第8話 不安になる一人っ子
ラブホテルのロビーに人はいなかった。私たちはパネルについているボタンを適当に押して、部屋を選ぶ。それから部屋に向かった。
その間中、お姉ちゃんは顔を真っ赤にしておろおろしていた。
別に変なことするわけじゃないんだから、緊張しなくてもいいのに。
選んだ部屋の扉を開けると、中は広かった。想像していたよりも落ち着いた雰囲気だった。意外に思いながら、私は天蓋付きのベッドに腰を掛ける。お姉ちゃんも恐る恐るといった風に、私の隣に座った。
重い荷物をもっていたからか、お姉ちゃんはかなり疲れているように見える。
「お姉ちゃん、先にお風呂入る?」
「ううん。瑞希が先に入ればいいよ。お姉ちゃんは後でいい」
そう告げて、お姉ちゃんは黒いワンピース姿でベッドに寝転んだ。私は「それなら先に入るね」と微笑んでから、脱衣所に向かう。
脱衣所で一人服を脱いでいると、なんだかとても寂しくなってきた。お姉ちゃんが隣にいたからこそ、私は平気なふりをしていられたのだ。もしも私一人なら、家出なんてしなかった。
きっと死ぬまで、両親の言いなりだったのだと思う。
高校も大学も職場も結婚相手も、なにもかも。自分の意志を挟む余地なんてなくて。だからお姉ちゃんは私からすると救世主みたいなものなのだ。けれど、やっぱり思うところはある。
本当に正しかったのか。
お父さんやお母さんは今頃、どうしているのだろう。すぐに戻ってくると思っていた娘がいつまで経っても帰ってこなくて、やっぱり喧嘩をしているのだろうか。
お前が悪い。あなたが悪い。
そんな不毛な言い争いが容易に想像できてしまう。
私はため息をついた。服も下着も全て脱いで、お風呂につかる。
もしも変わりたいのなら、私は家族の決裂を許容しなければならない。けれど私は十年近くも頑張って来たのだ。本当は両親に仲良くいて欲しいのだ。
駅でみた女の子のような人生ではなかったけれど、それでも私は両親のことを大切に思ってる。例え私から自由を奪うのだとしても、やっぱり二人は私のお母さんとお父さんで大切な人なのだ。
家出して家庭から距離を置いたせいで、かえってそのことを嫌というほど自覚させられてしまう。
もしも両親の仲が良ければ。もしも円満な家庭で幸せに自由に過ごせていれば。そんな想像をしてしまって、涙が溢れ出してきてしまう。私も人並みの家族愛を味わいたかった。人並みの幸せを知りたかった。
知りたかったんだ。なんの痛みも伴わない幸せを。
お母さんに抱きしめてもらいたい。お父さんに褒めてもらいたい。お姉ちゃんとずっと一緒にいたい。けれどそれはきっと、全て叶わない願い。人はいつしか大人になって、願いも誓いも全て忘れてしまう。
お姉ちゃんは「イマジナリーフレンド」。本来存在するはずのない、私の大切な人。永遠には一緒にいられないのだろう。理想のお姉ちゃんと二人で永遠の幸せを過ごす、なんてそんな都合のいい話がこの世界にないってこと、私は知ってる。
「……お母さん。お父さん。お姉ちゃんっ……」
大切な人は私の気持ちを分かってくれない。大切な人はいつか消えてしまう。だったら、大切だなんて思いたくなかった。
体育座りの姿勢で小さく丸まって震える。泣いても意味なんてないのに、泣き止めないのだ。私は一人だ。いつか一人になってしまうのだ。今じゃないって分かってても、押し寄せる不安になされるがままで。
すると突然、扉が開いてお姉ちゃんが入ってきた。
目を閉じたまま、不安そうに私の名前を呼ぶ。
「すすり泣く声が聞こえてきたから……。瑞希。……どうしたの?」
私はお姉ちゃんをみつめて、震える声でささやいた。
「……私っ、いつか、一人になっちゃうのかな? お父さんもお母さんも、きっと私を見捨てる。家出なんてしてさ、きっと嫌われた」
「私がいるよ」
お姉ちゃんは私の裸を見ないようにと目をそらしながら、真剣な表情を浮かべた。でも私はお姉ちゃんから目をそらして、ささやく。
「お姉ちゃんだって、いつか消えちゃうんでしょ? だってお姉ちゃんはイマジナリーフレンドだもん。実体を持っているけれど、私が大人になれば消えてしまう。……そうでしょ?」
私はまだ子供だから。お父さんとお母さんの不仲や、学校での孤独。親に決定された未来。そんな色々なことを悩むことができる。けれどきっと大人になれば、悩むことすらも忘れてしまうのだ。
受け入れたくないことも、受け入れてしまう。
大人になるというのは、そういうことなんだと思う。
でもお姉ちゃんは真っすぐに私をみつめて、告げた。
「……消えないよ。私がこの世界に存在するのは、瑞希を幸せにするため。それまで、私は絶対に消えない。ずっと瑞希のそばにいるよ」
お姉ちゃんはお風呂の中にまで服を着たまま入ってきて、私をぎゅっと抱きしめてくれた。水浸しになりながら、優しく強く。私を、必死で抱きしめてくれている。
そしてそのまま、お姉ちゃんは優しく唇にキスをしてくれた。
「大好きだよ。瑞希」
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