第9話 過去を思い出す一人っ子
湯船の向かいには裸のお姉ちゃんがいた。ずぶ濡れの黒いワンピースや下着が洗面台の脇に置かれていた。
「私ね、これまで大切なものをたくさんたくさん、捨ててきたんだ。大切なお父さんとお母さんを守るために。亜美ちゃんだってそうだった。お姉ちゃんは知ってると思うけど」
「……うん」
私はお姉ちゃんに頭を撫でてもらいながら、昔のことを思い出す。
かつての親友、亜美ちゃんとの記憶を。
〇 〇 〇 〇
「瑞希ちゃん、だよね?」
「えっと……」
中学一年生の教室で桜舞う景色を眺めていると、知らない女の子が声をかけてきた。教室の中は騒がしくて、まだみんな子供っぽい顔つきをしている。でも話しかけてきた女の子は、どこか大人みたいな印象だった。
「亜美だよ。よろしくね!」
「……亜美、ちゃん?」
亜美ちゃんはにっこりと笑った。そのまぶしい笑顔にどう反応すればいいのか分からなくて、おろおろしてしまう。私は小学生のとき、ずっと一人だったのだ。
両親は喧嘩ばかりで、いつだってびくびくしていた。人の機嫌を伺うのが当たり前。私が勉強を頑張り始めてからは、多少夫婦喧嘩は落ち着いてくれたけれど、機嫌を伺う癖は消えなかった。
「勉強できるんだってね。私もできるよっ! 実力テストで二位だったんだ」
私は十五位くらいだった。勉強してるのにこの程度なのだ。そこまで誇れるものでもない。
「凄いね。私、亜美ちゃんほどできないよ」
もしも私が最初から利口だったら、お父さんもお母さんも喧嘩とかしなかったのかな。私は努力をしないと利口になれなかった。
私が作り笑いを浮かべると、亜美ちゃんは頬を膨らませた。
「ケンソンはだめだよ。凄いんだから自分を甘やかしてあげないと」
甘やかすなんて、そんなの考えたことなかった。だって私は完璧じゃない。完璧だったらお父さんもお母さんも喧嘩なんてしなかったはずなのだ。
私は亜美ちゃんから目を背けて、ぼそりとつぶやいた。
「甘やかすなんておかしいよ。私は亜美ちゃんほど凄くないんだから」
「瑞希ちゃんってヒクツな人なんだね。ま、これからよろしくね」
亜美ちゃんは笑顔で私に手を差し出した。私は仕方なくその手を握った。
正直、私の亜美ちゃんへの第一印象はそんなに良くなかった。亜美ちゃんだって同じだったと思う。なのに亜美ちゃんはそれからも、私に話しかけてきた。
文化祭も体育祭もスキー合宿も。
そのおかげで、私たちは次第に仲良くなっていった。亜美ちゃんは私とは違って、人の顔色をうかがわなかった。最初はそれが苦手だったけれど、一緒にいるうちに少しずつ好きになっていった。
例えば、私が体育祭のリレーで転んで失敗してしまったとき。やる気のある生徒達は私を批判した。陰口だって聞こえてくることがあった。でも私はそういうものだと受け入れていたのだ。
失敗したのだから非難されるのは当然で、それにとやかくいう筋合いは私にはないのだと。けれど亜美ちゃんは違った。亜美ちゃんは私の陰口を聞くと、ずんずんと不満そうな顔で歩いていく。
そして堂々とこんなことをつげるのだ。
「あなた達、平気で人のことを非難しているけど、自分が失敗した時のこととか考えられないの? 非難される側の気持ちは分からないの? 本当に馬鹿なんだね」
そんな傍若無人とも捉えられかねない発言をするものだから、私はいつもひやひやしていた。だけど嬉しかった。私のために体を張ってくれているのだから。
でもだからこそ、私は亜美ちゃんへの申し訳なさを募らせていった。亜美ちゃんは私のためにたくさんのことをしてくれるけれど、私は亜美ちゃんのために何もできてない。
遊びに誘われても、両親に逆らうわけにいかないから、断るしかない。亜美ちゃんへの陰口を聞いても、弱い私は何も言えない。そんな自分が嫌いだった。
そんなある日、クラスの女子生徒が亜美ちゃんの目の前で亜美ちゃんの教科書をゴミ箱に突っ込んだ。流石の亜美ちゃんも堪えたのか、涙を流してしまっていた。
女子生徒が笑いながら教科書を捨てているのに、居合わせていたクラスの人たちはじっと黙り込むどころか、面白がる始末。
そんな空気の中、私は何もできなかった。
けれど、亜美ちゃんの涙をみていると、沸々と知らない気持ちが湧き上がってきた。それは抑えがたい怒りだった。私の大切な亜美ちゃんを傷付けるみんなを、どうしたって許せそうになかったのだ。
涙を流す亜美ちゃんを笑う窓際の女子生徒の集団まで歩いていった。すると女子生徒達は私を睨みつけてきた。けれど怒りに満たされた私はその程度では、ひるまなかった。
私は無言で、女子生徒たちのリーダー格の頬をひっぱたいた。気持ちのいい音が教室に響く。亜美ちゃんは涙を流したまま、目を見開いていた。
「瑞希ちゃんの馬鹿っ。なんでそんなことするのっ?」
「亜美ちゃんのことが好きだからだよ!」
すると亜美ちゃんは泣きだしてしまった。でも表情は笑っていて「ありがとう」の一言と一緒に、私を抱きしめてくれた。
今思えばもっと他の手段もあったのだと思う。結局、私は亜美ちゃんと一緒に陰口を叩かれるようになったし、中学一年の時はあまりいい学校生活とは言えなかった。
でもそのおかげで私は亜美ちゃんともっと仲良くなれた。手を繋いだり、腕を組んだり、ハグをしたり。そのたび亜美ちゃんは顔を赤くして照れくさそうにするものだから、私まで恥ずかしくなってしまう。
けれど嫌じゃなくて。なんだか胸が温かくて。その感情の正体を私は知らなかったけれど、中学二年生の終わりに亜美ちゃんに告白されて、その時はじめて気付いた。
これが恋なのだと。
けれど私はそれを受け入れられなかった。多様性のことを学んだ授業終わり、クラスの皆が「気持ち悪いよね」といっているのを聞いてしまったのだ。親に問いかけても「あまりいい印象は抱かないわね」といわれた。
本心では付き合いたいって思ってた。けれど結局、私は自分の気持ちでも亜美ちゃんの気持ちでもなく、周囲にどう思われるか、両親がどう思うか。それを優先したのだ。
「亜美ちゃん。私とはずっと親友でいてね」
それが告白への返事だった。
亜美ちゃんが私と連絡を取らなくなったのは、その約束のせいなのかもしれない。好きなのに友達でいるなんて、きっと辛いだろうから。
〇 〇 〇 〇
「亜美ちゃん、どうしてるのかな……」
肩を落としながらささやくと、お姉ちゃんはぎゅっと私を抱きしめてくれた。
「きっと楽しくやってるよ」
私もお姉ちゃんのすべすべの背中に腕を回す。
「……でももしも私が告白を受け入れてたら、何か変わったのかな」
そうささやくと、お姉ちゃんは寂しそうな顔になった。
「お姉ちゃんは、告白受け入れてくれなくてよかったって思ってる」
「……えっ?」
「だってお姉ちゃん、瑞希のこと大好きだもん」
そう告げて、お姉ちゃんは私にキスをした。
青色の瞳が私を射抜く。お姉ちゃんは私が生み出した。そんな人に恋をされて、私はどう答えるべきなのだろう。告白を受け入れればそれは自作自演と変わらないのではないか。そんなことを思っていると、お姉ちゃんは笑った。
「お姉ちゃんの気持ちはね、確かに瑞希によって作られたものなのかもしれない。でもね『好きでいること』を選んだのはお姉ちゃん自身なんだよ。お姉ちゃんは瑞希のことが好き。世界の誰よりも大好きなんだ」
胸の中にのさばっていたもやが晴れていくようだった。私みたいな弱い人間を嫌いになる機会はたくさんあったはずだ。けれどお姉ちゃんは私を好きでいることを選び続けてくれた。
「……私も大好きだよ。お姉ちゃん」
今度は私からお姉ちゃんにキスをした。舌を絡めあうと、甘い声がお互いの口から洩れてくる。姉妹なのに変だ。こんなことをするなんて。でも、好きという気持ちに素直になる。それはきっと大切なことだから。
もう、あの日のように後悔したくないのだ。
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