ナキ第1話


 あの日のことは忘れられない。


 彼と出会ったのは街が灰色に煙るような雨の日のことだった。


 誰かの声が聞こえてそちらを見ると彼が薄く目を開けていた。どこを見ているかはわからなかった。


 私は路地で蹲ったまま彼を眺めた。向かいの路地で彼は赤煉瓦の壁にもたれかかり疲れたように空を仰いでいた。


 私にはその瞳が紫色に輝いて見えた。


 通りを歩く人の姿は一つもなくて、もちろん路地にも私と彼だけ。


 二人で冷たい壁を背にして霧のように細かい雨が降りしきる空を見ていた。


 彼の身体はとても大きくて雨に打たれてもぜんぜん寒そうではなかった。私はこんな雨でも震えてしまうほど寒く感じるのに。


 彼の足元には小さな綿毛のような、植物のようなものがいくつも見えた。色鮮やかなそれは深い森の中に息づく花のようでもあった。彼の足下にだけ芝生のようにそれらが広がっていた。不思議な光景でとても綺麗だった。


 彼も私に気づいたようだった。彼の大きく見開かれた瞳は間違いなく紫色をしていた。


 私は軽く会釈した。


 彼はゆっくりと向かいの路地からこちらの路地に移った。


 何も言わず、私の肩に黒い上着をかけた。それはすごく大きくて重かった。


「あなたはどうしてこんなところにいるのですか?」


「君こそ」


 彼は蝉のような低い声で言った。


「なんとなくですかね。家には誰もいないし、それに病気なんて私には関係ないので」


 私は自嘲気味に言った。


 彼はこちらを見下ろしている。やっぱり私より一回りも大きい。無造作に伸ばされた髪の奥で紫色の瞳が街灯の薄明かりを映して綺麗だった。


「俺も、俺も同じようなものだ。でも、雨だ。身体が冷えるから外に出るべきじゃない。だから、家に帰りなさい」


 私は頷かなかった。


「大丈夫です。ひとりですから……心配する人もいませんし」


 私が言うと彼はゆっくりと目を閉じて、雨の音に聴き入るかのように俯いてしまう。


 彼の睫毛は綿毛のように繊細で長かった。


「君にはあの時計台が何色に見える?」


 彼は突然時計台を指差して言った。高くそびえるそれは灰色で冷たい感じがした。


「……灰色に見えます」


「そうか」


 彼は悲しげに目を伏せた。どうしてだかわからない。だから、何か言葉を繋ごうとして、慌てて言った。


「あなたの名前はなんですか?」


 彼は黙っていた。黙ったままどこか遠くを見ているような、何も見ていないような目をしている。不思議な人だと思った。


「あの、聞こえてますか? 名前は?」


 彼はゆっくりと私を見下ろした。


「サナギだ」


 彼は薄く目を開けて言った。


「変わった名前ですね」


 私は少しだけ笑って、それから彼の目を見る。


「瞳がとても綺麗な紫色をしています」


 私の言葉に彼は俯きがちに「そうかい?」と言って笑った。その顔はあまり楽しそうでも嬉しそうでもなかった。ただ私は少しだけ嬉しかった。


「君の名前は?」


「ナキです」


「君こそ変わった名前だ」


 そうかもしれない。


 私も彼も灰色の雲に覆われた空を眺めている。目の端には暗い住宅の壁と高い時計台が見えた。それらは悲しくなるほど灰色で世界の全てが色を失ってしまったみたいだった。


 ただ、彼の瞳だけが綺麗な紫色をしていた。

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