第5話

 そうして今の私がいる。記憶は掠れかけていたけれど、何とか思い出すことができた。

 セリオスが姿を現さなくなってから、一体どれほどの時間が経っただろうか。

 私にはもう、全く分からなかったが、とにかく私は牢獄の中で座って、ただ生きていた。雲の上は気が触れそうな程に静かで、しかしだからこそ、魔法の探求にはうってつけだった。

 その時の私は、魔法でできることはおおよそ何でもできるようになっていたから、どうにかすればこの牢獄を出られそうな気はしていた。しかしもはや、この牢獄から出る気がほとんど無くなっていた。

 

 私が地上にいたのは、もはや何千年も前の事だ。今更地上に降りたところで、誰も私の事を知らないし、私も誰のことも知らない。私は不老不死だから、彼らの中でまともに生きていける気もしない。

 例えば地上で新たに友を得たとしよう。しかしエルフの寿命は、たかだか三百年ぽっちである。とても私は、彼らと同じ時間は生きられないだろう。私は彼らが死ぬ所を何度も何度も見ることになるだろうし、ひょっとしたら、私の不老不死を欲しがって攻撃さえしてくるかもしれない。

 だから私は地上に降りたところで、今と同じ様に、孤独に生きるしか無い。いや、むしろ孤独がいい。私は牢獄の生活の中で、孤独の静寂を愛せるようになっていた。こんな偏屈なエルフが他と交わったところで、上手くいく筈もないだろう。

 

 ふと私は思い立ち、暇つぶしに魔法でこの牢獄の中の法則を歪め、傷をつけた。たちまち牢獄の格子はボロボロになり、一本が折れる。

 今なら外に出て、どこへでも飛んでいけるだろう。しかし私は立ち上がる気にならず、牢獄の法則を戻した。格子はすぐに元の姿に立ち帰り、折れた一本も修復された。

 この牢獄には『脱出不可』の法則が強固に定められている。恐らくセリオスがそうしたのだろうが、今の私なら簡単にその法則に干渉し、ぐちゃぐちゃに歪める事ができた。これは以前、セリオスの歪んだ霊魂を覗き見た時に思いついた方法だった。


 こんな事ができるなら、神々は自らに『不老不死』の法則を定めるだけでよかったんじゃないかとも思ったが、無機物に法則を定めるのとは全く訳が違う。生命体の霊魂に干渉して、思う通りに弄ることはとても困難である。下手をすれば自滅するだけだ。

 恐らく神々はそれができなかったから、生命の樹の実を使うことにしたのだろう。もちろん、その実は私が横取りしてしまったのだけれど。

 しかし、それができないのに神を名乗るなんて、少々大げさなんじゃないかとも思う。彼らができる事は、今や私にもできる。


 神々はもう、滅んだ。いつからだろうか、彼ら独特の気配を感じられなくなっていた。いつも世界に満ちていた神聖さとでも言う空気が、失せていたのだ。

 残された地上のエルフ達はきっと慌てただろう。もしかしたら、とっくに竜に滅ぼされてしまったのかもしれない。神々の力が無ければ、どれだけエルフが軍勢をなして立ち向かおうと、とても本気の竜の力には敵わないだろうから。

 もはや私には関係が無いことである。ただ、生命の樹が失われたその時が世界が終わる時だと言うのなら、私の終わりが近づいたと言う事だ。それは嬉しいことなのか、それすらも私にはもう、分からなかった。

 

 その時、牢獄の外に、誰かが立っている事に気付いた。

 

「やっほ。生きてるぅ?」


 耳障りの良い声でそう言ってきたのは、小さな女だった。腰まで伸びた黒い髪と、黄色い奇抜な服に身を包んだ少女だ。耳が尖っていたが、肌は日に焼けすぎたかのように浅黒い。

 エルフに近いが、やはり明確に異なる。それは神々の姿であったが、この少女からは神独特の気配を感じられなかった。


「誰だお前は。神ではないな」


 私がそう言うと、少女はニマッと笑った。

 それは何だか気色悪い笑いだった。気に入らないと言っても良い。だからと言って、すぐに魔法で殺そうとするほど、私は血気盛んなエルフではなかったが。

 

「私はリリアナ! 邪神だよ!」


 邪神。その姿を見たのは当然、これが初めてだ。

 邪神とは、堕ちた神々の事だ。元は神だったが、何かしらの罪を犯して神々から力を奪われた上で追放された、邪悪な神。確か、地上に縛られて二度と空に上がることはできなかった筈。

 それが何故、こんな天上にいるのだろうか。

 

「どうしてこんな所にいる。お前たちは罪を犯し、その罰で地上に縛られるのではなかったか」

「まぁそれはいいじゃん! 私は君をここから出してあげる為に来たんだよ!」


 黄金色の大きな目を爛々と輝かせ、邪神リリアナはそう言った。

 何だか得意げだったが、私はここから出る気が無い。そもそも出ようと思えば自力で出られる。

 

「ここから出る気はない。さっさと帰ると良い」

「えー! そんなのおかしいよ! 地上はとっても楽しいことになってるのに! ほら、今から開けてあげるから!」


 何だこの邪神は。全くこっちの話を聞かない。リリアナは牢獄に手をかざし、魔法を使った。

 牢獄の法則を歪めるつもりだろうか。よく見ていると、それとは違うようだった。牢獄が唯一認める例外、つまりそれは鍵のような、何かを使って牢獄を開けようとしている。

 だから私は、魔法を使って牢獄を更に硬く閉ざした。来るのが数千年遅いのだ。


「えっ開かないんだけど。なにこれ? なにしてんの!?」

「出る気は無いと言っただろう。余計な事はするな」

「いやいやいや、そういうのいいからさ、早く出ようよ! 出してあげるって言ってんの!」


 何がいいのか。しかしリリアナが言ったことで、少し気になる事もある。

 地上は何やら、楽しい事になっているらしい。


「地上はどうなっているんだ?」

「ふっふっふ。それは見てからのお楽しみだね。だから早くこれやめて?」


 リリアナはあれだけ得意げに出してあげるだの宣っていた癖に、今は手を合わせてそう言っている。どうやら鍵を用いた手段しか用意していなかったらしい。

 仕方がないので、私はため息を吐いて牢獄の法則を破壊した。甲高い、何かが割れ砕ける音が響いた後に、たちまち牢獄は消えて私は雲の上に着地する。

 数千年ぶりの自由だった。特に感慨はない。


「はぁ!? 自分で出れたの!? なにそれ!」

「出る必要性を感じられなかったから出なかっただけだ」

「なにそれ変態じゃん!」


 失礼な邪神である。確かに変だと言うことは自覚しているが。リリアナは邪神の癖に、その姿と同じ様に子供っぽい奴だった。

 私は喚くリリアナを無視して、一歩踏み出してみる。歩くという行為は、とても、とても久しぶりの事だった。少し覚束なかったが、なんとか歩けるようだ。すぐに慣れるだろう。何なら飛んだっていい。


「まぁいいや。君は自由の身だよ、アリアンドール! おめでとう! 私のおかげだね!」


 リリアナは手をパチパチと打ち鳴らし、拍手した。何もお前のおかげではないが。

 しかし、何故こいつは私の名前を知っているのか。私はこいつに自分の名前を教えた覚えはない。霊魂を覗かれた感覚も無かった。


「何故私の名前を?」

「どうでもいいじゃんそんな事! ほら行くよ! いざ地上へっ!」


 リリアナは満面の笑顔でそう言いつつ、私の手を取る。立ち上がって見るとよくわかったが、リリアナはとても背の低い邪神だった。本当に子供のようだ。

 数千年ぶりに触れた他人の手は、とても暖かかった。

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