無名にして有名
ことぼし圭
第1話
イリエと大きな声で呼ばれた時に教師に叱られたのかと思った。授業中にうたた寝をしていた自分が悪い。起きてすぐに返事をしよう。そう思い目を開けた。
目の前には装飾の施された円柱。大きな水盆には色とりどりの石が散りばめられている。テレビで見たような杖を持った珍しい服装の人が幾人も並び、祈りを捧げているように見えた。
名前は言える。言葉もわかる。背は少し縮んだようだ。歩けるし泣くのは早い気がして、イリエはなんとか涙を堪えた。案じるように背中を撫でる手は温かいので振り払えなかったが、知り合いではない。
知らない世界にいるのだな、と漠然と感じた。
それからというもの、イリエは泣くことなく成長していった。笑ったほうが解決できることは多い。おぼろげに覚えている元の世界だって、ホームシックの元になるだろう。違う世界で生きていくと腹をくくる選択は残っている。
鏡を見れば知らない髪の色の自分がいて、赤い髪が似合うのだな、とまんざらでもない気持ちにもなった。
そのくらい余裕があるのは、たぶん環境に恵まれたからだ。
自分が王族だったことに気が付いてからしばらくは、食事が喉を通らなかった。どうりで生活水準が高かったはずである。違う世界に来たわりには好待遇ではないだろうか。
そうして、おそらくは人生二度目の12歳になった頃、転機が訪れる。
「天属の誘いよ。新しく《紅の女王》になってみる気はないかしら?」
騎士の鎧など戦限りのもの、とでも主張するかのようにふわりとした桃色のワンピースを着ている少女は、紛れもない三騎士の一人である。
とんでもない世界のよくわからない常識だ。飲み込むのに苦労したが、三騎士は世界の中で映えぬきの九人のうちの一人だ。
彼女は自分がこの世界に来るずっと前から《銀朱の騎士》として彼女のいる地域や民を守っている英雄だ。不老不死とさえ言われる天属の特性が嘘偽りのないものだ、とイリエだって知っている。
「イリエ?」騎士は彼女の名前を呼んだ。
イリエというのは元々苗字だった。
それを名前として呼ばれる違和感は長く続いた。
自分の名前の一部であるためすぐに呼ばれているとわかりはする。
不自由さはない。だが幸運かどうかは怪しい。
この世界に来る前の自分の誕生日すら忘れてしまっている。家族も友達も飼っていた動物だっていたはずだ。卒業式の練習をしたのは覚えているから、12歳にはなっていただろう。確か国の名前は日本だったな。おぼろげな記憶に、イリエは時々一人で枕を投げて抵抗した。
殺されないように男として育てると言われた時も、同じことをした。羽根が零れて大変だったが、この世界の母は怒らなかった。病弱な人で、今はもういない。巫女だった母は祈りの部屋にそっと埋葬されている。
走馬灯があるなら今見ているものがそれだ。
イリエは過去に浸るのを止めた。そんなに長い人生でもない。まだ彼女には先がある。
「あんたとは守りたい国が違うんだけど。それに俺は男だし」
イリエはなけなしの自尊心を胸に断言した。多少は王子らしく見えるだろう。女だとばれればこの国では生きていけない思いをする。そう母からは説明された。
「空いている天位が、女王だったのが不満なの?」
そんなことはない。女王なんてなれるものなら一度くらいは経験したいものだ。ただ、これを言うと相手に不信感を与えるので得策ではない。末の王子としてイリエは言葉を選ぶ。
「天属になる機会を逃すつもりはねえよ、ただし」
鮮やかな赤いバラを一輪だけ持った少女は、花を差し出したまま、自分の返答を待っていた。受け取ったら是と取るという意味だ。
イリエはバラ越しに自分の魂色が見えた気がした。魂色を見て教えてくれる《森の魔女》の視点には立てないが、想像するのは自由だ。
少女も、《銀朱の騎士》と呼ばれるならば、赤い魂色をしているのだろう。
目の前にいる少女の瞳はイリエの髪と同じ赤い色をしている。
魂と体の色が揃うと天属に選ばれるという迷信は本当だったのだろうか。
開いたままの彼の口は、次の言葉を探している。
「ただし、その続きはなにかしら? イリエ・ヴァジノーム」少女はイリエをまっすぐ見て言う。赤い瞳の印象は、血よりもぶどう酒に近い。
「おいおい、もう決定事項なのかよ」耳慣れない名前にイリエは苦情を言った。これ以上名前が変わるのは勘弁してほしいが、仕方がないだろう。
男らしい言葉遣いもなれたものだ。脚本はないけれど、口から出てくる言葉にもう抵抗はない。
イリエは確かに自分の名前で、ヴァジノームというのは今立っている階層の名前だ。第二階層ヴァジノーム。それは、決して生まれ育った国や血の繋がっている王家の名前ではない。三つの国がある大陸と、広大な海で成り立つ大きな存在だ。
要約すると、彼女は自分に一つの階層を背負え、と言っている。
好待遇のアルバイト、だと思えばいいか。家の手伝いくらいしかしたことはないが、どうせならできるところまでやってやろう。
実際にどのくらいの重責かは知らない。座っていればいいだけでないことは確かだ。
イリエは少女を睨むように見た。視線はぶつかっている。
《三女王》は世界に三人。ちなみに《三王》も世界に三人だ。それぞれ各階層に一人ずつ、と決まっている。実際に今この階層の平和に尽力しているのは、《蒼の王》と呼ばれる美女だったはずで、会ったことはないが、年齢は数える気力を根こそぎ奪う程だ。一国の王ではなく、世界を平定する王とでも言うのだろう。
本当に世界の決まり事が多くて嫌になる。設定資料でも読んでいるようだ。自分にまつわる記憶は薄いが、食べ物の味や携帯電話の使い方は覚えている。ファンタジー小説のジャンルに異世界に行く話があるのも知っている。
自分の身に起きて納得できるものではない。順応性は低いし、時間がかかる。
イリエは、ばれないように深呼吸をした。
赤いバラは差し出されたままだ。
自分が役に立つかどうかは二の次だ。生きていくことをイリエは優先した。このまま成長すれば女だと知られる確率はどんどん上がっていく。
天属の立場はイリエにとって魅力的なものにしか映らない。ただの王族より、ただの王より、自分にとって特別な《紅の女王》の座だ。二度目であっても経験の少ない人生だ。望んでもばちは当たらないだろう。
「いいぜ。俺は今この時から、イリエ・ヴァジノームだ。やってやる」
ぱしっと奪い取るように赤いバラを持つ。散った花びらを自分の未来に見立てるのは目覚めが悪いので、それを振り切るようにぐしゃりと握りつぶした。気分としては、ざまあみろが適切だ。
「風格は後からついてくればいいけれど、その口調は部下の前では直して。それではいつまでも下に示しがつかないわ。軽んじられて損をするのはあなただけではないのよ。あと、無闇に相手を威嚇しないこと。小物の証拠にも見える」
「若輩者なもんで、すみませんね!」
やりとりに早速後悔して、ため息をついていると、騎士の剣が首筋にぴたりとあてがわれた。羽根よりも軽い剣だ。
「改めてくれるかしら」と少女の鈴の鳴るような声で再び言われたので、イリエはこくりと頷いた。
分が悪かったと思って納得しよう。
「善処します」とこの世界に来てからは長いこと使っていない丁寧な口調で言うと、ワンピース姿の騎士は満足したのか剣を下ろした。口調は威圧感がないのに、剣先から抗えない圧力を感じた。
運動をしてもいないのに、大量の汗が頬を伝っていて、幸先の悪さに本来なら手入れの行き届いた庭の草むしりでもしたいところだ。心が落ち着くことをしたほうがいいだろう。
新任の女王が冗談の通じない騎士に殺されるのは、想像の中だけで十分だ。
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