第17話 弾けて終わる

 家に近づくほどに、鼓動が激しくなる。一度は逃げた場所に、また戻ろうとしているのだ。恐ろしさは隠せない。でも隣にお姉ちゃんがいてくれる。それを心の支えにして、足を前へと進める。


 暗闇を進むと見慣れた家がみえてくる。


 体が震える。頭が痛くなってくる。めまいだってしてくる。寒いはずなのに、汗がたくさん溢れてくるのだ。怖い。今すぐにでも逃げてしまいたい。


 けれど、もう私は逃げない。


「本当に大丈夫?」

「……大丈夫。いつかは戻らないといけない場所なんだよ。私はまだ学生で、一人じゃ生きられない。それになにより、二人には仲良くして欲しいし」

「……そっか」


 私はお姉ちゃんの手を引っ張って、門扉を通った。そして家の扉を開ける。


 すると食器の割れる音が聞こえてきた。心臓がどくどくと脈打つのが聞こえてくる。大丈夫。……大丈夫なはずだ。きっと二人とも私の気持ちを分かってくれる。


 けれどリビングに向かうと。


「あなたのせいであの子がおかしくなったのよ」

「いや、お前のせいだ」


 耳をつんざくような怒鳴り声が交差していた。部屋は荒れ放題で、そこら中に割れた皿が散らばっている。二人は私に気付いていないようで、なおも言い争いを続けていた。


「やっぱりお前の子なんだな。あいつはクズだ。ろくでなしだ」

「あなたの子供でしょう? 全部あなたのせいよ!」

「さっさと離婚するべきだった。あいつがなまじ優秀だったせいで無理してきたが、結局はこのざまだ。本当になんだったんだよ。俺の人生は」

「それは私の言葉よ! あなたみたいなろくでなしと結婚なんてするんじゃなかった! あんな奴、産むんじゃなかったわ!」


 血の気が引いていく。


 こんな状況で、私の気持ちを伝えたところで、何か変わるだろうか? 私は楽観しすぎていたのかもしれない。もう最初から手遅れだったのかもしれない。家庭の崩壊を黙って受け入れるべきだったのかもしれない。

 

 ずっと憧れていたのに。


 幸せな家庭に。三人で笑い合えるような関係に。


 お父さんもお母さんもお互いを憎しみあっている。私のことすらも障害だとしか思っていない。だとするのなら、私は一体、これまで何のために生きてきたのだろう?


 上手く呼吸ができない。のどが詰まったようになって、肺が苦しい。涙が溢れ出してくる。人生の意味を否定されて、そして変わる機会すらもないのだと理解してしまって。


 何のために、私はこれまで頑張って来たのだろう?


 そう全てを諦め始めたとき、隣にいたお姉ちゃんが声をあげた。


「……実の娘を産まなければよかった? そんな言葉、思うのも口に出すのもおかしいよ。親でしょ……?」


 両親から目をそらすと、お姉ちゃんは私を優しく抱きしめた。


「……瑞希。お姉ちゃんが何とかする。だからこんな家、出ていこう? 絶対にお姉ちゃんが幸せにしてみせるからっ!」


 見たことのない鬼気迫る表情だった。あらゆる感情がないまぜになったような表情から、涙が零れ落ちていく。


 私たちの存在にようやく気付いたらしいお父さんとお母さんは、ぎょっとした表情を浮かべていた。


「瑞希。今のは違うんだ。俺たちはお前を……」

「そ、そうよ。私たちはあなたのこと、大切に思ってるわ。あなたがいなくなったら私たちは……」


 取り繕ったその表情が、気持ち悪くて仕方なかった。私はお姉ちゃんの手に引っ張られるままに、家の外に出ていく。もう、何も考えられなかった。


「瑞希!」


 二人の叫び声が聞こえてくる。けれど、私は振り返らなかった。


 月もない夜、暗い街をお姉ちゃんと二人で歩いていく。


「……お姉ちゃん」

「どうしたの? 瑞希」

「……私。遠くに行きたい」


 道路をライトをつけた車が行き交っていく。震える声で、お姉ちゃんに抱き着いた。お姉ちゃんは優しく背中を撫でてくれた。もう、いっそ消えてしまいたいと思った。


 こんなことになるのなら、変わらなかったのに。ずっと自分を苦しめたほうがましだった。家出だってしなかった。お姉ちゃんのことだって無視した。きっと無視したはずなのだ。


「……分かった。お姉ちゃんと二人で、遠くに行こう。そこで二人で幸せに過ごそう。ね?」


 お姉ちゃんは笑顔を浮かべてくれる。でも、そんな未来が私たちには来ないってことを、私は知っていた。もう、疲れてしまったのだ。悩むことにすらも。


 それでも、やっぱりお姉ちゃんの笑顔を崩すのは怖くて。


「うん」


 私は笑顔で頷いた。


 私たちは二人で駅前まで向かった。そしてそこにある夜行バスの時刻表を確認する。青森行きが二十三時に出るみたいだった。


 私たちは駅の中の暖房が効いた待合室で、肩を寄せ合って座っていた。人がやって来ることはなくて、とても静かな空間。遠くから喧騒が聞こえて来るけれど、それすらも子守唄みたいだった。


 やがて私は眠りにつく。夢をみた。お父さんとお母さんと三人で手を繋いでいる夢だ。真ん中が私で、私は交互に笑顔の二人の顔を見上げていた。幸せな気持ちで歩いていると、突然お姉ちゃんの声が聞こえてきた。


「もうすぐバスくるよ。起きて瑞希」


 その瞬間、幸せな夢は泡のように弾けて終わる。私はぼんやりした意識の中、お姉ちゃんの手に引かれるまま、待合室を出ていった。バス停に向かうと「青森行き」と書かれたバスが止まっていた。


 どうやら空席があったみたいで、予約をしていなかったけれど乗せてもらえることになった。私とお姉ちゃんは隣り合わせで座る。窓の外の明かりをみつめていると、なぜかお父さんとお母さんのことを思い出した。


 しばらくすると、バスが走り始める。


 窓の外をみつめていると、不意に声が口をついて出た。


「……死んじゃいたいなぁ」

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