竜の再誕 最終話

 なんてこともありながら、エルとソウゴは先を進み、茂みを抜けると湖畔こはんにたどり着いた。

 森の中にポカン、と大きな穴が開いているふうに湖が広がっている。波一つない湖面こめんは夕日の光で照らされ、あたかも世界全てが赤く染め上げられたかのように思えた。

 その湖の中央に、大きな影が浮かんでいる。

 目をらして見れば、ソウゴが何よりも求めていた姿が浮かび上がる。

 黒ずんだ青い鱗が夕日を鈍く反射していた。首を下げ、翼を折りたたみ、尻尾を体に巻き付けている。波を起こすことなく静止した状態だが、ソウゴの目には漠然ばくぜんとした大きな力をその身にとどめているようにも見えた。

「あれが……竜」

 ソウゴの心は自然と落ち着きを取り戻していた。けれど、がっかりとか、期待を下回ったというわけではない。

 あの神秘的な姿を前に、無遠慮に騒いではいけないと、魂が訴えてくるのを感じていたからだ。

 自然と、背筋が伸びる。

「……竜は百年に一度、生まれ落ちた場所に戻ってくる」

 エルが静かに呟く。エルも、ソウゴと同じく魂の震えを感じていた。

 空気が少しずつ冷たくなってくるのを感じる。

 湖の中央から音が流れてくる。それは空気を震わす荘厳そうごんな音色だ。湖面が揺らぎ出した。始めは広い間隔かんかくの波は、美しい音が大きくなってくるにつれ、せばまっていく。

 パキリ、と氷が割れた時の音が混じり、竜の背中から青い光が漏れ出した。

「そこで古くなった体を捨て、新しい体に生まれ変わる」

 エルの言葉は、小さいが、ソウゴの耳にはしっかりと届いている。

 竜が身じろぎをするたび、青い光は強さを増していった。

 赤色が支配する世界を、青い光が切り開いていく。

 黒ずんだ青が脱ぎ捨てられ、蒼穹そうきゅうを思わせる透き通る青が姿を現す。

 竜が翼を広げた。花火のように大きく青い光が放たれる。しかし、決して眩しくは感じない。

 竜の翼から発せられる、目に見えない力を感じ取ったのは、五感とは別の新しい感覚。

 うねる様に尻尾が振るわれる。ホタルのような淡い光をまき散らした。淡い光はソウゴとエルの近くにも来て、空気に溶け込んで消えていく。息を深く吸えば、水の匂いがした。

 最後に長い首をするすると引き抜かれ、瞳があらわになる。深い海の底を思わせる青だった。

「それはまさしく、再誕さいたんと言えるだろう」

 青い竜が、空に向かってえた。管楽器の鳴らす音に似た声を、抑揚をつけて歌うように。空に、湖に、森に、世界に響いていて、どこまでも届いていく。

 歌い終えた竜が、翼を羽ばたかせると、爽やかな風がソウゴの頬を撫でつけた。

 青い竜は、彗星すいせいの尾を思わせる青い光を引き連れて、赤く染まった空を、青い絵の具を付けた筆で線を引くように翔けていく。

「古くなった体には、大きな力が残されている。その力は大自然の中に溶けだし、新しい命をはぐくかてとなる」

 エルが指さした竜の抜け殻が、湖の底へと沈んでいく。今度は湖が光に照らされるのではなく、湖自体が青く輝き、夕日の赤色を退けている。

「……あの竜は、また百年先に、ここに来るのかな」

「きっと来るだろうね。そうしないと、生まれない命があるのだから」

 ソウゴとエルは、しばらくそのまま、青い竜が飛び立っていった先を見つめていた。

 あの青い竜は、世界のどこかで百年の時を過ごす。百年も先、ソウゴは生きていないだろう。人よりも大きな竜は、人よりも大きなを作って生きている。


「さて、そろそろ帰る時間だよ」

「あっ!」

 エルの言葉に、ソウゴは帰る手段を知らないことに気付いた。

 帰ることを、まったく考えていなかったわけではない。ただこの世界に興味をひかれて、帰るという選択肢を遠くに置いただけだ。

 普通であれば体験できない、非日常を味わいたかったのだ。

「どうしよう……」

 エルは苦笑した。

「やっぱり考えてなかったんだね」

 エルは杖の先端で地面を叩いた。そこを中心に光の円が広がる。しかし、その大きさは【語らいの魔法】の時よりもはるかに大きかった。それに伴って、光の線が魔法陣を描くのにも時間がかかる。円の中を埋め尽くしたと思うと、外周に再び円を作って増強を繰り返す。

「私の魔法で、きみを元の世界に送り返す」

「……うん」

 ソウゴは安堵あんどを覚えた。どうやら元の世界に帰る方法をエルが持っているらしい。

「あのさ……」

「ソウゴ、きみには、きみの生きる世界があるだろう」

 エルはぴしゃりとソウゴの言いたいことを先回りした。

「生きる、なんて大袈裟だよ。おれはもう少し、ここにいたいと思っただけだよ」

 今度はソウゴが苦笑した。

「ふふっ、そうか」

 いくつもの円と図形で作られた魔法陣はソウゴの足元に移動する。辺りが淡く光っているが、エルのいる所だけは暗いままだった。

「【帰り道の魔法】は、帰るところが遠いほど、魔法陣は大きくなっていくが、これは予想外だな」

「そんなに大きいんだ」

「いいや、小さいんだ。こことは別の世界へ行くのだから、途方もない大きさになると思っていた」

「え? じゃあ、なんで」

「きみの世界は、案外、近いところにあるのかもしれないね」

 大きな魔法陣が、くるくると回りながらソウゴの体を昇ってくる。

「さよならだ、ソウゴ」

「ねえ、エル。もう一度この世界に来られるかな?」

「さぁ、それはわからない。けれど、もう来ない方がいいだろう。この世界は、きみの生きる世界とは異なる世界。きみの身に何が起こるか、予想はつかない」

「そっか……」

 エルの言葉は優しくも厳しいものだった。

 途端にソウゴの体がさみしさで満たされた。

 異世界とエルに、さよならをするのだ。

 ソウゴの体が光に包まれる。

「さようなら、エル」

 ソウゴがそう言うと、エルは優しげな笑みを返した。

 辺りに暗がりが戻ってくる。赤から黒へと、日は沈んでいく。

 エルが杖で地面をたたくと、杖にはまっている宝石が光を放つ。

「……しかし、好奇心とは、人が考えるよりも、大きな力を持っている」

 エルはソウゴがいなくなった空間に向かって呟いた。

 それは他人に言い聞かせるよりも、自身に言い聞かせているようだった。

「誰かに、何かを言われたとしても、到底、抑えきれるものでないか」

 エルはふっ、と自嘲じちょう気味に笑った。


   *


 気付けば、図書室にはソウゴ以外の人影があった。貸し出しカウンターには、司書さんが座っていて、他にも本を選んでいる生徒の姿がある。

 深呼吸をしても、あの水や森の匂いはなく、本の匂いだけがあった。

 ソウゴが生きる、いつもの世界の姿だった。

 あれは夢だったんだろうか。ソウゴはそう思ったが、手元には白紙の本がある。

 いや、それはもう、白紙ではなかった。

 ページをめくると、見開きには美しい絵がえがかれていた。

 赤く染まる世界の真ん中に、翼を広げて青く輝く竜の姿。その光景を遠くからながめる大小二つの人影。

 ソウゴの異世界の思い出は、白紙の本の中にいろどられていた。

 心に、小さな火がともる。

 エルの声や、不思議な生物たち。赤い世界を切り開く青が、湧き上がってくる。

 それらが燃料となって注ぎ込み、火はどんどん大きく成長し、やがて炎となった。

 好奇心の炎は、ソウゴの体を内側から焼きつける。

 焦がれた心は、ソウゴを決して諦めさせない力となる。

「もう一度、異世界に行きたい」

 ソウゴの冒険は、まだ終わらない。

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絵日記は異世界で魔法使いと 高町テル @TakamachiTeru

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