第2話

 私が雲の上の牢獄に囚われてから数日は経っただろう。それだけの太陽と月を見た。

 私はあの樹の実のことを、少しだが理解し始めていた。

 何せ全く空腹感がない。魔法を使って自害を試みても、どこにも全く傷がつかないし、首を絞めても息苦しいだけで全然死なない。金属で構成されているのだろう牢獄の黒い格子を全力で殴りつけても、拳には痛みだけが残るだけで、何の損傷もない。

 つまり生命の樹の実とは、そういう物だったのだ。

 食した者に不死の力を与える樹の実である。

 

 きっとあの実は、神々の宝だったのだ。私は不遜にもそれに手を出し、あまつさえ噛み砕いて食した。だから神々の怒りを買ったのだろう。

 だがそれにしたって、寿命が尽きるまで牢獄に入れられる程の罪なのだろうか。ただ頑丈になって、傷では死ななくなっただけだ。

 

 そこまで考えた私は、もう一つの可能性に思い至った。

 『君は天上の牢獄に入り、この世が終わるその時まで出ることはできません』

 それは背に翼が生えた神が私に宣告した言葉。


 まさか私は不死であると同時に、不老なのだろうか。本当にこの世が終わるまで、ここから出ることができないのだろうか。

 私がその可能性について考えた時、私は本当に絶望するしかなかった。この牢獄の中から雲と空を見るだけの時間を、あと数百、数千、数万、ひょっとしたら億の年を数えるまで、続けなければならないのだから。

 ふと家族や友人や知り合い達の顔が浮かび、私はただ咽び泣いた。それが終わると、私にあまりにも重い罰を与えた神々に対して激しい怒りを感じた。そしてそれも暫くすると、莫大な悲しみに転じた。

 最初の何年か、私はずっとそうしていたと思う。そうするしかなかったのだった。

 

 やがて、私は暇つぶしの為に魔法の探求に没頭した。狭い牢屋の中でできることは独り言か、魔法の探求しかなかった。

 私は幼い頃に魔法の才能を見出された時、将来は王宮に仕える偉い魔導師になるのだと、育ての親に言われていた。

 だが、もはや涙は流れなかった。

 

 それから私は、時間の流れを忘れてひたすらに魔道を進んだ。その先にこの牢獄から脱出する手段を求めたからだ。

 膨大な時間を費やした私が、遠い昔にかつて見た、王宮の筆頭魔導師の魔法よりも練り上げられた魔法を放っても、牢獄に傷ひとつ付けられなかった時は、また絶望に襲われた。まだ足りないのかと。

 さらに魔法を磨き上げても、やはり牢獄はビクともしなかった。

 

 しかし諦められなかった。どうにかして故郷へ帰るのだと。もはやそれだけが私を正気に保つ拠り所だった。

 吹き荒れる風の斬撃を放ち、内部から物質を崩壊させようとし、空間を跳躍しようとし、肉体を諦めてせめて霊魂だけでも脱出しようとも試みたが、全て無駄だった。

 この牢獄は、絶対に脱出できないように造られていた。

 

 そうしてとうとう私は狂った。

 空想の人物と会話する日々を過ごす様になった。それは家族だったり、友人だったり、また完全に一から作り上げた人物だったりした。

 私が絶対にこの牢屋から出て会いに行くと言えば、空想の相手は口々に応援してくれた。

 

 そうしていたある日、私はいやにはっきりとした空想を見た。

 

「やあ、エルフ。気分はどう?」


 牢獄の外に、人影が見える。

 それはかつて、私に罰を宣告した、背に翼を生やした神だった。


「やあ、会えて嬉しいよ友達。私はとても元気だよ。今日は何をして遊ぼうか。雲取りゲームはそろそろ飽きたな。何が良いかな!」


 私はその時、とても元気だったように思う。いつになく現実的な友人との会話に、少し興奮していた。牢獄の格子に掴みかかり、顔を目一杯外に近づけ、笑顔を浮かべた。

 ちなみに雲取りゲームとは、周囲に見える雲を指して互いに『あれは自分の物』と言い合うゲームのことである。暇つぶし以上の意味はない。

 私の様子を見たその神は、腰まで伸ばした長い金髪を揺らし、首を傾げて苦笑した。


「ううん、これはもう駄目かなぁ……今日は君と話をしにきたんだけど」

「それは良い。何の話をしようか。何でも良いよ」


 友達が、私と話をしたがっている。その時の私は、ただそのことに嬉しさを感じるだけだった。


「そうだねぇ。そこに君が入ってから、今で丁度千年になる。なんだかめでたい気がするから、私に言いたいことがあるなら、言ってもいいよ」


 そう言われて、私は突然にかつての怒りを思い出した。すぐさま魔法を放ち、神の頭を爆発させた。

 千年。千年と言ったか。私は千年もの間、ここに置き去りにされていたと言うのか。やはり私は不老なのか。この世が終わるまで、ここにこうやっているしかないのか。

 そしてこの哀れな私の前に、のうのうと姿を現したか。


「死ね、死んでしまえ。呪われろ。ここから出せ! 死ね! 死ね!」


 何度も何度も魔法を放ち、神の体を上から細かく切断していく。しかし神の体から血が飛び出る事はなかった。それでも私はつま先まで切断し、最後に大きな爆発を浴びせて消滅させた。

 牢屋の周囲に魔力の奔流が暴れ狂い、この牢屋が置かれた雲以外の雲は、すべて吹き飛ばされた。

 そして瞬きを一つすると、目の前には変わらず背に翼を生やした神の姿があった。

 

「素晴らしい魔法だ。いやいや、凄いよ君。千年もあれば、エルフはこんなに魔法が上手になるんだねぇ」

「死ね」


 私は再び魔法を飛ばし、神の体を砂に変えた。

 そして瞬きを一つすると、また神は魔法を受ける前の姿で目の前に立っていた。

 

「無駄だよ、私は滅ぼ」

「消えろ」


 魔の法を操り、神の体をこの世の外へ放り出した。神の体は消えた。

 そして瞬きを一つすると、やはり神は目の前に立っていた。

 私は何度も魔法を使った。しかし、やはり神は何にも無かったかのように立っていた。ずっと私は神に向かって呪詛を吐きながら、それを繰り返した。


「それで――そろそろ気は済んだかな。もう一年経ちそうだけど」


 私はずっと魔法を使って神を滅ぼそうと試みて、全て失敗したようだった。一年もの間そうしていたらしい。

 既に神を滅ぼす事は諦めていた。どうやら神は殺せるものではないらしい。

 

「おぞましい邪神め。私を見て笑いたいのだろう。笑いたければ笑え。私は貴様らの狭量を笑ってやる。ただの樹の実一つ食っただけで世界の終わりまで――そう、世界が終わるまでだ。世界が終わるまで、世界が終わるまで、世界が終わるまで! 私はここにいる羽目になったのだ。ハハハハハハハ!」


 その時、私は自分の境遇が愉快で仕方がなかった。こんなおかしな話があるのかと、心の底から面白かった。そんなにも愉快な気持ちになったのは、牢獄に入ってから初めての事だった。

 だって、たかが樹の実一つだ。その時の私には、それを食らう罪の重さを全く理解できていなかったから。


「ハハハハハハハハッ!」


 その時の私は一心不乱に笑いながら、何故か涙が止まらなかった。とっくのとうに涸れた筈の涙が、どうしても流れて止まらなかった。

 いつの間にか、神は消えていた。

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