第2話

 初めて訪れたヴァジノーム城は、一度も訪れたことのない第二階層の中心にあった。空白地帯、と呼ばれているらしい。幾重にも重なった城壁は、正直なところ、美しいと言われるもの全てをぎっしり詰め込んだようだった。イリエの趣味に近い。城主の趣味が反映されているのかとも思ったが、噂に聞く《蒼の王》は華美なものが嫌いだ、と説明を受けている。

「昔からこんな城なのか?」と《銀朱の騎士》に問えば、

「私が着任した頃はすでにこの城だったわ」と簡素な答えが返ってきた。

 騎士が着任した二百年前から同じ外見ならば、数日前まで住んでいた城よりも古い。イリエがいたのは歴史の浅い国なので、百年も経たないひよっこだ。百年後の自分もひよっこと呼ばれるのかもしれない、と考えると心はどんどん沈んでいく。

 記憶にある日本の自宅は築十年くらいだったし、長い歴史のある住まいは初めてだ。壊れたりしないだろうが、うかつにものに触れない。魔術がかかっている可能性だってある。落とし穴だって転移用の魔法陣だってあるかもしれない。

 住んでいる人は全員天属。ファンタジーにも程がある、不老不死の集団の居城である。誰も喧嘩を売れないだろう。

 少しばかりの現実逃避をしながら、騎士の背中を追う。

 イリエの短い髪が目にかかった。

 天属なので、成長が止まるのは当然だ。ただ、髪が伸ばせなくなる可能性は考えたくなかった。髪を結えるならば多少は女らしくなるだろう。

 イリエの視線は自然と下を向いた。

 騎士は会話を続けるのが苦手なようだ。質問すれば明確な答えは返ってくるものの、世間話とは関わりを絶っています、と全身で主張している。なのに時折じっとこちらを見ているので、女だとばれているのかと冷や汗をかいた。

 打ち明けるべきか悩み、もうばれている可能性も考える。するとイリエは何も言えなくなった。しかも違う世界からきているのに、この世界の中枢みたいな場所にいていいのだろうか。いきなり拘束されたり、拷問されたりしないだろうか。

 イリエは急に不安になった。勢いよく赤いバラを手に取った自分はどこかへ行ってしまったようだ。

「セラ・ヴァジノーム。帰還したわ」

 五階建てくらいの高さがある門の前に立って、騎士が鈴の鳴るような声で言う。巨大な門は何の音も立てずに彼らを受け入れた。

 風に寄り添ってふわりと広がる騎士のワンピース姿に目を奪われていると、視線で、お前も言え、と彼女に脅されたのでイリエはそれに従う。

「イリエ・ヴァジノーム。帰還した」

 真似をしただけなのに騎士にきつく睨まれて、イリエは動けなくなるところだった。おかしなことを言ったつもりはない。こういう場で冗談が通じないことくらい百も承知だ。

 門の端に立っている門番が、笑いをこらえているのが見えて、彼女の顔は熱くなった。ワンピースの裾にまで笑われた気分になる。騎士はあまり笑わないので、ただの想像だ。

 両脇にいるのが常の彼女のいた王城とは違い、ここには門番が一人しかいない。門の数が多いので人員が足りないのでは、とすら思えた。その門番は中央にぽつんと立っていて、役割が果たせそうもないほど華奢だった。背丈は自分よりも低く、大きな鎧だけが独立しているようで、可愛らしい。

 それぞれの場所に特色があるのは、この世界でも普通のことだろう。

 騎士は「ご苦労さま」とだけ門番に伝えてさっさと一人で城の中に入っていった。追いかけようとすると門番に止められる。

「失礼ですが、どのようなご用件でしょうか?」

「イリエ・ヴァジノームです」

「ご用件は?」

「《銀朱の騎士》セラ・ヴァジノームの付き添いです。通行許可をお願いします」イリエはできる限り丁寧に言った。

 すでにこの門番には笑われているが、初対面の印象は大事だ。

「了解いたしました。それではどうぞ」

 門番に促されて門をくぐると、騎士が次の門の前で待っていた。まだ門があるのかと驚くよりも、彼女が自分を待っていたことに驚く。

「お待たせしました」

「行こう」

 騎士の鈴の鳴るような声は健在だ。

 一人分の足音だけが広い空間に響いた。そういえば絨毯がない、と気が付いたが質問はしなかった。命は大切に、というのがイリエの覚えたての信念だ。騎士の剣の威力を見るのは遠くからがいい。

 派手な扉が突然目の前に現れた。言葉は気をつけて喋れ、と騎士はこちらを見ずに忠告した。それさえ守ればなんとかなるといいが、あまり期待はしない。

「セラよ。帰還したけれどベルはいるかしら?」

「入れ」威厳のある女性の声がした。

 部屋へ足を踏み入れると、執務机の向こうにぴんと伸びた背筋が見えた。くるりと女性が振り返る。床につきそうなほど長い蒼色の髪が揺れて、城よりも美しい微笑が見えた。

「お前が候補か。オーランド国の末子だろう? なんだ、自分では永久につけない王座に目でも奪われたのか? それとも私と並ぶのに憧れでもしたか? ふん、動機はなんでも構わないが、セラの目に適っただけの者だといいがな」

 頭に被っている王冠が偽物でなければ《蒼の王》の座は彼女のものだろう。

かなり失礼なことを言われているのに、ちっとも腹が立たない。自分が場違いだと自覚しているからだ。

「ベル、彼女はすでにイリエ・ヴァジノームなのよ」

「ほお、天属になったのか。私の認証は必要ないが、それは少々問題だ。少年と呼ぶべきか? 少女がいいか? 最後になるかもしれないので自己紹介をしておこう。ベル・ヴァジノームというのが私の名だ。現在は《蒼の王》の地位にある。この第二階層ヴァジノームにおける空白地帯の王だ。そしてお前は女王になる予定だった」

「ちょっと、ベル」

 騎士が王をたしなめる構図に、イリエは困惑する。騎士の首が飛ぶ場面など想像の中でも見たくない。目を閉じるのをなんとか堪えて《蒼の王》を見る。

「セラの魂色はお前と同じ赤だ。だから最後の判断を彼女に任せたのだが、今のお前が女王に向いていると私は思っていない。天属になるのは諦めるべきだ。女王が空座のまま既に五十年経つ。今更一人増えたところでたいして私の負担は変わらぬ。すぐに解任することは容易いのだが、どうする?」

 正直な気持ちを伝えれば真心まで伝わる、などと思ってはいない。けれど嘘をつくのは違う気がして、イリエは自分の性別を告げた。

「まずはじめに、私は女です」

「ふむ。女と分かれば自分を殺すような国を愛していたか?」

「ベル」と騎士の咎めるような声。

「私は今もオーランド国とその民を愛しています」イリエは正直に言った。違う世界からきても、住んだ国に愛着はある。

「では階層はどうだ? この階層全ての陸と、全ての海を愛する思いは、お前の中にあるか?」

「そんな気構え、あるわけないです。ただ」

 イリエはそこで言葉に詰まった。思いだけなら秘めている。好待遇のアルバイトなんて言葉に変えて茶化しても、野望はある。自分の気性だろう。性別や血筋など、本当に些末なことだ。

「ただ?」《蒼の王》は、イリエの言葉を厳格な面持ちで繰り返した。

 イリエは唾を飲み込む。味もしないし、口中は乾いたままだ。なんとか視線を固定して、言葉を絞りだす。

「この階層が、他の二つの階層を含めたこの世界が、いつまでも民のものであれば、とは思います。その為ならば、いくらでも努力できます。私の汗も血もその為にあります」

 異世界の平和を祈れるくらい、この世界で生きてきた。

 誰かの笑顔を守る行為は、とても尊いものだ。柄にもなくそう思っている。ただし、知らない誰かのために汗をかくのを想像するより、友人の笑顔と自分のちっぽけな誇りの方が大切だ。思い描けるのは、身近な誰か。その先は、正直なところ不透明だった。

 イリエは下へ下へと向かってしまう視線を上げる。「でも、自分の幸せを追求するのは忘れません。だから私はここにいるんです。オーランド城で、大人しく殺されるのを待つのは嫌です」

「イリエ」

 先ほどから彼らの名前しか口にしない騎士は、おそらく戸惑っている。彼女が安心するようにイリエは微笑んだ。安心させるくらいの役には立つ。

「けっこうだ。セラ、新米の女王にティアラを作ってやれ」

「いいの?」騎士は不思議そうな顔をしている。

「ぎりぎりで合格だ。自覚のあるやつは使いやすい。少女が《女王》の座に飽きたら私の部下にでもするさ。ティアラが必要なくなったら、経費は請求するがな。まあ、育ててみる、というのも案外面白いだろう。明日からは隣の部屋で勉学に励みたまえ」

 《蒼の王》の執務室を離れると、イリエは我慢していた呼吸を再会した。息をしていたはずなのに、実感がない。ごわついた喉は、変な音を立てた。

「死ぬかと思いました」イリエがようやく搾り出したひと言は、本音しか詰まっていない。

『そうだな、ひと言でも間違えればこの世とのお別れだ。せっかくだ、白魔術でも学んでおいてはどうだ? 死んでも記憶だけは残るぞ』王の声は直接頭に響いた。

 彼女は白魔術も扱えるようだ。厳格さの滲む声は続く。『教育係には赤魔術士も加えておく。見たところ魔力がそこそこある。魂色が赤ならば赤魔術の適性も多少あるだろう。わかったな?』

「はい」イリエは《蒼の王》に返事をする。

 返事をしたこと自体、忘れそうだ。体ごと全てが重い。

『少女はなかなか肝が据わっているな』

 言葉だけを聞いていると、女王様とは《蒼の王》の為にある言葉のように思えてくる。横柄な物言いは命令に慣れた王のものともとれる。今までは彼女が王と女王を兼ねていたのだろう。これからその片翼はイリエが担うのだ。何もできないなりに、決意を込めて、視界にはいない王を見据える。尊敬すら覚えるのは、彼女の毅然とした態度だ。王の鋭い目を思い出して、イリエは腹から声を出した。

「お褒めに預かり光栄です、《蒼の王》陛下」

「……生きている心地がしないわ」

 鈴の鳴る声にイリエは苛立った。それは自分の台詞だ、と言おうとして飲む込む。言葉は胃の底で、落ちていったままぴくりともしない。騎士に何の反応も返せない自分は相当疲れていたらしい。その場に座り込んで、頭をかきむしった。「くそ」と男のふりをしていた頃の言葉が漏れて、イリエは「失礼しました」と取り繕った。

 イリエの言葉を代弁してくれたと好意的に解釈して、騎士に笑顔を向ける。心が悲鳴を上げそうなのは、今だけのことだ。その証拠に今日は一度も剣を突きつけられていない。

 つたない進歩でも、ないよりはましだ。

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