第4話 家出する一人っ子
私とお姉ちゃんはすっかり暗くなった雨の住宅街を相合傘で歩いていた。この時間ならお父さんも家に帰っているはずだ。二人はお姉ちゃんを受け入れてくれるだろうか。そうは思えない。
友達と遊ぶことすら許してくれない二人だ。今日この世に現れたばかりのお姉ちゃんを家に泊めてくれるとは思えない。もしも口論になったら、どうすればいいのだろう?
「ねぇ。瑞希」
「なに? お姉ちゃん」
暗い声に振り向くと、お姉ちゃんはとても不安そうに俯いていた。
「本当に大丈夫なの? お姉ちゃんは瑞希がどれだけ両親に逆らうのを恐れてるか知ってる。怖いならいいんだよ? お姉ちゃんのために瑞希に傷付いて欲しくないんだよ」
またお姉ちゃんはそんなことを。一人ぼっちで知らない世界に放り出されて涙まで流して。そんな姿を見せておいて、どうして今さら強がろうとするのだろう。やっぱりお姉ちゃんだから、良い所をみせたいとか思ってるのかな?
私は小さく微笑んだ。お姉ちゃんは自分を捨てるほどに、私のことを思ってくれている。だから私も選ばなければならないのだ。お姉ちゃんか、家庭か。
「……私だって怖いよ。でもそれはお姉ちゃんもでしょ? さっきみたいに泣きたいときは泣いて欲しい。強がらないで欲しいんだ」
私が微笑むとお姉ちゃんは顔を真っ赤にしてうつむいてしまう。
「さ、さっきのは忘れてよ。お姉ちゃん、恥ずかしいからっ」
私はくすくす笑いながら、お姉ちゃんの指に指を絡めた。するとお姉ちゃんはびくりと震えて、うるうるする青い瞳で私をみつめる。
「瑞希。これって……」
「恋人つなぎだよ?」
私が微笑むと、お姉ちゃんは耳の先まで真っ赤にしてしまった。
指を絡めてぎゅうと握りしめれば、お姉ちゃんの温もりが伝わってくる。もう長い間誰とも手を繋いでいない気がする。私はずっと求めていたんだ。心からの優しさや愛。かけがえのない気持ちを。
門扉を通って玄関扉を開く。するとすぐにお母さんの怒鳴り声が聞こえてきた。
「こら瑞希。どこに行ってたの!」
私は体を小さく震わせた。
両親の怒鳴り声を聞くと、無条件で委縮してしまう。小さなころの感覚を蘇らせてしまうのだ。そんな私の手をお姉ちゃんはぎゅっと握りしめてくれる。
「ごめんなさい。大切な人を探してて」
私は勇気を振り絞って、声をあげる。でもお母さんの反応は芳しくなかった。
「その隣の不良が大切な人? 銀色の髪の毛に青い瞳、ねぇ? なのに日本人の顔。ハーフってわけじゃないでしょ? 髪の毛染めてカラコンまで入れて……」
お母さんは「やれやれ」とお姉ちゃんを睨みつけていた。
「そんなのが大切な人だなんて、冗談よね?」
お母さんがうんざりした声をあげると、お父さんまで玄関にやって来た。
「勉強もほっぽり出してどこに行ったのかと思えば、なんだその女は」
お姉ちゃんは肩をすくめてうつむいてしまっている。私も体が震えていた。実の両親にこんな刺々しい目線を向けられて、幼いころの夫婦喧嘩ばかりの毎日を思い出してしまうのだ。
でも今引くわけにはいかない。ここで引けばお姉ちゃんの居場所がなくなってしまう。どうにかしてお姉ちゃんを泊めさせなければならない。……だけど私の頭の中には、幼いころの記憶がよみがえる。
私が二人に従順だからこそ、表向きは家族の体裁を保てているのだ。私が逆らえば、私たちはまた壊れてしまう。そのことを思うと、声はか細く震えてしまう。
「この人は不良なんかじゃないです。ずっと私を助けてくれていた人なんです。私の、大切な人で……」
「で? その大切な人をどうして家に連れてきたわけ?」
鋭い視線に射抜かれる。のどが詰まって言葉が引っ掛かってしまう。このままじゃダメだ。分かっているのに、極限の焦りと恐怖で他の手段が思い浮かばない。私は瞼を閉ざして、震える声でつげた。
「家に泊めてもいいですか? 事情があって帰る家がなくて。だから……」
するとお母さんとお父さんは大きなため息をついた。
「そんな家出するような子と付き合っちゃだめよ」
「そうだぞ。そんな不良と付き合えば、お前に悪影響が出る。な? 不良ってのはまともな家で育ってないから不良になるんだ。お前みたいな優等生がそんな奴と付き合うな。引きずりおろされるぞ」
普段は仲が悪い癖に二人は同調して私に圧力をかけてくる。
でもその時、私が感じたのは恐怖ではなかった。
お姉ちゃんは不良じゃない。私が救われたくて生み出した存在なのだ。二人の不仲を取り持つために、そのストレスを減らすために生まれてきてくれた大切な人なのだ。
そんな人を悪く言って欲しくない。
「……この人は不良なんかじゃないです」
「いや。不良だ。そんな髪色おかしいだろ?」
「そうよ! 早く出ていきなさい!」
冷たい声は、まるで巨大な鉄の塊のようだった。お母さんもお父さんもその声で繰り返し私を殴っていたのだ。十年近く、ずっと。無意識に、無遠慮に。でも私は耐えるしかなかった。
だってそうしている限り、二人は私のお父さんとお母さんでいてくれるから。
でもお父さんもお母さんも私に理想を押し付けるだけだった。自覚はないのかもしれないけれど、家庭という重荷を私に背負わせるばかりで、助けてくれることなんて一度もなかった。
なのに、どうして私を助けてくれたお姉ちゃんをそんなに批判できるの? 自分が親だから? 親らしいことなんてなんにもしてない癖に?
「そんなやつはうちには泊められない。ほら、さっさと家から出ていけ。あと、金輪際うちの娘に関わるなよ」
「そうよ。早く出ていきなさいよ」
お姉ちゃんは申し訳なさそうな表情で、私をみつめた。かと思うと、玄関の扉を開けて外へ出ていこうとする。一人ぼっちをあんなにも恐れていたのに。
私のために。
胸が苦しいくらいに鼓動する。寒いはずなのに額がじっとりと汗ばんでいる。この選択が間違いなのか、どうなのか。今の私には分からなかった。けれど、その衝動を抑え込めるはずもなかった。
お姉ちゃんは大切な人なのだ。私の唯一の味方なのだ。
「……だったら、私がこの子と一緒に家出します!」
体の中にわずかに残った精一杯の力で、私は叫んだ。
二人は目を見開いていた。驚きに固まった二人を押しのけて、自分の部屋に向かう。幸いにもお金はある。ホテルでも適当に選んで泊ればいい。だけどお金も無限じゃない。使い果たしたら、それから先はどうすればいいのだろう。
分からない。けれど今この家を飛び出さなければおかしくなりそうだった。私の心を支えてくれたお姉ちゃんに酷い言葉を浴びせる。平然と私の大切な人を傷付ける。そんな人たちとはもう、一緒にいられない。
私はお金や服などを、中学の修学旅行のときに使った鞄に詰め込んだ。そうしているとお父さんとお母さんが私の部屋までやって来た。
「……瑞希、本気なの?」
「やっぱりあいつのせいか」
どうやら二人は未だに気付いていないらしい。私は無言で必要なものを詰め込んだ。そして無言で二人を押しのけて、玄関に向かう。
「あなた。止めなくていいの?」
「放っておけ。どうせすぐに戻って来るさ。あいつは真面目で良い子だから」
私はますます苛立った。頭が痛くて、おかしくなりそうだった。私は二人の人形じゃない。人間なんだ。愛だって欲しいし、大切にだってしてもらいたかったのだ。でも結局私は、何も手に入れることができなかった。
靴を履いて玄関を出た。するとそこにはお姉ちゃんがいた。私は傘をさして、お姉ちゃんの手を掴む。指先を絡めてぎゅっと握りしめる。
「……ここまでしなくてもいいよ。今すぐに戻ったほうが」
「私を救ってくれたのはお母さんでもお父さんでもない。お姉ちゃんだったんだよ。だから私はお姉ちゃんを選ぶ。今くらい、大切な人を優先させてよ」
私はお母さんとお父さんの指示に逆らえず、親友だった亜美ちゃんを失った。B判定なら合格だって現実的だったのに、許してくれなかったのだ。
もうそんな嫌な思いはしたくない。
お姉ちゃんは私の言葉に何も言い返さなかった。ただ、ぎゅっと私の手を握り締めて「ありがとう」と涙を流しながらつげるだけだった。
泣かなくてもいいのに。お姉ちゃんが泣いてしまったら、私もこらえきれなくなってしまう。
「……ありがとう。お姉ちゃん」
「私こそありがとう。瑞希」
私たちは二人、堅く手を繋いで雨の街を歩いていった。
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