ナキ第2話
テムズ川沿いにある小さな雑居ビルの二階に私は住んでいた。
病院からの帰り道冷たい風とともにニシンの腐ったような生臭さが漂っていて私はサザーク橋の欄干から川下のフォルミード倉庫を眺めた。フォルミード倉庫は赤茶けた煉瓦作りの一軒家ほどの建物だった。
「やっぱり嫌な臭いだな」
隣には誰もいない。けれど私は一人呟いて橋の上に落ちていた小石を蹴った。
誰もいないサザーク橋の南端から一台の赤いバスが北へすごい勢いで走っていった。
人の気配が消えていくこの街で私だけが一人取り残されてしまったみたいだ。
「ナキ」
フォルミード倉庫に小舟が一艘入っていくのが見えた。あの小舟が何を運んでいるのか。この街の人なら誰もが知っている。
「ナキ」
私は蝉のように低い声で名前を呼ばれていた。私の名前を知っている人はもうほとんどいない。だから、振り返らなくても誰かはわかった。
「サナギ……」
私はそう呟いてから振り返った。そこには大きな身体のサナギが目を細めて立っていた。前と違って彼は色眼鏡をかけている。だから、今は瞳の色がわからない。
「また会いました」
私が言うと彼は悲しそうに頷いた。
「君はまたこんなところで」
「散歩です。人のいないサザーク橋なんてめったに歩けないから」
サナギはすぐに「帰りなさい」と言った。けれど私はそれを無視して話を続けた。
「そういえば、この間の上着、濡れてしまったので洗ってあります。サナギの家までよかったら持ってきますか?」
サナギは私の言葉には全く答えず、再び「帰りなさい」と言った。
彼の強引な物言いに苛立った。
「どうして? サナギだって、外に出てますよ。人にお説教はできないはずです」
彼はため息を吐いて、伏し目がちに私を見た。
「俺は自由では、ない。街の中は危ないから、だから帰りなさい」
サナギはそれ以上何も言わなかった。
「私はもう自由です」
私は彼から逃げるように走った。絶対に振り向いたりはしないと心に決めて一目散に自分の家に向かった。そして、サナギが追いかけてくるかもしれないと少しだけ期待していた。でも私が家の中に入って扉の前に立っていても一向に扉をノックする音は聞こえなかった。
私はそれからベッドで横になって少しだけ開いた窓から空を見た。今日の空はとても青かった。どうして私の家はこんなにも薄暗いのだろう。
キッチンの方に目をやると椅子にかけられたサナギの黒い上着が干物みたいにカラカラになって垂れ下がっている。テーブルには食べかけのパンが転がっていて、流し台にはスプーンとフォークが乱雑に置かれていた。部屋の中には灯りもなくて薄暗い棺桶の中にいるみたいだ。
サナギが言ったように確かに今この街は危ないのかもしれない。でも私にはあまり関係がないと思った。
ただ関係がなくても死ぬことはあるかもしれない。このまま一人で生きていればどうなってしまうのだろう。
「私もお母さんやお父さんと同じように死んでしまうのかな……」
同じようには死ねないことはわかっていた。けれど死ねば全部同じかとも思った。
コンコンッ
ドアをノックする音が聞こえた。
心臓の音が大きくなるのがわかった。サナギが来たのかもしれない。そう思うだけでこの部屋の空気が新鮮なものになった。
私は立ち上がって扉の前まで走り出した。
「あのー、わたくし予審判事のエゾモと言います」
扉の向こうからは少し高い男の人の声がした。サナギではなかった。
私は扉を開けてその人の顔を確認した。その人は黒いローブを羽織って、カラスの嘴のような長く尖ったマスクを着けていた。顔は見えず不気味だった。まるで鳥と人間を合わせた動物のような出で立ちだ。
私の顔を見て彼は慌てたようにそのマスクを取った。
「ごめん、ごめん。これじゃあ、怪しい人だね。申し訳ない。私はエゾモと言います」
マスクの下には青い瞳と優しそうな男の人の顔があった。短く切り揃えられた金色の髪も清潔で不気味さなんて少しもなかった。
「何か、ご用ですか?」
その人は恭しく頭を下げた。
「失礼、突然の訪問お詫びします。ただ少しだけあなたにお訊きしたいことがありまして」
私はその人を家に招き入れた。不用心だと両親がいれば言われるかもしれないけれど今更そんなことは気にしない。ただ家の中に人がいるというだけで少し落ち着く気がする。
「聞いた通りの姿だ……いや、失敬しました。君だけがこの街を救う唯一の希望だと伺っています」
薄明かりの中彼の青い瞳には鉛色の光が映っていた。
「大げさです。私には何もできませんから」
「君の力があればきっとこの街は救われる。多くの人が君に希望を寄せているはずだ」
そんなことは嘘だ。他人は私を好奇な目で見てくる。そこには賛美も称賛もない。私は病院に行って血を抜かれながら日々を過ごしているだけだ。
「致死性の高いあの病、フェレスに対する抗体を持っているのはこの街で君だけだ。この数日の間だけでもどれだけの死者が出たことか……」
その人は床に目を落として呻くように言った。
数ヶ月前この街に悪魔が舞い降りた、と街の人はみんな言っていた。けれど悪魔なんて見たこともないからこれが例えだということは知っている。でも今は目に見えないからこそ悪魔なのだとも思う。
この街に舞い降りた悪魔はとても微細で人間の瞳には映らなかった。その病を人々はフェレスと呼んだ。文字通り悪魔から取られた名前だ。彼らは人間の体を蝕んでいき、紫色の斑点を浮かび上がらせる。その紫色の斑点が全身に浮かび上がってくると人々は泡を吹いて、赤黒い血を吐き絶命する。私はその光景を二度見た。一度目は母親が亡くなる時、二度目は父親が亡くなった時だ。
私は幼い頃から病気にかかったことがなかった。体温が上がって辛くなったり、咳をいっぱいして苦しくなったりしたこともなかったのだ。だから、幼い頃プライマリースクールの友達が病気で苦しんでいる時も私は微笑みながら「遊びに行こう」と言ったことがある。
幼い私には病気というものがわからなかった。
エゾモと名乗るその人は長いローブの裾をただして、ダイニングチェアに腰掛けこちらを見つめていた。
「目の下に隈ができているね」
エゾモはその後「寝ていないのかい」と言い募った。
「寝ています。大抵は家にいますから、することもないので、寝てばかりです」
なぜそんなことを訊くのかと思った。少し図々しい。
「ご飯は? ちゃんと食べているかい?」
「ご飯は……作り方をあまり知らないので、いつもパンばかり食べています」
「そうか」
エゾモはキッチンの方を見てから、静かに立ち上がった。
「でも、それはダメだね。だから、そんな隈ができているんだよ。子どもはもっと食べないといけない。昼ご飯は?」
「まだです」
「何か作ろう」
「何もないのでいいです。私、自分でできますから……」
「遠慮しなくていいよ」
エゾモは立ち上がって、キッチンのそばで腕を組んだ。何かを考えているようだった。食材なんて、卵とオニオンが一つ他にはチーズとジャガイモが棚の下にあるだけだった。
「とりあえずは食器を綺麗にしないとね」
「そんなことしなくても……」
エゾモは「やりたいんだ」と言って笑う。
エゾモが蛇口をひねると錆色の水が流れて、私はいつぶりに蛇口をひねっただろうかと思った。しばらく水を出し続けると水は透明になった。エゾモはゆっくりと食器を洗い始める。
「君は人見知りかな?」
「そうかもしれません。でも、話すのは嫌いではないです」
エゾモは食器を洗いながら言う。
「それなら、良かった。いやー、ね。僕にも娘が居たんだよ。だから、つい世話を焼きたくなってしまう。君はいくつだい?」
「十四です」
「そうか、僕の娘も大きくなっていれば、君みたいに愛らしく育ったかもしれないな」
屈託のない顔で彼は微笑んでいた。その表情が彼の本心かはわからない。
洗い物を終えたエゾモはフライパンにラードを乗せた。
「娘さんは何歳なのですか?」
「五歳だった」
エゾモはオーブンを開けながら言った。
「……でも、つい先日だ。ハハ、フェレスにやられてね……だから、食事を作ることも減って。最近は出来合いのものばかりさ。妻は料理が苦手でいつも僕が作っていたんだ。だから……期待してくれていい」
振り向くエゾモはとても哀しげに笑っていた。
病が街を狂わせていく。私だけは何も変わらないけれどこの街ではこの人のように哀しげに笑う人がとても増えた。私はこんな風に笑う人を見るととても虚しくなる。私の身体は何の役にも立っていないという気がする。私の血からフェレスの特効薬ができると先生は言っていた。けれど本当にそうなるのだろうか。
卵の焼ける音とチーズの焦げる匂いが漂ってきて、思わず私は息を飲んだ。こんなにいい匂いを嗅いだのはいつぶりだろう。
エゾモはオーブンから焼けたジャガイモを取り出して器に乗せた。ジャガイモの上にはチーズがたっぷりとかかっていて、とろりと溶けている。その上から半熟の卵を乗せてテーブルの上に置いた。棚の上にあったパンを切り分けて私の前に置いた。
「この材料じゃ、これが限界かな。期待はずれかもしれないけど」
私は首を振った。髪の毛が左右に揺れて頬に何度か当たってくすぐったい。
「とても……美味しそうです」
エゾモは笑って「召し上がれ」と言った。いい人だなと思う。食べ物で懐柔されるなんて動物みたいだと自分に呆れてしまう。
エゾモと私はダイニングテーブルに向き合って座っていた。パンを食べる私をエゾモはその青い瞳で見つめている。その瞳の中には相変わらず窓の外から入る鉛色の光が映ってゆらゆらと揺れていた。
「食事中だけど、さっきの話、本題に入らせてもらってもいいかな?」
エゾモは少しも笑わなくなってテーブルの上で指を組み目を細めた。
私はゆっくりと頷いた。
「病気にかからないなんて本当のところは信じられなかったけど、君の姿を見て考えが変わったよ。悪い意味ではないんだけど、何て言うのかな、神秘を目の当たりにした感じだ。だから、そういう人間もいるんだと今は思うよ。ここからが本題だけど、この街に降りかかった悪魔は一体どこから来たのか? そんなのわかるわけがない。最初はそう思った……僕は怒りをどこにぶつければいいのかもわからなかった。娘は自然と言う名の神に殺されたのだと納得しようと努めていたけど、違ったみたいだ」
エゾモは俯いて言った。私はパンを皿の上に置いて次の言葉を待った。
「最近、怪しい人間に会わなかったかい?」
エゾモは顔を上げると瞳を鉛色に光らせながらこちらを見る。
「会っていません。強いて言うなら……今日、鳥のような人を見ました」
「ハハッ、僕のことかい? 確かにあれは怪しかったかもしれない。驚かせて悪かったね」
頭に手を当てエゾモは何度か笑った。それからまたこちらをまっすぐに見る。
「うん、冗談で訊いているわけではないんだけどな。僕のことは置いておくとして、もっと、そうだな……変わった瞳の色をした人と会わなかったかい?」
「どんな瞳の色ですか? この国にはいろいろな瞳の色をした人がいます……ほら、青い」
エゾモは自分を指差した。
「うんうん、僕は青い瞳だ。君の瞳は……君の瞳の色は珍しいけど、僕の色は他にも大勢いるだろう。でも見たこともない色の瞳、例えば……そうだな。もっと不自然で鮮やかな色だよ」
「紫色とかですか?」
「そう、そんな感じだ」
「どうしてそんなことを訊くのですか?」
「ああ、そうだね。まず理由を説明すべきだった。ごめんね。つい癖で、君みたいな子を勘ぐるようなことをすべきじゃないな。職業がら質問をすると尋問みたいになってしまう。悪い癖だ」
「気にしてませんから」
「ありがとう。実はね。僕も噂話だと思っていたけど、病の原因について。感染経路っていうのかな? 一昔も前の話ではないけど、ネズミやノミが感染経路ってわけではない。フェレスはあるものが運んできたって話でね」
「誰から、ですか?」
「それがね。人間なんだよ。人から人へなんてよくある話だけど」
エゾモは口元に微笑みを浮かべていた。
「誰かが外から持ってきたということですか?」
「そう、だけど普通の人間じゃない。聞いたことくらいはあるかもしれないけどミュンクヴィズの一族の生き残り、罪人の残り滓がこの街に病原菌を運んできたんだよ」
エゾモの声には静かな怒りが滲んでいる。
『ミュンクヴィズの一族』、聞いたことくらいはあった。もう十年以上も前の話だから、これは本で読んだ知識だ。昔からこの国の西部には広大な森が広がっていて、そこには街の人たちには想像もつかないほどたくさんの動物や植物が生きていた。その森の中にミュンクヴィズの一族と呼ばれる人々が暮らしていたという。ミュンクヴィズの一族にはその閉鎖された環境で生き抜くための能力があったとされているのだけれど、私はそれがどんなものかは知らない。
「だから、僕はその人間を探し出さなければならない。ミュンクヴィズの一族は変わった瞳の色をしているといわれている。どんな色かまではわからないけど、その人間が意図的にフェレスを引き起こしたのだとしたら、きっと君に接触してくるだろう。なんたって君はあの病に唯一耐えられる身体を持っているんだから」
エゾモは熱に浮かされたような目をして立ち上がった。
私はサナギの紫色の瞳のことを思い出した。彼の瞳は確かに変わっていたけれど、彼はきっとミュンクヴィズの一族ではない。ミュンクヴィズの一族はもっと恐ろしい人たちだといわれているし、エゾモの言うことが正しいならサナギが私に「帰りなさい」なんて言うはずない。だってそれは私を気遣っての言葉だと思うから。
「君もできれば外出はひかえたほうがいい。奴らはどこから来るかわからないからね」
そう言ってエゾモは住所を書いたメモをテーブルに置いた。
「ここは?」
「僕の自宅だよ。いつでも来てくれて構わない。客人なんて久しく来てないから、きっと妻も喜ぶ」
エゾモはそのままあの不気味な鳥のようなマスクを被ってドアノブに手をかけた。
「それ、似合ってないので、着けない方がいいですよ」
エゾモは少しだけ声を出して笑った。
「気休めだけど、妻を残して死ぬわけにはいかないからね。これで少しでも予防できるなら可笑しくたって構わないさ」
エゾモが扉を開くと陽の光が差し込んできた。エゾモはその光の中に消えていった。
「君もご飯、しっかり食べなよ」
そう言うと扉は閉ざされた。部屋の中は再び薄暗い棺桶に戻ってしまったようだった。
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