第3話 雨に濡れるお姉ちゃん

 二階の自室で勉強をしていると、外が暗くなってきた。空には黒い雲が垂れ込めていて、今にも雨が降ってきそうだ。お姉ちゃん、大丈夫なのかな。


 勉強に疲れて窓を眺めていると、案の定、雨が降ってきた。窓を雨粒が流れ落ちていく。かすかに見える斜陽の光が散乱して、淡いオレンジ色が大気に広がっていた。


 ぼうっとそれを眺めていると、遠くの道路をお姉ちゃんが歩いているのがみえた。傘も持っていなくて、雨に降られてもぼうっとしている。やっぱりお姉ちゃんはゆくあてがないのだろう。


 でも私にできることなんてない。


 子供の頃の記憶を思い出す。連日のように口論する両親の記憶。私はいつだって怯えて過ごしていた。二人には仲良くして欲しいのに、お互いに攻撃しあっていたのだ。


 あんな毎日には戻って欲しくない。


 けれど、とも思う。


 お姉ちゃんは何か展望があるわけでもないのに、私を助けてくれた。自分のことなんて顧みずに、私のために。お姉ちゃんは「瑞希を助けるために生まれたんだよ」と自分を定義していたけれど。


 少なくとも傘もなく、雨に降られるような目に会ってほしくはない。


 小さくため息をついてから、私は自分の部屋を出た。一階に降りると、お母さんが「どこに行くの?」と問いかけてきた。鋭い声色。その瞬間、私の体は固まってしまう。


「勉強をしなさい。あなたのためを思って言っているのよ?」


 お母さんはやれやれと首を横に振る。


 反論なんてしてはいけない。従わなければならない。長年の習慣が私にそれを強いてくる。けれど頭の中に思い浮かぶのは、雨の街を寂しそうに歩いているお姉ちゃんの姿だった。


「……ごめんなさいっ!」


 お母さんが大声で私を呼び止めようとしていたけれど、私はそれを無視して玄関を飛び出した。帰ったら絶対に怒られる。分かっていても、足を止められなかった。


 その日、私は初めて、お母さんに逆らった。


 胸が苦しい。恐怖に震える。もしも私の行動のせいで両親がまた喧嘩を始めたら。今の平穏を崩してしまったら。頭が痛くて、締め付けられるようだった。


 でもお姉ちゃんを生み出したのは私なのだ。責任を持たないなんておかしい。せめてお姉ちゃんに夜を過ごす場所を与えてあげないといけない。


 お姉ちゃんが現実世界で生きる目途が付くまでは、どうにかして助けてあげないと。だってお姉ちゃんは私の理想のお姉ちゃんなのだから、そんな人が傷つく姿なんて見たくないのだ。


 拳を握り締めて、覚悟を決める。私は息を切らせながら、街を走り回った。雨音は激しくなってゆき、ますます不安になる。お姉ちゃんは今、どんな気持ちで現実世界を歩いているのだろう。


 見慣れないものばかりで、そんな世界に突然一人で放り出されて。


 きっとお姉ちゃんはとても不安だったはずなのに、それでも私を助けようとしてくれて。本当にお姉ちゃんは私のことを大切に思ってくれているのだ。


 子供じみた自己愛だと言われても構わない。お姉ちゃんは私の想像力が生み出した存在だ。イマジナリーフレンドみたいなものだ。けれど、それでも、やっぱり私にとっては唯一無二のお姉ちゃんなのだ。


 いつだって私を救ってくれた。お父さんもお母さんもクラスメイトも、誰にも話せないことを黙って聞いてくれた。そして励ましてくれた。頭を撫でたり、膝枕をしたり。


 想像の中だけれど、確かに私を救ってくれていたのだ。


 だから今度は私が救う番だ。


 降りしきる大雨の中で、私はようやく公園にその姿をみつける。


 ブランコで一人揺れるお姉ちゃんは、うつむいて寂しそうな表情をしていた。


〇 〇 〇 〇


 最初は自我なんてものはなかった。けれど悲しみ苦しむ瑞希を見ているうちに、どうにかして救いたいと願うようになっていた。


 そうして私は「お姉ちゃん」として自我を持ったのだ。


 でも家庭の問題は根深く解決は容易じゃなかった。長い時間考えたけれど、解決策を提示できなかった。だから瑞希は苦しみ続けることになってしまった。


 これ以上、瑞希に迷惑をかけるわけにはいかない。お姉ちゃんとして間違ってるし、なにより迷惑をかけることで瑞希に嫌われたくないのだ。瑞希は私の一番大切な人。大切な妹なのだ。


 幸せになって欲しい。せめて今以上に不幸になって欲しくない。


 私が雨に降られるだけで、一人ぼっちで知らない世界の夜を過ごすだけで、瑞希は厄介ごとに巻き込まれずに済むのだ。それなら私はこの心に穴が開いたような寂しさだってこらえてみせる。不安だって耐えてみせる。


 でもその一方で私の弱い心は、瑞希に迎えに来てほしい、なんて思ってしまうのだ。そんなの願ってはいけないのに。きっと今、瑞希に会えばお姉ちゃんとして強がることもできない。


 私はこれまでいつだって瑞希のそばにいた。頭の中の存在だから決して片時も離れることはなかったのだ。なのに、今は一人ぼっち。こんなに一人が辛いなんて知らなかった。知らなかったんだ。


 初めて知った孤独が寂しくて寂しくて、涙が溢れ出してくる。私は弱い。お姉ちゃん失格だ。どうしても瑞希に会いたいと願ってしまうのだ。そんな願い、届くはずも届いていいはずもないのに。


 でもそのとき、足音が近づいてきた。音の方を見ると、そこには笑顔の瑞希がいた。


「お姉ちゃん。帰ろ?」


〇 〇 〇 〇


 私はお姉ちゃんを傘の中にいれた。ずぶ濡れなお姉ちゃんは、銀色の髪の毛をますます美しく輝かせていた。けれど顔をタオルで拭いてあげると、雨水とは違う水が頬を伝っているのに気づいた。


 胸が締め付けられるようだった。


「瑞希。瑞希っ……」


 お姉ちゃんはずぶ濡れの体でぎゅっと私を抱きしめた。私も傘を持ったまま、お姉ちゃんを抱きしめる。


 考えてみれば当然なのだ。お姉ちゃんは生まれてからずっと私と一緒にいた。なのに私が自分を優先したせいで、初めて一人ぼっちになってしまったのだ。きっと寂しかったのだと思う。辛かったのだと思う。


「お姉ちゃん。ごめんね」


 胸元にお姉ちゃんの頭を抱えて、よしよしと撫でてあげる。するとお姉ちゃんは泣き声をあげた。お姉ちゃんのこんな姿、初めてだ。心が痛む。


 お姉ちゃんは上目遣いで私をみつめてくる。その青い瞳はうるんでいるからか、とても美しくみえた。宝石のようで、私は気付けば引き寄せられるように、お姉ちゃんのおでこにキスをしていた。


「……瑞希?」


 お姉ちゃんはその瞬間に顔を真っ赤にして、うつむいてしまう。もじもじするお姉ちゃんは相変わらず可愛い。


「大好きだよ。お姉ちゃん。一緒に家に帰ろう?」


 私が笑顔を浮かべると、お姉ちゃんは目をまん丸にして私を見上げた。かと思うと小さく微笑んで立ち上がり、私のおでこにキスをした。


「お姉ちゃんも瑞希のこと、大好きだよっ」


 目の前には満面の笑みが浮かぶ。


 お姉ちゃんの唇は柔らかくて温かかくて。自分がするときには恥ずかしいなんて思わなかったのに、される側に回ると顔が熱くなってしまうのだ。


 私は恥ずかしさを我慢しながら、またお姉ちゃんを抱きしめた。

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