第5話 凪くん

 私はその日以来、彼———泉谷凪いずみや なぎを目で追うようになった。

 いつも教室の片隅で本に目を落とし、周りに馴染めずにいる彼。

 そんな有象無象に染まっていない彼が、私の目には逆に際立って見える。

 だけど、それがいかなる感情によるものなのか、まだ幼かった私には理解できてはいなかった。

 それからしばらくの間、ただ目で追うだけの日々が続いたが、私はあることに気づく。

 不安。

 疑念。

 恐怖。

 期待や充実に隠れていたそれらがふつふつと大きくなっていったのだ。

 彼の視界に入るのが怖い。

 だって私は醜いから。

 焦りを感じ始めていた。

 左腕から頬にかけてある火傷の痕が私を冷静でいられなくする。

 私は一生このままなの?

 彼はこの傷跡をどう思ってる?

 居ても立ってもいられなくなった私は、夕方、二人きりなった教室でとうとう彼に問う。


「私の傷、気持ち悪い?」


 突拍子もなく発せられた私の言葉に、彼は首を傾げる。

しかし、すぐに何のことかを理解した彼は、私の頬に目を向け、


「別に」


 と返してきた。

 その返答だけでは満足できず、私はさらに食い下がる。

 だって、変に期待したままでいるのは辛かったから。

 これで終わってしまうのならそれでいい。

 中途半端で不安定な充実なんていらない。


「……嘘。ちゃんと見て」


 私は上着を脱ぎ、普段人前では絶対に見せないような肌着姿の恰好で左腕を曝け出した。


「柊さん?」


 驚いた彼を無視して私は再び問う。


「気持ち悪いでしょ?」


 普段見慣れている私でも引くほどのこの傷跡を見て彼は何て言うだろうか。

 いや、何を言われたところで、満たされることが無いことは知っていた。

 どうせそれらは気休めや憐みといった類のものなのだから。

 きっと彼も同じ。

 ———全然気持ち悪くない。

 ———大したことない。

 そうやって耳障りの言い言葉でただ濁すだけ。

 本心では憐憫の情を抱くんだ。

 そもそも私自身、何て言って欲しいのかも分からない。

 そんな答えのない問いを彼にぶつけた。

 そして、彼は言う。


「……綺麗だと思う」


 彼は、傷跡ではなく「私」を見て言う。


「傷を負っても前に進める人は綺麗でかっこいい……」


 全く予想していなかった彼の言葉に、一瞬頭が真っ白になった。

 何を言われたのか理解するのに時間がかかってしまった。

 ———別に、そんなこと聞いてない。

 ———どうせ、気休めに決まってる。

 そう口にしようとしたが、しかし上手く声にならない。

 気づいてしまったから。

 いや、たぶんとっくに気づいていた。

 言葉やセリフなんかではなく、誰がそれを口にするのかだということを。

 緊張と羞恥で顔を赤く染めていた彼は、私を見て今度は青ざめていく。


「ごめん、変なこと言って!」


 慌てふためきながらハンカチを手渡してくる彼。

 私は泣いていたようだ。

 先ほどの彼の言葉が、すとんと、胸の内に入ってくるのが分かったから。

 不思議だった。たぶん他の誰かに同じことを言われても私には響かない。

 そこにどれだけの違いがあるのかなんてわからないが、でもなぜか彼の口から出る言葉だけは信じられる気がした。

 そして、欲深い私はさらに求める。


「嘘じゃない?」

「え?」

「さっきの嘘じゃない?」

「うん、嘘じゃない」


 まだだ。

 まだ足りない。


「触って」


 私は左腕を突き出す。


「えっと……」

「早く」

「う、うん」


 うろたえる彼に私は自分から触れるように促す。

 恐る恐る彼は私の左腕、そこにある傷跡に触れる。


「変じゃない?」

「変じゃないよ」


 もっと。

 もっと聞きたい。


「こっちも」


 左腕だけじゃ足りない。

 私は彼の右手を掴み、そのまま肩、首、頬へと触れさせていった。


「……」


 私は彼の言葉を待つ。


「全然変じゃないよ」


 気持ちがよかった。

 私のどんな醜い部分でも、彼は受け入れてくれる。


「私がそばにいても嫌じゃない?私と話していても嫌いにならない?」

「うん、全然嫌じゃないけど。どうしたの、柊さん?なんか、さっきから……」

「……うれしい」


 私は恍惚の表情を浮かべていた。

 ただでさえ歪んでいた私は、さらにいびつに歪んでいく。


「じゃあ、大人になっても一緒にいてくれるよね?」


 何を乞うても彼は私の期待通りの言葉を与えてくれる自信があった。


「え?う、うん」


ぎこちなく頷く彼。

最早十分だった。

自分の顔が火照っているのが分かる。

夕焼けのせいなんかではない。

あぁ、彼が綺麗だと思ってくれるのなら、どこまでも前に進もうではないか。


「それじゃあ、また明日ね。凪くん」


その日、満足した私はいつ以来かの軽快な足取りで帰路につく。


これは後になって知った話だが、凪くんも早くに両親を亡くしていたのだとか。


私とお揃い……。

そのことが嬉しくてたまらなかった。

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