるように見えた。


 私はすぐにエゾモを見つめて言った。


「そう、私もその話がしたくて。サナギは、あの人は悪人ではないです」


 エゾモは目を見開いてこちらを見た。街灯の光が水銀みたいにエゾモの瞳の中で動く。


「どういうことだい?」


「だから、他にいるのです。名前はマテラ、ミュンクヴィズの生き残りで、私を連れて行こうとしたのはその人です」


私は自分の知る限りを伝えようとした。


「私、その人に殺されかけて、だから……」


 エゾモはこちらを見ていた。けれど、焦点は合っていなかった。私の考えはすごく甘かったとその時気がついた。


「そうか……もう一人いたんだね。うん、それならそいつも処刑しなければならないね」


 エゾモは顎に手を当てうんうん頷いた。


「いえ、違います。だから、サナギは何もしていなくて。わかっていますか?」


「ああ、わかっているとも、で、悪いのはあのサナギという男ではなく、そのマテラとかいう人なんだろう? でもね。それじゃ、ダメなんだよ。ミュンクヴィズの生き残りであることは変わらないんだから、殺してしまわないと誰も安心して眠ることもできないじゃないか。そうだろう?」


 エゾモは薄く笑みを浮かべて、川下の霧がかる空間を指差した。あの辺りにはフォルミード倉庫がある。


「あそこに、あそこに娘がいるんだよ。僕は、僕はね。これ以上、罪のない人間を死なせることはできない。だから、彼らは絶対に殺さなければいけないんだよ。わかるだろ? 彼らは生まれながらに罪を負っているんだ」


 生まれながらの罪などあるわけがない。それを言ったら私だって生まれながらにして罪を負っていると思う。


 エゾモの目には何も見えていないのだと思う。彼は私を見ているようで実のところはずっと遠いところを見ている。


「誰も生まれながらに罪なんて負ってません。なんて酷いことを言うのですか!」


 エゾモは私の肩を摑んで言う。


「なぜわからないんだ。君も両親を、友人を失ったんだろ? それなら彼らが憎いはずだ……いや、そうか。君は自分が死なないことを知っているから……」


 エゾモは私の肩から手を離してよろけるように後ろに下がった。エゾモの私を見る目はそれまでのものとは全く違っていた。まるで他の生き物に向けるような、私の両親が私を見るときの目、他の大人が私を見るときの目と全く同じだった。


「私に友人なんていませんでした。両親だって誰も……どうでもいい」


「え?」


 エゾモはこちらを見てキョトンとしていた。


「だから、私は人が嫌いです……」


 エゾモの顔はとても歪んでいた。彼も他の人と同じで私を区別している。


 私はその場を離れることにした。人のいないところに、自分のいるべきところに帰ることにしたのだ。


 暗い霧の中で、月明かりと街灯だけが輝いていた。

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