第2話 「同じ日」と「毎日」
第二章 「同じ日」と「毎日」
オサムが、
――同じ日を繰り返しているかも知れない――
と、感じた時がいつだったのか、ツトムと出会って話をした段階では、ハッキリとしていなかった。
「俺と君が毎日会っているという感覚は、実は俺にはあまりないんだ。同じ日を繰り返しているという意識があっても、同じことを繰り返しているという感覚とは少し違っているようなんだよ。同じことを繰り返していると、飽きてくるだろう? その感覚がまったく皆無なんだよ」
「ということは、僕と会っているという意識はあっても、同じ日になるんだろうけど、前回の記憶が薄れているということなのか、それともまったく同じということではないということなのかのどちらかなのでしょうか?」
「そのどちらでもあって、どちらでもないという感覚かな? ちょっと難しいかも知れないけど」
またまた、意味が分からない話をしている。
「二つのことがどちらでもあって、どちらでもないということは、完全に一緒ではないということなんでしょうね」
「そう単純なものでもないような気がするんだ。百のうち、九十九までがまったく同じであっても、残りの一つが本当に些細なところで違っていても、その二つは一緒であってはいけないんだよね」
「さっきの鏡の話みたいですね」
「そうだね。鏡というのはまったく同じものを写し出すんだけど、でも、左右対称なんだよね。まったく同じもののはずなんだけど、見ている人の感覚によって、本当に同じものなのかという疑問を抱いて不思議がないように思えるけど、なぜか、誰も不思議に思わない。きっと、疑問を抱いてはいけないと思うのかも知れない」
「常識が邪魔をするというところですか?」
「常識というよりも、理性の問題なのかも知れないね。常識という言葉であれば、人によっては、逆らいたいと思う人もいるだろうけど、自分の中にある理性であれば、逆らうことはできないと思うはずだからね」
「常識よりも、理性の方が信憑性があるということですね」
ツトムと話をしていると、最初こそ、
――何を言っているんだ、この人。意味が分からない――
と思っていたが、ツトムが相手であれば、自分の意見を素直に言うことができる。
他の人が相手であれば、たとえ、相手が振ってきた話であっても、自分の発想が突飛であればあるほど、相手が信じてくれないような気がしていた。
それは、相手が頑なに自分の意見に固執しているからで、自分から話を振るのも、本当は、
――俺の話を皆に認めさせたいからだ――
と思っているからに違いない。
話が難しければ難しいほど、分かる人は少ないだろう。そして、分かるであろうと思っている人に話しをしても、その人が全面的に自分の話を信じてくるとは最初から思っていない。
だが、全面的に信用してもらえないのであれば、話をするのは無意味だった。話をするのは、この奇抜な話をすることで、自分の存在を相手よりも有利にしたいという気持ちの表れだったりするからで、話をされた相手も、自分なりの意見を持っているとすれば、きっとその意見を通そうとするはずである。
お互いの自我が衝突することになり、優しい口調で話していても、一歩間違えれば、一触即発の状況に陥ってしまうのは必至だった。
ツトムもオサムに対して同じような感覚を持っていただろう。しかし、分かってくれる相手がいるとすれば、オサムしかいない。しかもオサムは自分と同じ環境にいることが分かっている。お互いにその状況をいかに感じるかというのが大切なことなのだろうが、同じ感覚でいることはないとツトムは感じていた。
それはオサムには分からない感覚だった。なぜならツトムは実際に同じ日を繰り返しているという意識を持っていて、オサムにはまだその感覚がないからだった。だから、ツトムはオサムに対して、自分の状況を説明し、少し分かりやすい状況まで感覚を落としてあげれば、ツトムに組みしやすいと思ったのかも知れない。ただ、オサムがツトムの考えをどこまで咀嚼できているのか、ハッキリと分かってはいなかった。
「君は、自分が同じ日を繰り返しているかも知れないという感覚を持っているんじゃないかって、俺は思っている。しかも、それをいつから感じるようになったのか、自分でも分かっていないと思う」
「それはどういうことですか?」
「まだ、君が本当に同じ日を繰り返しているわけではないということさ。自分でも実際に繰り返しているという意識はないだろう? それは、まだ実際には繰り返していないという証拠だよ」
この言葉は意外だった。
てっきり同じ日を繰り返してはいるのだが、自覚がないだけだと思って、不安に駆られていたが、自覚のないことは、本当は入り込んでいないという証拠だと言われると、ホッとした反面、違う不安もこみ上げてくるからだ。
「今の僕は前兆状態にいるということですか?」
こみ上げてきた不安をストレートにぶつけてみた。
「そうだね。ある意味前兆状態だと言っていいかも知れないね。でも、同じ前兆と言っても、少し違うかも知れないと思うんだ。一つのことが起こる時の前兆というのは、決まった形があると思うんだよね。前兆で、実際に起こることが分かるというような決まったものがね。でも、今の君の前兆は、同じ日を繰り返すという意味での前兆に違いないんだけど、これからの状況によって、同じ日を繰り返すことになった時、どの道に入りこむかというのは、まったく分からない」
この話を聞いて耳を疑うほどビックリした。
「えっ、ということは、同じ日を繰り返している人には、いくつかのパターンというものが存在しているということですか?」
というと、ツトムは即答することなく、少し考えていた。今までのツトムはすべてに対して即答してきたのに、どうしたことだろう。
それだけ、理由を説明するのが難しいということなのか、これ以上の話は、話し方によって、相手の捉え方一つで、取り返しのつかないことになることを示唆しているということなのか、オサムは頭の中で試行錯誤を繰り返していた。
「俺はそう思っている。だから、同じ日を繰り返している人はきっと俺だけではないと思うようになったのさ。もっとも、俺が同じ日を繰り返しているということも、他の人から聞かされたことで、人伝えになっているところもあるようなんだ」
と、ツトムは話した。
ツトムはさらに続けた。
「俺の場合は、まったく同じ日を繰り返しているなんて思いはなかったんだよ。ただ、そのことを教えてくれた人がいたから自覚したようなものだったんだ」
「でも、それなら、実際にツトムさんが自覚するまでにかなり大変だったんじゃないですか?」
オサムは、自分の身になって置き換えてみた。
自分は、最初から前兆のようなものがあって、意識は何となくあった。しかし、そのことを指摘されると、今度は頑なに否定して見たくなるから不思議だった。それでも、最初から何も聞いていないツトムにとって、かなり大変だったことは想像に値するものではない。
「それはそうだよな。最初は確かにそうだったけど、一度、『待てよ』と思ってみると、分からなくもない気がしたんだ。不思議なんだけどな」
「そうですよね。でも、今の僕は逆なんですよ。何となく分かっていたはずなのに、改まってツトムさんからその話を聞かされると、却って頑なに否定してみたくなる自分がいるような気がするんですよ」
感じていることを言ってみた。
「その気持ちは分からなくもない。俺がさっき言ったいくつかパターンがあると言ったのは、そのことも含んでいる。だから、君のように前兆を感じている人でも、君とは違って、人から聞かされると、すぐに納得してしまう人もいるんだよ。でもね、いつかはどこかで壁にぶち当たって、信じていたはずのことが音を立てて崩れていくのを感じるように思えてくることもある。そんな人を俺は知っているんだが、また後で話してやろう」
「その人もツトムさんが教えてあげたんですか?」
「いや、それはできない。なぜか一人の人に教えられるのは一人に限られているようなんだ。というよりも、最初からこの人も同じ日を繰り返していると感じるのは、一人だけだということになるんだ」
「そうなんですね。いろいろな制約があったり、決まりごとのようなものがあるようですね」
と少し皮肉を込めていうと、
「そうだな」
と、ツトムは苦笑いを浮かべていた。
「それにしても、ツトムさんはそういう決まりについては、いろいろとご存じなんですか?」
「いえいえ、そんなことはない。俺にも分からないところがいっぱいあるんですよ。でも、同じ日を繰り返していると半分は意識の中だから、慣れてくる中で、自然に分かってくることも多いんだ」
ツトムは続けた。
「ただ一ついうと、前兆状態にあるということは、オサムくんは、誰かに影響を受けて、同じ日を繰り返しているという前兆に入り込んだと思うんだよ。この場合の同じ日を繰り返している前兆というのは、決して自分一人だけで成し遂げられることではないからね」
「そうなんですか? 私にはピンときません」
と言いながら、思い返してみた。
確かに今まで思い返したことがなかったから、考えたこともなかったわけで、想像していないのだから、分かるはずもない。改まって考えてみると、誰かの影響を受けたと言われれば、
――その通りなのかも知れない――
と、かなりの高さで信憑性を感じるのだった。
ツトムの話を聞いているふりをしながら、思い返してみた。だが、聞いているふりなどというのは、元々オサムには無理なことだった。一つのことに集中すれば、他のことが疎かになるオサムに、話を聞きながら考え事などできるはずはない。もしできるとすれば、もう一人の自分の存在を考えることになるだろう。
オサムが考え事をしているのに、おかまいなしにツトムは話している。ということは、やはりオサムにはもう一人の自分がいて、その人がツトムの話を聞いているのだろう。ただ、オサムはツトムの話を聞いていないようで、頭の中に入っているように思えていたので、やはりもう一人の自分は本当にいるのかも知れない。
一つのことに集中する人には、もう一人、見えない自分がいるのかも知れない。オサムは同じように一つのことに集中するとまわりが見えなくなる人を知っているが、そんな人には、もう一人の自分の存在を感じずにはいられなかった。それも、分かるのはオサムのように同じような性格の人間にしか見えない存在なのかも知れないと感じていた。
ツトムはそんなオサムにはお構いなしだった。普段から冷静沈着で、まわりのことが見えていると思って、そんな彼を尊敬していたが、こうやって考えてみると、当たり前なところもある。
ただ、ツトムに対して感じた尊敬の念が色褪せることはない。同じ日を繰り返しているという他の人にはない「リスク」を背負いながら感じることなので、自分ならパニックになるかも知れないと思うことを冷静に受け止めているツトムに尊敬の念は当然のことだった。
ツトムは、冷静沈着であるが、たまにいきなりキレることがある。
――どうしてこんな大したことのないようなことでキレなければいけないんだ?
と思うようなことにキレるのである。
――どうかしている――
と思っていたが、それも他の人の経験していないことに直面しているのだから、普通に毎日を刻みながら生きている人から見れば、キレたくなるのも無理もないことなのだろう。
しかし、オサムはツトムの立場に近い将来入り込む前兆にいるという。回避できるものなら回避したいと思うのは当然のことである。だが、それを聞いてみるのも怖い気がして、なかなか話の核心に入り込むことができなくなっていた。
ツトムもそのことには敢えて触れようとしない。それだけでも回避は不可能に思えた。
いや、本当は前兆の時に分かっていれば回避できたのかも知れない。ツトムがこのことを知ったのは、すでに回避できない状態に入りこんでからだったのだとすれば、オサムにみすみすこの世界から抜けられる方法を教えることはないだろう。
――一人でも仲間がほしいと思うはずだ――
他にも数人はいるという話だったが、ツトムはその人たち皆と連絡を取り合っているのだろうか? もし取り合っているのだとすれば、どんな話をしているのだろう? ひょっとすると、元に戻ることができる方法を算段しているのかも知れない。
「ツトムさんは、同じ日を繰り返している人を、たくさん知っているんですか?」
「数人は知っているけど、それが全員なのか、それとも氷山の一角なのか分からない。他の人に紛れてしまえば、直接話を聞かない限り、その人が同じ日を繰り返しているとは分からないからね。もちろん、中には表に曝け出している人もいる。完全に怯えの中で暮らしている人だね。でも、そんな怯えというのは、前回の同じ日と寸分狂っていないわけではないということはすぐに分かるんだよ。よほど意識して毎日を変えない限り、同じ日を繰り返している人は、やっぱり他の人と見分けが付かないほど似かよっているものなのさ」
と、ツトムは言うが、
――そんなものなのかな?
と、オサムは、半信半疑だった。
「君は、自分が同じ日を繰り返しているという予感めいたものを感じたのは、誰かの影響があるって言ったね」
オサムは、一瞬ハッとした。話の展開から、自分がそのことを話したという意識がなかったからだ。ひょっとすると、無意識のうちに口走っていたのかも知れない。
ツトムは続ける。
「君は、僕が自分のことを見抜かれているようで、気持ち悪いと思っているかも知れないけど、俺は同じ日を何度も繰り返すことで、他の連中よりも、一つのことには長けてきているような気がする。それが、気になっている人の行動パターンが分かることなんだ」
「同じ日を繰り返しているからですか?」
「そうだね」
「だったら、同じ日を繰り返している人というのは、誰もが何かしらの力を持っているということになるんですか?」
「俺たちは、少なくとも先に進めないという『弱さ』を持っている。この弱さというのは、自分が強い弱いというよりも、運命に制限されたことで、欠点に近いものなのかも知れないけど、俺はここで敢えて「弱さ」という言葉を使いたいんだ。そんな弱さを持った俺たちなので、何か一つでも他の人にはない特筆すべきものがなければ、他の人とのバランスが失われるような気がするんだ」
「普通、弱さというのは、まわりに影響されることというよりも、むしろ自分の内なる部分が影響しているように思えるんですけど、どうなんですか?」
「その通りなんだよ。俺が敢えて欠点という言葉ではなく弱さだと言ったのは、そのためなんだけど、欠点というと、自分の内から見ることよりも、まわりから見ることの方が強い気がする」
「同じ日を繰り返しているというのは、それぞれの人に力を付けるんだと思うんですけど、ツトムさんは、人の心を読むことに長けてきたということなんですね?」
「人の心を読むということは、実際に読めるようになると、誰にでもできることではないかって思えてきたんだ。普通の人はそんなことなかなか難しいと思っているだろう? だから俺は余計に、今までどうしてできなかったのかということを思うようになって、そのことも含めて、今まで見えていなかったものが見えてきた気がしたんだ」
「でも、人の心を読むなんて、そう簡単にできることではないですよね。それをできると思うというのは、それだけ、全体を見渡すことができるようになったからではないかと思うようになったんではないですか?」
「その通りだと思う。超能力というものは、本当は誰もが持っていて、それを使いきれていないということを聞いたことがあったな」
「僕もあります。人間は自分の能力の十パーセントほどしか表に出せず、使いきれていないということらしいんですが、そういう意味でいけば、持っているのだから、使いこなせる人がいたとしても、それは別に不思議なことではないですよね」
「そうだね。超能力と言われる部分は、その人それぞれの潜在能力のようなものだと思うんだよ。それは意識と同じであって、意識にも潜在意識というものがあり、それを本当の意識に置き換えないと活用することができない。潜在能力も、発揮できる場所に置き換えることで意識もできるし活用もできる。超能力を使うということはそういうことではないのかな?」
「じゃあ、ツトムさんは、超能力者というのはいると思っているんですか?」
「超能力者というのは、人間皆そうなんだよ。それを使いこなせるかどうかで変わってくる。つまりは、いかに潜在能力を意識することができて、それを能力として活用できるところに持ってこれるかということに掛かっているということだね」
何か、少しだけ話が脱線しているような気がして、思わず苦笑いをしたオサムだったが、それを見たツトムは、
「話が少し逸れたみたいだけど、実はそうじゃない。他の人にはできない特別なことを、超能力のように思っていることも、実は潜在能力だと考えれば、理解できなかったことも理解できるようになるという意味では、横道に話が逸れたというわけではない。こうやって一つのことを話題にして話していると、お互いに違うところを考えているようでも、次第に感覚は近づいてくる。相手の姿が見えてくるとでもいうべきなのかな?」
そう言って、屈託のない笑顔を見せるツトムに対し、
――やっぱり僕の考えていることなんて、この人にとっては、手に取るように分かることなのかも知れない――
と感じていた。
オサムはツトムと再会したことで、何が自分の中で進んでいないのか分かるような気がした。それが、前に進むことのできないツトムからだというのも、何か皮肉めいたものを感じたのだ。
「僕に不思議な力が備わっているとすれば、何なんでしょうね?」
と独り言のように呟いてみた。
最初は考えていたツトムだったが、
「考えられることとすれば……」
とおもむろに口を開くと、
「何かありますか?」
オサムも興味を持った。だが、オサムはツトムが何かを言おうとした時、何を言おうとしているのか、予感めいたものを感じた。すると、今度はツトムがニッコリとしながら、まるで勝ち誇ったかのように、
「やっぱり思った通りだ」
と言った。
「どういうことですか?」
と聞いてみると、
「君には前兆のようなものがあると分かった時に、気付いてもよかったんじゃないかな?」
「ん?」
「だって、君は俺が考えられることを言おうとした時、俺が何を言おうか分かったんじゃないかな? それは、俺が言おうとしたものというよりも、自分の中に何があるかということだよ。僕はそれを見て、君が思っていることと、俺が感じていることが同じで、それが真実だということを確信した気がするんだ」
「じゃあ、僕に特殊能力が備わっているとすれば、それは予知能力ということになるんですね」
「そうだと思う。前兆は自分が感じている予知が、形になって現れている証拠なのだが、君自身は、予知できることを表に出したくないという思いがあって、本人にすら自覚させないようにしていたんだろうね」
「予知能力と言っても、ツトムさんのいうように、僕には自覚症状がありません。だからどのようにリアクションしていいのか分からないんですが、予知能力にも力のレベルのようなものがあると思うんです。僕の場合は、まだまだだと思うんですが、どうなんでしょうね」
「予知能力には、段階というものは存在しないと僕は思っていたんだけど、でも、君の場合は特別なのかも知れないね。確かに君が感じているような予知能力の段階を感じることができるんだ。しかも、君には前兆という最初の段階があった。その時には自分の能力を知らなかった」
「そうなんですよ。僕は予知能力と、何かの前兆を感じるということは、別物だと思っていたんです。何かの前兆を感じることができるすべての人に予知能力が備わっているとは思えなかったからですね」
「予知能力が君のいうように前兆とは別のものだとすれば、前兆を感じることができる人は、霊感が強いと言えるのかも知れない。本人の意識の外で起こる前兆というのは、ひょっとすると、彼を守っている守護霊の力によるものなのかも知れないからね」
オサムはその話を聞いて意外に感じられた。
ツトムという人は冷静沈着な人で、霊感や守護霊のような、曖昧な力を信じたりはしない人だと思っていたからだ。
確かに、彼の話にも一理ある気がしたが、オサムは自分が実際に感じた前兆に、霊感や守護霊のようなものを感じることはできなかった。
それは自分が信じていないということの証のようなものであり、そもそもあまり霊感めいたものを信じるようなことはなかった。
だからといって、現実主義に凝り固まっているというわけではない。超常現象が起こったとしても、それを頭から否定することはしない。しかし、最初から霊感で片づけてしまうことはなく、理論的に考えて、それでも自分に納得ができないことが生じた時、初めて霊感のようなものを感じるようにしていた。霊感や予知能力をまったく信じないというわけではないところが、逆に最初に理論的に考えることができる証拠なのかも知れない。
「確かに、なかなかすぐには理解できない難しい話ではあると思いますが、まずは理論的に考えてみたいと思います」
「それがいいのかも知れない。でも、俺は今君に対して感じていることを言わせてもらうと、君が前兆を感じた時、君のそばに前兆を知らせる誰かがいたのではないかと思っているんだよ。実は同じ日を繰り返している人で、俺が知っている人の中に、同じように前兆を感じたという人がいて、その人がいうには、『俺は前兆を感じた時、そばにいた人に前兆を教えられた気がしたんだ。もちろん、言葉で言われたわけではないんだけどね』と話していたんだよ」
「そういえば、僕はツトムさんのことを何も知らなかったような気がするんですけど、この機会に教えていただけると嬉しいですね」
同じ常連としても、さほど話をしたことはなかった。元々、ツトムはオサムにだけではなく、あまり他の人と話をしているところを見たことがないほど、いつも静かだった。それは、まるで気配を消して見えるほど、目立たない方だったのだ。
そんなツトムのことなので、今まで意識していなかったため、どんな人なのか考えたこともなかった。こうやって親しく話している姿を想像したこともないのに、実際に話をしてみると、案外違和感はなかった。そのため、元々どんな人なのか知らなかったことなど、意識したこともなかったのだ。
「そういえば、話したことなかったな。俺は実は小説家なんだよ。喫茶「イリュージョン」では、いろいろな発想を生むために通っていたのだが、途中から現実逃避をしたくて通うようになったんだ」
ツトムの言いたいことは分かる気がした。
いつも冷静沈着で、たまにキレる時があったという性格も、彼が小説家だということを聞けば、納得がいくところもあった。
――小説家というのは、他の人と違っているということを自覚したり、人から指摘されることを望んでいるような気がする――
と感じたことがあったからだ。
オサムは、小説家というと以前は偏見の目で見ていた。実際に自分のまわりに小説家なる人種がいたことがなかったので、別世界の人間としてしか見えていなかったからだ。
小説家に対しては、言葉で言い表すことができないほどの尊敬の念を持っている。それは、
――自分には絶対にできないことをできていることだ――
と感じることに繋がっている。自分にできないことをできるだけで、その人は尊敬の念に値するのだ。
しかも、それが自分のやってみたいことであれば、なおさらだった。以前から小説を書いてみたいと思いながらも、なかなかうまく行かなかった。尊敬の念を抱いてはいるが、言葉で言い表せないという表現は、雲の上というほど遠い存在というわけではなく、自分にとって嫉妬の対象になるという意味であった。尊敬という言葉とは裏腹に、妬みが心の中に渦巻いていることで、心境としては微妙で、複雑なものであった。
オサムは性格的に、歪んだところがあると自分で思っていた。自分の夢や希望がうまく行かないと、その思いを自分の子供に託すという人がいるようだが、その考えにオサムは納得できなかった。
――いくら子供とは言え、自分の目指した夢を人に託すなどありえない――
と思っていた。
栄光を他の人に持って行かれて、ちやほやされる姿を見たくない。それは子供であっても同じこと。夢を叶えるのは自分自身でなければ、いくら血が繋がっていても、そこは「他人」なのである。
そんなオサムなので、小説家として華やかな人生を送っている人を見るのは、
――見るに堪えない――
と思っていたのだが、どうやらツトムは違っているようだ。
ツトムが違っているというわけではなく、これが本当の姿であり、真実なのだ。
ツトムも、アマチュアから応募した作品が新人賞を受賞し、華やかな世界に一歩踏み出したはずだった。
しかし、彼が華やかだったのは、新人賞を受賞したところまでだった。
「受賞後に生き残る方が、受賞するより何倍も大変なことだ」
と、言われていたそうだが、まさしくその通り、
「受賞した時は有頂天だったさ。これで頂点に昇り詰めたような気がしてね。でも、実際はそこがスタートラインだっただけなんだ。いくらあがいても、スタートラインから先に進むことはできない。あがくしかなかったんだ」
「それって、今の状況に似ているような感じみたいですね」
オサムがそういうと、ツトムは一瞬、カッと目を見開いて、何かを感じたように見えたのだが、
「君のいう通りさ。同じところをあがいているだけなんで、一日を抜けられない今と変わりはない。だけど、ある部分で決定的に違うのさ」
「どういうことなんですか?」
「同じ日を繰り返すようになったのは、ある意味因果応報とでもいうべきなのか。同じところであがいている俺は、心の中で、先に進むことを怖がっていた。もちろん、締め切りというものや、これ以上できないのに、それ以上を求めようとするまわりに対して、俺はどうすることもできない。そう思っているうちに、前に進むよりも、これ以上前に進みたくないという思いが強くなってきたようなんだ」
「じゃあ、同じ日を繰り返しているというのも、そのせいだというんですか?」
「そうとしか思えない。また、そうでなければ、まったく説明のつかないことだ。同じ日を繰り返すことを怖いと思いながらも、前に進むことも怖い。前に進めないこの世界に慣れてくると、本当に前に進むのが怖くなってくる。このままでいいのかどうか分からないが、今の俺はこのままでいいと思っているんだ」
その話を聞いていると、オサムは少しゾッとするものを感じた。
「僕にも同じように、同じ日を繰り返すだけの気持ちが隠れているということになるのだろうか? もしそうだとすれば、僕にはツトムさんのようなハッキリとした理由が見当たらないんだ」
ツトムはニッコリとしながら、
「だから、君には前兆があるんじゃないか。その間に同じ日を繰り返している理由が見つかるのかも知れない。同じ日を繰り返している人にいくつかのパターンがあるとすれば、君と俺とでは、かなり遠い理由から、この世界に入りこんでしまっているんだろうね」
そう言いながらツトムは、さっきの続きを話し始めた。
「俺は、新人賞を受賞してから有頂天になった。本当は最初から、これがスタートラインだって分かっていたはずなのに、それを認めたくない自分がいた。俺は考えすぎるとロクなことがなかった方なので、なるべく気軽に考えるようにしていたんだ。認めたくないという思いは自分の心の奥を誰にも見られたくないという思いのカモフラージュであり、有頂天な気持ちは、カモフラージュから作られていたんだ」
オサムはツトムの話を頷きながら聞いていた。頷いているのは、自分の気持ちに確認しているようなもので、
――もし、僕がツトムさんの立場だったら、同じことを考えたんだろうな――
と感じていた。
「同じ日を繰り返しているという話は、実は俺がアマチュアの時代に書いた小説のネタでもあったんだ。しかも、まるで自分が同じ日を繰り返していたことがあったかのように、今から読み返すと、現状考えている俺の考えと、まったく同じだったんだ。まるで過去に戻ったかのような気になったんだよね。でも、前に進めないんだから、ひょっとすると、過去に戻ることは可能かも知れないとも思った。ただ、そうなると戻ってしまったら、前には進めないという理由で、結局、行ったっきりになってしまうのだから、戻ることなんかできないことになる」
それにしても、この日のツトムは饒舌だった。オサムもツトムも、お互いに無口な性格のはずなのに、ツトムはそんな雰囲気を出していない。ツトムが無口だったのは、
――どうせ何を言っても、他の人は俺の話なんか信じてくれるはずなどないんだ――
という思いが強かったからであろう。
実はその思いはオサムの方にもあった。
オサムは、自分の話を信じてもらえないというよりも、最初から相手にされないと思っていた。最初から相手にされないと、まわりから笑われているように思うのは、被害妄想が過ぎるからだろうか。その考えは半分当たっていて、半分違っているようなのだが、その時のオサムには、そんなことは分からなかった。
オサムは被害妄想を持っていたり、人に対しての嫉妬心が強かったりするのは、それだけ自分のことを大切に思っているからだ。どちらの性格も決して褒められるものではなく、どちらかというと恥かしいタイプの性格で、自分ではどうにもならない性格だった。
それなら、何とか正当化させたいと思う。
そのためには、自分のことを大切に思うことをいかに正当化させるかということだが、まわりを見ると、
――自分のことよりもまわりのことを考えている――
と見えていたものが、
――自分よりもまわりのことを考える方が美しい――
というところまで見えてきた。
そのわざとらしさを、オサムは毛嫌いした。
――自分のことを大切にできない人に、まわりを考えるなど、おこがましいのではないだろうか――
と思ったのだが、その考えに対して違和感はなく、自然に受け入れられるような感じがしてくる。
オサムは、自分がツトムと似たところがあることに気付いていたが、それよりも違うところが目立って見えてきたのも感じていた。そんな自分がツトムと同じように、同じ日を繰り返そうとしているのは、きっとツトムとは違ったところで、同じ道に入りこんでしまったのだろう。
オサムは、かなり違っている道だったと思っているが、案外と近いところの道だったのかも知れない。
ツトムは、自分がかつて書いた小説の内容と、今がまったく同じだという感覚でいるようだが、本当だろうか?
本人がそう言うのだから間違いないのだろうが、オサムはどうにも納得がいかない。
まず、前に書いた時がいつだったのか分からないが、書いた時と今とでは、完全に環境が違っているはずだ。
少なくとも、書いた時には、同じ日を繰り返しているはずはなかったからだ。もし、繰り返していて気付かないだけだったとすれば、それはあまりにも都合が良すぎる。
では、逆に書いた時にはまったくの空想で描いたのだとすれば、彼にも予知能力の片鱗があったのではないかと考えるのも、おかしなことではないような気がする。オサムには前兆があって、予知能力が備わっているようなことを言っていたが、同じ日を繰り返す人たちの特殊能力として共通点があるとすれば、この予知能力ではないだろうか。オサムは予知能力すべてが特殊能力のように思っていた。それはツトムの話を聞いたからだったのだが、それがツトムの巧みな誘導によるものであるとすれば、やはりツトムにも予知能力が特殊能力として備わっていることを自覚させるものがあったに違いない。
同じ日を繰り返していると自覚した時、すぐにツトムは自分の小説を思い浮かべたのだろうか。今までにたくさんの作品を書いてきたと言っていたが、そう簡単に思い出せるものなのだろうか?
「ツトムさんは、自分が同じ日を繰り返していると感じた時、すぐに自分の小説を思い出しましたか?」
一瞬、オサムの質問に訝しそうな表情を浮かべたツトムだったが、
「それがなかなか思い出すことはできなかったんだ」
と、答えるのがやっとのように、急に脱力感が感じられた。それまで張りつめていた糸がプツンと切れてしまったかのような感覚に、見ているオサムの方も、緊張の糸が急に切れたようだった。
――まるで音も聞こえてくるようだ――
アキレス腱が切れる時も、プツンという音が聞こえるらしい。そのことはテレビで聞いた話だったが、妙にリアルな感覚だった。
――あれも、一種の予知能力のようなものだったのかな?
と感じたが、予知能力というものを意識し始めてから、ツトムの小説の内容も、予知能力が絡んでいるように思えてならなかった。
「ツトムさんが書いた小説というのは、予知能力に絡むものがあったんですか?」
と聞いてみると、
「いや、同じ日を繰り返しているという話の中で、予知能力という発想はまったくなかったんだ。でも、書いているうちに予知能力の発想がまったく違った形で頭に浮かんできて、自作で、予知能力について書いたんだ。その話は書いているうちに前の作品の続編のように思えてきたが、それを感じていたのは俺だけだったようなので、結局、まったく違った話として新作が生まれることになったんだ」
ツトムの話を聞いていると、予知能力の話も読んでみたくなってきた。
「予知能力はどんな形で生まれたんですか?」
「元々は、同じ日を繰り返していることを俺に教えてくれた人がいて、その人のことを思い浮かべるうちに、予知能力の話が生まれてきたんだ。その人は俺の知らないことを、まるで当然のことのように話をするので、俺としては、尊敬の眼差しだったよな。今までに見たこともない人が目の前にいるという感覚は、どこか自然ではないように思えてきた。予知能力のせいで、初めて会う人でも、今までに会ったことがあったような感覚に陥っていた。それが、同じ日を繰り返していることに繋がっているのだと、その人は言っていたんだ」
オサムもツトムから同じように、
「同じ一日を繰り返している」
と聞かされたのに、ツトムが教えてくれたその人に感じた思いと、まったく違っているように思えた。
ツトムは続けた。
「その人は、名前を真中ヨシオと言ったんだが、彼は彼なりに自分の考えを持っていたんだ。それは俺なんかとは違った発想だったんだ。奇抜な発想なんだけど、いろいろなパターンを想定し、その中から自分が納得できるものを捜し当てたと言っていたけど、本当にそうなのかも知れないと思ったんだ。ただ、後から思うと、本当にそんな人間は存在したんだろうか? って思ったくらいに存在感は薄かったんだ。時間が経つにつれて忘れていくんだけど、一日を繰り返すと、また記憶がリセットされて、彼のことを鮮明に思い出すようになった。何度も繰り返していると、今度は、意識がどんどん固まってくる。おかげで、彼の信じられないような話も信じられるようになった。そりゃあ、何度も同じことを言われていれば、嫌でもくせになってしまうよな」
ツトムの話にはどこか捨て鉢なところがあった。
ツトムが小説家であるということは、この日初めて聞いたはずなのだが、なぜか初めてではないような気がする。
――誰か他の人から聞いたのかな?
とも思ったが、考えてみれば、喫茶「イリュージョン」では、ツトムの話はおろか、他の人の話題というのはタブーになっているのか、誰の話題も聞いたことがなかった気がする。人の話を聞いたとすれば、それは必ず本人からで、人の話題に触れないのは、喫茶「イリュージョン」ではルールになっているのか、それとも客それぞれの暗黙の了解なのか分からなかった。
しかし、それぞれでニュアンスは違うようで似ている。
喫茶「イリュージョン」がそういうお店なら、お店の雰囲気が客を呼び寄せたのだろうが、逆に客同士の暗黙の了解だとしても、そういう客が自然と集まるのが、喫茶「イリュージョン」ということになる。偶然に違いというニュアンスでいけば、後者の方になるのではないかとオサムは考えた。
オサムは、この店に偶然ということをあまり考えたくない。そう思うと、やはり、店が客を呼び寄せたと考える方が自然な気がする。
――こうやってお店の雰囲気に引き寄せられた人たちは、それぞれに意識をしているから、あまり口を開かないのかも知れないな――
引き寄せられた人たちが、皆同じような性格だというわけではない。むしろ、性格的にはバラバラではないだろうか。何かどこか一つだけ共通点があって、それが引き寄せられるポイントになっているのだとすれば、実に興味深いことだった。
――まさか、同じ日を繰り返すというキーワードが、喫茶「イリュージョン」では共通点になっているのではないだろうか?
などと感じたが、すぐに打ち消した。
ツトムも言っていたように、同じ日を繰り返している人は確かに何人かいるらしいということは分かってきた気がする。ただ、ツトムは同じ日を繰り返している人たちと連絡を取り合っているような話をしていたので、この店の雰囲気とは違っていた。
しかし、逆も考えられる。
――この店では会話はタブーなのかも知れないが、ここで落ち合って、他のどこかで自分たちのことを話し合っていたのかも知れない――
とも思えた。
ただ、それなら、どうしてそんな回りくどいことをするというのだろうか?
ひょっとすると、同じ日を繰り返しているということを、他の人に悟られてはいけないという決まりがあるのかも知れない。そう思うと、オサムも今からいろいろな決まりを教えられることになるのだろう。
――きっとその時の「先生」は、ツトムに違いない。ツトムも真中ヨシオという人から聞かされたのだろう。ヨシオという人物に会ってみたくなった――
と感じていた。
「俺は自分の小説に、同じ日を繰り返しているという内容の話を書いたことがあったんだが、あまりにも奇抜だということで、採用には至らなかった。奇抜ならいいんじゃないかって編集者の人に迫ったんだけど、発表できる内容ではないということを言われてしまって、詳しい理由は教えられなかったんだが、今から思えば、確かに発表しなくてよかったのかも知れないと思う」
「どうしてなんですか?」
「俺の小説が、今の俺のいる世界に酷似しているからさ。これを発表して読んだ人の中には、同調してくれる人もいるだろう。ひょっとすると、彼らは同じ仲間になるかも知れない。それを俺がまるで予言のように書いてしまうと、『この世界のことを教えられるのは一人に対して一人だ』というルールを曲げてしまうことになる。それは決してしてはいけないことなんだ」
ツトムの話は唐突のはずなのに、ここまで聞いてくると、まんざら唐突でもないように思えてならなかった。
喫茶「イリュージョン」といい、ツトムといい、同じ日を繰り返す前兆を迎えているオサムに対して、これから起こることを納得させようという意識が働いているかのように感じられた。
しかし、点では理解できてくることも、線にして繋いでみようとすると、どこかに歪みが生じてくる。決して一本にならない線がいくつも存在し、それぞれに相関性があることは分かるのだが、交わっている感じはしない。不思議な感覚であった。
「君は、シンジ君を知っているかい?」
「シンジ君というと、アケミちゃんの彼氏になるのかな?」
「そうだね。アケミちゃんはそう思っているようだけど、シンジ君の方は、ハッキリとはそこまで自覚していないようなんだ」
「そうなんですか。ところで、そのシンジ君がどうかしたんですか?」
「彼も実は毎日を繰り返している人間の一人なんだ」
それを聞くと、オサムはさすがに頭が混乱してきた。
――ここまで知っている人のほとんどが同じ日を繰り返しているのだとすれば、普通の人間の方が特別な気がするな――
と感じた。
「シンジ君は、毎日を繰り返しているだけで、俺たちのように同じ日を繰り返しているのとは少し違っているんだ」
「どういうことなんですか?」
「毎日を繰り返すということは、彼自身は同じ日を繰り返しているというわけではなく、彼にもう一人の自分がいて、もう一人の自分が一日遅れて、同じことを繰り返しているんだよ。前を行くのが本当のシンジ君なのか、後ろを行くのが本当のシンジ君なのか、俺もよく分からない。分かっているのは本人だけで、俺たちのように同じ日を繰り返している人間には普通に毎日を繰り返している人たちよりも、遠い存在になるんだよ」
「そんなシンジ君のことを知っているのは、ツトムさんだけなんですか?」
「いや、実は横溝さんも知っている。横溝さんは、俺たちのことはもちろんのこと、シンジ君のことまで分かっているようなんだが、横溝さんがどれほど事情を深く知っているのか、疑問に思えるんだけどね」
と、ツトムは話していた。
「じゃあ、シンジ君のような存在は、珍しいということなんですか?」
「俺は珍しいと思っている。同じ日を繰り返している人は何人も知っているが、シンジ君のように、毎日を繰り返している人というのは他には知らないからね。珍しいと言ってもいいんじゃないかな」
「シンジ君のことは、僕は直接はハッキリと知らないんですが、ツトムさんはよく知っているんですか?」
「いや、僕もよくは知らない。何回か会ったことがあるくらいなんだけど、彼ほど二重人格を思わせる人はいなかった。だからこそ、彼が毎日を繰り返しているということが分かっても、不思議に感じなかったな」
「でも、どうして分かったんですか?」
「俺がまだ同じ日を繰り返すようになる前のことなんだけど、シンジ君とはそれまで毎日会っていたのに、二日に一度しか会えなくなったんだ。それから俺が同じ日を繰り返すようになってから、シンジ君に会うと、前の日に話したこと、と言っても、同じ日に話していることを、彼は分かっていなかったんだ。その日のことは仕方ないとしても、過去の話をすれば、話は通じるはずなのに、まるで別人のシンジ君だったんだ。それで彼が毎日を繰り返しているということに気が付いたんだ」
「たったそれだけのことで?」
「ああ、それだけのことだったんだ。俺は今でもそれだけのことで十分だと思っているよ。ただ、今もう一度同じ状況になって、シンジ君と会っていたとして、果たして彼が毎日を繰り返しているということに気付けるかどうか、怪しいものだと思っている」
「話が飛躍しすぎていて、頭が混乱しているんだけど、同じ日を繰り返している人と、毎日を繰り返している人の明確な違いとして、同じ日を繰り返している人に、その意識を持つことは容易なことだが、逆に毎日を繰り返している人が、それを自覚するというのは、非常に難しいんじゃないかって思えてきましたよ」
「それは俺も思っている。実際、シンジ君は自覚がないようだった。だから、俺も敢えてそのことに触れようとはしなかったが、でも、いつかはそのことを知ることになると思う」
「どうして?」
「自分の知らないところとはいえ、もう一人の自分が確実に同じ次元に存在していて、行動しているからさ」
「じゃあ、今のシンジ君はすでに知っているのかも知れないですね」
「そうだな。そして彼はきっとジレンマに陥っているような気がする」
「それはどういうジレンマなんですか?」
「シンジ君とアケミちゃんが付き合っているのは知っているかい?」
「ええ、アケミちゃんから以前聞いたことがありました。アケミちゃんは、天真爛漫であまり人を疑うことのない女性だと思います」
そう言いながら、オサムの頭の中に、ミクが思い浮かんだ。
ミクとはほとんど歴史の話しかしていないが、毎日のように会っているのに、話題が尽きることはなかった。それは、オサムがミクとの会話に楽しさを感じ、どんなに長く話していても、それがあっという間だったように感じることで、自分がミクを好きなのだという意識を持つことでも感じられることだった。
今まで自分の好きな話題について来れる人がいないのは、オサムにとって優越感を感じるものであったが、逆に一抹の寂しさを感じさせるものでもあった。
アケミちゃんとミクとの違いは、明るさを前面に押し出しながら、どこかおしとやかな雰囲気を感じさせるアケミちゃんに対し、目立たない雰囲気であるにも関わらず、気が付けばいつもそばにいるという、逆の意味で存在感を示すミクだったが、その存在感がそれぞれに絶対的であるというところに共通点があった。
それは、ツトムと横溝の関係に似ているのかも知れない。どちらかが光でどちらかが影。そういえば、オサムが喫茶「イリュージョン」でツトムと横溝が一緒になったところを見たことがあっただろうか?
オサムもツトムには言わなかったが、学生時代に小説を書いていたことがあった。誰にも言わずに、もちろん、投稿しても、結果は芳しくなかった。
その時の内容はほとんど忘れてしまっていたが、ツトムの話を聞いて、少し思い出してきたような気がした。
しかも、ツトムの書いたという小説と、共通点が多いのではないかと思っている。ツトムの話を聞いて自分も忘れていた内容を思い出してくるのだから、引き出すだけのものがあったに違いない。
オサムが小説を書いたのは、その頃だけだった。
――あの時は、発想が湯水のように出てきて、どんな話でも書けるような気がしていたはずなのに――
ということを感じていたはずだった。
しかし、一作品書いてから今度は、まったく発想が浮かんでこない。
――燃え尽きたような感じなのかな?
その作品を書いている時は、自分でも何かに憑りつかれたかのように無我夢中で書いていた気がする。小説というのは、自分の世界に入らないと書けないものだというのを聞いたことがあったが、まさしくその通りだと思ったものだ。
自分の作品は、同じ日を繰り返しているというよりも、もう一人の自分が存在していて、その人が数分自分の後ろを生きているという話だった。
これは、毎日を繰り返しているシンジの話に酷似したものだが、シンジに対して、なぜか親近感が湧いてこない。自分が以前に書いた小説の主人公をそのまま生き写したような彼に対し、親近感が湧いてこないというのは、それだけ書いている時、主人公に対して、客観的な目で見ていたからなのかも知れない。
その作品が最後になってしまったが、その時一気にだったが、小説はいくつか書いたことがあった。その時も主人公に対して自分を照らし合わせることがあっても、結局は主人公を客観的にしか見ることはなかったのだ。
そういえば、その時に書いた小説の主人公には彼女がいた。
相思相愛だったはずの二人は、次第にぎこちなくなっていくのだが、その原因が、主人公がまわりを客観的にしか見ることができなくなったからだ。主人公としては客観的に見ているだけのつもりのようだが、まわりからは冷たく見られてしまい、彼に対しての誹謗中傷がいくつも出てくる。
それまで彼を支えていたはずの彼女も、そんなまわりを見て、次第に彼と一緒にいることが耐えられなくなっていた。そのうちに、お互いの気持ちが空回りを始め、引き合っていたはずの気持ちがすれ違うようになってくる。
客観的な目を、冷徹な目として見てしまうと、相手に対して疑念が生まれると、修復することができなくなってしまう。
――一体、私は彼の何を見てきたというのだろう?
女性の方が我に返り、自分だけを見つめるようになると、もういけない。相手がどうのというよりも、それまで信じていた自分が、信じられなくなってしまう。
お互いに客観的にしか見ることができなくなると、二人は別次元に入り込んでしまったかのように思うようになった。
二人の別れはすぐに訪れた。
別れというのは、実にアッサリとしたもので、別れてしまうまでに、気持ちが冷めきってしまっている自分を再認識するだけだった。
――人と別れるのが、こんなにアッサリしているなんて――
離婚する夫婦は、結婚した時の数倍もエネルギーがいるという話を聞いたことがあったが、結婚と恋愛とでは違うというのか、それとも、それまでに培ってきた感情の深さが違うからなのか、冷めたものは、最後まで冷めたままだった。
そのまま別れられるなら、簡単なことだったはずである。
しかし、別れてしまって、
――もう二度と会うこともない――
と思うと、急に寂しさがこみ上げてきた。
別れを決めて、別れが形になるまでは、二度と会えないことくらい覚悟はしていたし、会えない方が却ってアッサリしていると思っていたはずなのに、別れが形になった瞬間、主人公は、初めて後悔した。
最初はその理由が分からなかった。しばらくしていると、二度と会えないということが頭を擡げ、そう思うことで、逆に今度は彼女を愛おしいと思った自分を感じたのだ。
――付き合い始めた時は、そう感じていたはずなのに――
今さらながらに思い出しても、後の祭り。すべてが終わってしまって後悔しても、元の鞘に収まることはできないと分かっている。
――どうして、別れようなんて思ったんだろう?
衝動的な感情がお互いにぶつかったわけではない。逆に冷めた気持ちを自覚しただけのことだ。
衝動的な感情なら、熱い思いで、相手を説得することもできるだろう。しかし冷めてしまったものを再度熱を持たせることは難しい。しかもその感情は自分にあるだけではなく、相手にもあるのだ。お互いに持ってしまったのだから、始末に悪い。
小説の内容は、前半が氷のように冷めた感情、そして後半は、後悔することによって生まれて初めて感じた熱い感情をいかに自分で納得できる状態に持っていくかということに掛かっていた。
しかし、オサムの書いた小説は、決してハッピーエンドではなかった。
二人が二度と再会することはなく、それは別れを決めた瞬間から決まっていたかのような書き方だった。
いや、実際には、出会った瞬間から決まっていたのかも知れない。二人は、いや、人間は自分に決められた運命から逃げることはできないのだ。
そして、二人が別れを形にした瞬間、彼女の方が、同じ日を繰り返す世界に入りこんでしまい、彼の方が、毎日を繰り返す世界に入りこんだ。
しかも、他の世界に入りこんだ二人とは別に、現実世界にも、二人は存在している。
それは、同じ現実世界でも、出会うことのない二つのラインを、平行線のように歩んでいるだけだ。
――そんな二人を神のみぞ知る――
とでもいうべきであろうか。
小説の中でオサムは、前半の主人公に感情移入していた。その思いが、最後に二人を別々の世界に追いやり、しかも、現実世界にも同じ二人を存在させ、二度と会うこともない、平行線の上を歩かせるという運命を辿らせた。
それが何を意味していることなのか、その時、自分が何を考えて小説を書いたのか、オサムは感じていた。
小説を書くということは、少なからず、自分を小説の中のどこかに置こうとするのは、小説家の感情だと思っている。
それが意識的であれ無意識であれ、オサムは自分の立ち位置を小説を書くことで再認識しようと思っているのではないかと感じていた。
小説の中で、主人公である自分がどのように立ち回るかという内容は、実はあまり好きではない。確かに主人公を自分になぞらえることはあるが、それは性格の一部が似ているところから、派生した部分を自分と照らし合わせるところであり、その人全体像をそのまま自分に照らしてみようとは思っていない。
他の小説家がどのように考えているのか分からないが、オサムは自分の小説を他の人にはないオリジナリティを前面に出したいと思っている。
そういう意味では、自分という人間が他の人と違って変わったところがあることを、いかに自覚し、その部分だけを小説に生かすことができるかということを考えていた。
そして、そんな自分が、
――恋愛をしたらどうなるか? 相手はどんな女性なのか? 二人の行く末は?
などと考えていると、自然とストーリーが頭に浮かんでくるのを感じていた。
オサムは自分の小説の中に出てきたヒロインに、どのような思いを持っていたというのだろう?
――いずれ、似たような女性と出会うことになり、そして、小説と同じように恋をして、最後には同じ別れが訪れるというのだろうか?
客観的に見てしまう自分の性格は、小説を書いた時には、そこまで強い自覚ではなかった。逆に小説を書いたことで、自分の性格を顧みることができたのか、自覚できるようになったのは、それからすぐだったように思う。
この小説のミソは、実は現実社会の二人だった。お互いの本心はそれぞれの別世界にあるのだが、現実社会の二人は、別に抜け殻というわけではなかった。
ただ、出会ったという記憶もなければ、これから出会うということもない。二人が二度と出会うことがないというのは決定していることだった。
決定している運命に対して、何かを考えたことがある人が、果たしてどれだけいるだろうか?
運命というのは、確かに決定していることであり、それに逆らうことはできないというが一般的な考え方であって、オサムもその考えに逆らう気持ちもなかった。
しかし、この小説を書いた時、まだまだ将来を夢見ている青年だったはずで、書いている時も、こんなに切ないラストにしようなどと思っていなかった。それなのに、書き上げてみると、出来上がったのはこんな切ない小説だった。
――これが僕の本意なのか?
もちろん、公募の新人賞に応募してみたりしたが、思った通り、一次審査にもパスしなかった。何が原因かは分からなかったが、落選したのだから、それなりの理由はあるのだろう。
正直、その時に落胆がなかったと言えばウソになる。もちろん、新人賞受賞などという大それた考えがあったわけではないが、それでも一次審査くらいはパスしてほしいという思いがあったのは事実だった。
そのことがあって、しばらく小説を書く気にもならなかった。それまで頭の中で燻っていたはずの発想も、いつの間にか消えていた。
――どこに行ってしまったというのだ?
それこそ、小説の中に出てきたすれ違いの世界の中に行ってしまったのかも知れない。想像というのは留まるところを知らず、次第に妄想に変わってくることもあったに違いない。
小説を書かなくなると、自信を持って書いたはずの作品の内容も、次第に忘れてしまっていて、気が付けば、ほとんど頭の中から消えていた。
――どうかすると、書いたということすら忘れてしまいそうだ――
あれから小説を書こうと思わないと、自分に小説を書くだけの力量がないと思いこんでしまう。それが、書いたことすら忘れてしまうという健忘症にも似た症状を生みだすことになるのだろう。
そんなことを思い出していると、なぜかミクのことが思い出されてきた。
ミクと会ったのは喫茶「イリュージョン」で、何度かだけだったが、なぜか以前にも出会ったことがあったような錯覚があった。
ミクを見ていると、親近感が湧くというよりも、自分が作り上げたキャラクターのイメージがあり、自分が作り上げたものなのだから、自分に都合のいい性格をしているに違いないという勝手な妄想が生まれていた。
――ミクは自分が書いた小説のヒロインのイメージだ――
と感じた。
ただ、ミクに対して見えるのは、自分に都合のいい部分というよりも、それ以外のプラスアルファな部分が多かった。
――疑り深い性格なのではないだろうか?
という思いが強く頭の中に残っている。
ミクとは歴史の話しかしたことがなかったが、他にどんな話をすればいいのか思い浮かばなかった。ただ、ミクという女性の存在は、オサムにとって、なくてはならない存在であったことには違いない。
最初はあれだけ波長があっていて、毎回会っているような気がしていたのに、ある日急に、
――会えなくなるような気がする――
と思ってから、不思議と会わなくなった。
ミクが来なくなったわけではなく、完全に二人の歯車が狂って、平行線を描くようになったようだ。
ミクと再会したのは、ミクと会わなくなってからの何回目かに喫茶「イリュージョン」に行った時だ。その時、
――会えるような気がする――
という予感めいたものがあった。
ミクも、
「会えるような気がしていました」
と言っていた。
その時の話は、歴史の話ではなく、自分が考えていることをミクが話してくれたので、オサムは黙って聞いているか、相槌を打っているだけにしようと思っていたが、それだけでは済まないようだった。
「お話したいなと思うようになって。やっと会えるようになりましたね」
「お話したいと思ってくれたんだ?」
「ええ、歴史のお話で盛り上がったことで、お互いに気持ちが通じ合うことがあるような気がしていたんですが、会ってしまうと、何を話そうか考えていたことが一度リセットされた気がします」
「それは僕も同じかも知れない。何かを話そうと思っていたはずなんだけど、何を話そうと思ったのかということを忘れてしまったような気がするんだ」
二人は照れ笑いを浮かべながら、相手の顔を見ていた。お互いにウソを言っているわけではないことは分かっているが、相手に気持ちを覗かれているようで、そこが照れ臭かったのだ。
「でも、同じようなことを考えていたような気がするんですよ。そうでなければ、忘れたりしないと思うんです。自分が考えていたことを、相手も考えていると思った時というのは、ドキッとするでしょう? しかも自分の心の奥を覗かれているような気がしてくる。そんな状態になると、思っていたことがフッと、意識から飛んでしまったとしても、仕方のないことではないかと思うんです」
オサムは、その話を聞くと、驚いてミクを見た。
ミクはオサムが考えていることをある程度分かっているとは思っていたが、ここまでお互いを分析できているとは思わなかったからである。
しかも、その発想はオサムの発想に似ていて、さらに話を聞いていくうちに、自分よりも発想が発展していることに驚かされた。
――言葉に出すことで、想像力が増してきて、次々と新しい発想が生まれるのかも知れない――
と感じた。
その感覚は、お互いの中で共有しているようだった。
「オサムさんは、夢を共有しているという発想したことがありますか?」
「夢を共有というのは、自分が誰かの夢に入り込んだり、誰かが自分の夢に入り込んできたりということかい?」
「結果的にはそういうことなのかも知れませんが、あくまでも共有なんです。同じような夢を見る人の波長が合うことで、引き寄せられるものがあり、お互いに夢だと思っているから、腹を割って話すこともできる。夢の中で話をしているわけでなくても、同じことを考えていることで、会話しているのと同じ気持ちになれる。声に出さなくとも考えていることが分かり合えるというのが夢の特徴であることに気付くんですよ」
「そういう意味での夢の共有なら、発想したことがあるね。というよりも、いつも無意識にだけど、考えているような気がするな」
「そうでしょう? 私もそうなんですけど、こんな話他の誰にしても、同調してくれる人がいるとは思えなかった。でも、このお店に来て、波長が合うことを知ったオサムさんなら、話が通じ合えるような気がするんです」
オサムは、その話を聞いて納得したような表情を浮かべた。ミクはその顔を見ながら、満足した表情になり、少しの間、会話が途切れた。
沈黙を破ったのは、今度はオサムだった。
さっきまではミクの話を納得しながら聞いていたが、今度はオサム自身が疑問に感じていることであったり、人に確認してみたいと思っていたことがあったことで、今が確認するその時だと思ったのだ。
オサムはさっきまでと違い、少し無表情になり、淡々と話し始めた。
ミクはその顔を、神妙な表情で見つめている。あどけなさの残る顔にその表情は、怯えとは違った新鮮な感じを受けた。
「夢の共有と言っても、別にどこかに二人が共有する部屋のようなものがあって、そこで同じ夢を見ているというわけではないんですよね。やはり、夢は最初にどちらかが見ていて、そこに引き寄せられるように入り込んでいくものなんだと思っています」
「私は、最初そうだと思っていて、途中で疑問に思いました。共有という意識が頭の中にあったからですが、お互いに別の場所に行くというのは、一から作り直すことになるので、考えにくいと思ったんですよね」
「でも、誰かの夢に入り込んだとしても、一から夢を作り直すという発想は、僕の中にあったんですよ。途中まで夢を見ていたとしても、相手が入ってきた瞬間に、一度最初にリセットされる。元に戻るという発想ですね」
「それって、同じ日を繰り返しているという発想に繋がりませんか?」
いきなり奇抜な発想だが、オサムにとって、奇抜ではありながら、自然な気がした。
実はオサムが同じ日を繰り返しているという発想を思い浮かべたのは、この時だった。その後に、ツトムから言われたのだが、ショックを感じなかったのは、前兆とは別に、ミクの言葉があったからだ。
夢の共有と、同じ日を繰り返しているという発想が、まさか交差することになろうとは、オサムはまったく考えていなかった。
夢の共有にしても、同じ日を繰り返すことにしても、どちらも単独で小説のネタにしたことがあった。ただ、夢の共有に関してはテーマを絞りきることができなかったのか、最後は尻切れトンボで、完成には至らなかった。それでも発想だけは頭の中に残っていた。同じ日を繰り返しているという小説は曲がりなりにも書くことができたが、決して満足のいくモノではなかった。
――書きたいと思うことの半分も書けなかった――
というのが本音で、今から思えば、書きたいことがどんなことだったのかということを思い出すのも困難だった。
ただ、その時に書いていた小説の集大成が出来上がり、自分なりに納得の行く作品として投稿したものが何ら評価を受けなかったのがショックではあったが、今ではそれもいい思い出となっていた。
――もし、それなりに評価を受けていたら、小説家になっていただろうか?
と考えたが、プロになれるだけの資質が自分にないことは、本人が一番よく分かっている。
――それに小説家になれば、本作よりも次作、さらにその次と、どんどんいいものを書いて行かなければいけない宿命にある――
そんなプレッシャーに打ち勝てるだけの自信はなかった。アマチュアとして楽しく書いているのが、性に合っている。そう思っていたはずなのに、なぜ急に小説を書くのを止めたのか、その時の心境を今となっては思い出すことができなかった。
――自分の書いた話が現実になったのかな?
もし、そうであれば、書いていくことに恐怖を感じたとしても仕方のないことだ。そのことも、小説を書いている時に想定していなかったわけではない。考えてみれば、小説を書いている時というのは、結構いろいろなことを考えていたものだった。
書かなくなると、今度はスッパリと書いていた時のことを忘れてしまう。そして書きたいとも思わなくなる。
――あの時期は一体何だったのだろう?
と感じる。
ただ、覚えているのは、
――書いている時は、違う時間が動いていたんだ――
という感覚である。
まったく違った次元が存在し、その中でどんどん先に行くほど発想が豊かになっていく。小説を書いているということは、違う次元に入り込み、気が付けば書いていた時間を飛び越え、あっという間にそれだけの時間が過ぎていることだった。
――知らず知らずのうちに小説が出来上がっていた――
そんな心境になる時間が存在する。
――タイムスリップした時って、こんな心境なのかも知れないな――
だからこそ、小説のアイデアにはいつも時間の感覚が裏に潜んでいる。同じ日を繰り返すのも、毎日を繰り返すのも同じことで、時間の感覚が広げた発想であった。
ミクの頭の中にある、
――他の人が夢に入ってきた時、それまで見ていた夢がリセットされる――
という発想だが、オサムの中にも前からあったものであった。しかし、
――リセットされた元々の夢はどこに行ってしまうのだろう?
と考えた時、夢の共有にはデメリットしか感じられないという思いから、どうしても、夢の共有を自分から認めることができなかった。想像はしても、認めることのできない発想は、それ以外にもたくさんあるのかも知れない。
ミクとそんな話をしていると、喫茶「イリュージョン」に珍しい客が訪れた。実際には珍しいというわけではなく、彼は彼で店には来ていた。ただ、オサムとはいつもニアミスを繰り返し、ほとんど会ったことがなかったのだ。
「お久しぶりです。横溝さん」
オサムが横溝に話しかけると、横溝は無表情で、何も言わなかった。元々ぶっきらぼうなところがあるが、表情を変えずにしかとするようなそんな人ではなかったはずなのに、オサムはそんな横溝に拍子抜けしていた。
だが、横溝はいつもの席に腰かけると、すぐに表情が変わり、
「ああ、オサム君か。最初誰か分からなくて、すまなかった」
「いえ、いいんですよ。体調が悪いんですか?」
「そんなことはないんだけどね。でも、オサム君とここで会わなくなってから久しいんだけど、そのうちに会えるようになるとは思っていたんだ。でも、それが今日だとは思ってなかったけどね」
「どうして、会えると思ったんですか?」
「ただの勘のようなものだけど、バイオリズムの周期が元に戻ったというところかな? 俺のバイオリズムは時々不規則になることがあるからね」
横溝を見ていると、何かを隠しているように思えてならない。
――一体何なのだろう?
「オサム君は、ツトム君とよく話をしているようだけど、ツトム君は、君に対して恨みを言っていなかったかな?」
「そんなことはないですよ。恨まれるようなことを僕がしたんですか?」
「いや、そんなことはない。じゃあ、君自身もツトム君自身も、お互いに意識はないんだね?」
「何のことを言っているんですか?」
「君はツトム君が同じ日を繰り返していることを知っているよね?」
「ええ、本人から聞きました。そして、僕もその一人であるという話も聞きました」
「君たち二人は、別々に同じ日を繰り返すことになるんだけど、それは教えてくれた相手とは同じ世界に入りこむことはないという法則のようなものがあるからなんだ」
「でも、どうしてそのことを横溝さんは知っているんですか?」
「元々、俺も以前は同じ日を繰り返していた経験があったからね」
その時は、あまり深く考えなかったが、今から思えば。
――どうしてこの時、ハッキリと聞いておかなかったんだろう?
と感じた。
「そうだったんですね。でも、この世界に生還できたということで、横溝さんは、向こうの世界とこちらの世界の二つを知ることになったので、それだけ、よく何でも知っているということなんでしょうね?」
「そうとも言えるが、知りたくないことまで知ってしまうというのは、ある意味で、これほど辛いこともない」
この時、横溝は何とも言えない寂しそうな顔をした。それはこの世の孤独を一人で背負いこんでしまったかのような表情だった。
――聞かなかった方がよかったのかな?
と思ったが、それは同時に自分の頭の中から、この時の横溝の何とも言えない表情を忘れさせることがないようにさせたのだ。
「ツトム君は同じ日を繰り返していることについて何て言っていたかね? 普通の世界に戻りたいと言っていたかな?」
「そこまでは言っていませんでした。ただ、そんな世界が存在しているということと、同じ日を繰り返している人には不思議な力が備わっているということを話してくれましたね」
「なるほど、いわゆる一般論を話したわけだね」
「それは当たり障りのないところを話してくれたということなんでしょうか?」
「そう思っていいかも知れないね」
「さっきの横溝さんの話では、僕が同じ日を繰り返しているツトムさんに対し、何かをしたので、僕がツトムさんから恨まれているのではないかということを言おうとしてかのように聞こえたんですけど、違うんですか?」
「そういうことだよ」
「でも、僕はツトムさんが同じ日を繰り返しているなどということをこの間知ったばかりなので、何かをしたという意識はないです。ひょっとして、何も知らないからこそ、相手に悪いことをしたと言いたいんですか?」
「そうではないんだ。あくまでも彼が同じ日を繰り返しているということを君が知っていた上で、君は彼に恨まれるかも知れないことをしたんだよ。そのことを君は意識していないだけなのかも知れないが、それをツトム君も意識していないというのはおかしな話のような気がする」
そう言って、考え込んでしまった横溝だったが、
「僕は、そのことをどうして横溝さんが知っているのかということが不思議なんですよ。どうしてなんですか?」
「忘れたかい? 僕も同じ日を繰り返していたんだよ。だから、向こうの世界にいる人間の行動パターンは手に取るように分かるんだ」
「ということは、同じ日を繰り返している人の行動パターンは決まっているということですか?」
「いや、実はこちらのいわゆる現実社会で暮らしている人の行動パターンも実は決まっているんだよ。皆が皆、難しく考えているから、行動が複雑になっているだけで、ある意味歯車がかみ合っていないのがこの世界だっていうことができるんじゃないかな?」
横溝の言っていることは奇抜な発想に変わりはなかったが、少し時間を置いて考えれば、納得できないことではない。しかも、一度納得してしまうと、そのまわりにあった今まで理解できなかったことも理解できてくるように思うから不思議だったのだ。
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