空を弔う
紺堂 カヤ
空を弔う
インターホンが鳴ったので、僕は窓のない書斎を出て玄関に向かった。指紋認証を求める宅配ロボットの、眼球のようなパネルにタッチして、小包を受け取る。ついでに、郵便受けから何通かの封書を引き上げて、リビングのテーブルにまとめて置いた。
小包は「旬の味覚便」だ。一カ月にひと箱ずつ、季節ごとの食品を届けてくれるサービスで、買い物嫌いなのに食べることは好き、という僕にぴったりなのでここ数年利用し続けている。安くはないが、値段に見合ったものが届くので不満はない。
箱をあけると、青々とした地面の匂いがした。大きく艶やかな、立派なサヤ。今月は空豆であるようだ。サヤごと焼くか、スタンダードに塩茹でか。どちらにしてもアレは必要だな、と、僕はタツに電話をした。コール数が十を超えたあたりでしぶしぶといったように電話に出たタツに、僕は笑いながら言った。
「ビールを買ってきてくれないか」
リビングには大きな窓があるけれど、そこから見えるものといえば、何の会社が入っているのかわからない高い高いビルだけだ。十五階建てマンションの七階の部屋なんてそんなものだろう。君の仕事のことを思えばもっと景色のよいところへ越すべきではないか、とはよく言われるが、どんなに景色がよかろうと窓の外を天馬や翼竜が飛んでいくわけではないし、それならばどこに住もうと変わりはしない。もともと、ふたりで暮らすことを想定して借りた部屋にひとりで住んでいることもあり、広くて充分快適な住まいだ。それを、景観だけを理由に手放せるほど、僕は芸術家肌でもない。それに、僕にとっての空は「見上げるもの」だ。
天馬や、翼竜。
僕はくすくすと思い出し笑いをした。そういうのが妙に流行したときがあるのだ。だからそのころは、そういうのばかり書いた。さすがにベタすぎてボツになるだろうと思って書いた、「翼竜と人間の少女の恋物語」が大ヒットしたときには驚いた。なんだ、皆まだこんな紋切型の話を求めていたのか、と。
小さな飛行機で世界の果てを探す少年の話、空を飛べる人種が迫害を受ける話、天から落とされた乙女の話、生まれてから一度も空を見たことのない子どもたちの話、月に住む人魚の話、青空を撮り続けるフォトグラファーの話、空しか描かない画家の話、空中の歌姫の話……。
もう書いていない設定はないのではないかと思われるほど、僕は「空」に関する物語を書いた。僕はたぶん、この世で唯一の「空専門の小説家」だ。自己の名義だけでなく、ゴーストライターのような種類の仕事も入る。数年前、「空のおはなし」というアンソロジーの刊行が決まったときには、執筆陣の約三割から原稿の依頼が来ておおいに笑った。さすがにすべて引き受けることはできなかったが、あの本の二割は僕の作品だ。
編集者にはことあるごとにネタ切れを心配されるが、ネタが尽きたらそのときが辞め時だと思うことにするさ、と笑っておいている。
今日のところはまず焼き空豆にすることに決めて、オーブンに十本ほど、並べて入れた。「調理する食材は何ですか?」とオーブンが訊くので、音声認識マイクに向かって「生の空豆。サヤごと。焼き空豆にしてくれ」と告げると、「かしこまりました」と返事があってオーブンが閉じた。「調理時間は、約十分です」。
空豆が焼ける頃にはタツもやって来るだろうと、僕はリビングのソファに身を投げ出した。ふと、テーブルに目をやると、さっき適当に置いた封書の中に、めずらしく手書きで宛名のあるものを見つけた。手書きどころか、筆書きだ。それも薄墨であるところを見ると、弔事関係であるらしい。しかし、差出人の記名がない。不謹慎にも微笑んでしまいながら、僕はその封書を開いた。そしてますます笑みを深めた。
オーブンのアラームが鳴るのとほぼ同時にインターホンが鳴って、そのどちらにも返事をする前に、玄関の扉が開いた。
「おーい、ビール買ってきたぞー」
買ってきた、と言うくせに手ぶらのタツの後ろから、宅配カートが入ってきた。
「ありがとう。手持ちできないほど買ったのか?」
「だってどうせお前のウチ何もないんだろ?パスタとか、缶詰とか、ついでにいろいろ調達してきてやったんだよ。あとで金払えよ」
カートの上の荷物をすべてキッチンにおろして、タツは精悍な顔をしかめた。僕は苦笑して再度礼を言うと、引き返していくカートのために玄関の扉をあけてやった。
「オーブンに、空豆があるんだ」
「おおっ、いいね」
タツはいそいそと焼きあがった空豆を取り出した。ほどよく皮が焦げ、ほかほかと湯気をたてた旬の青い豆を、皿に山盛りにする。
「いいねえ、贅沢だ。よし喰おうぜ、焼き空豆は熱いうちじゃねえと」
ソファに向かい合ってすわり、タツは嬉しそうにした。グラスによく冷えたビール。軽く乾杯。あちち、あちち、と言いながら空豆を剥いて、荒塩をぱらりと振りかけてからはふはふ食べた。そしてビールをごくごく飲む。
「旨いな」
「うん」
交わす言葉はそれだけだ。皿に伸ばされるタツの腕は無駄のない筋肉がついていて、健康的に日焼けしていた。夏、ビール、焼き空豆。実に似つかわしい。
「いやー、旨かったなあ」
ふたりでもくもくと食べ尽くし、皿の上は皮だけになった。タツは満足そうに息をついて、何杯目かのビールを飲みほした。
「まだあるのか、空豆」
「あるよ。もっと焼くか?」
「いや、今日はもういいや。今度、天ぷらにしようぜ」
「いいね」
僕は皿をキッチンの流し台に片付けて、冷蔵庫から白ワインのボトルを取り出した。持ち上げる仕草だけでタツに飲むか、と尋ねると、即座に飲む、と返ってくる。
「これ、分量は調節できないのか?毎月ひとりで食べきれない量が送られてくるなんて勿体ないだろ。あ、チーズ買ったんだ、喰おう」
「チーズ?ああ、これか。……分量、ねえ。問い合わせればできなくはないのかもしれないけど。いいじゃないか、タツも食べるんだから」
「空豆ならな。先月みたいに、桜餅と桜あんぱんの詰め合わせ、とかじゃ協力できないぞ。あれ、結局どうしたんだ?」
「出版社で配ったよ」
僕は先月のことを思い出して、くく、と笑った。タツは甘いものが苦手なのだ。
「無駄が多いんだよ、お前は。結局は結婚しなかったくせにこんな部屋に住んでるしさ」
「余裕のある暮らしと言ってくれ」
「はあ?感じ悪っ」
大げさに顔を歪めるタツに笑って、僕はグラスを差し出した。再度、軽く乾杯する。
タツが言ったように、僕には結婚の予定があった。数年つきあっていた女性に急かされたからだが、結婚を決めたのと同時に、執筆の仕事が上手くまわり出し、原稿依頼をたくさん受けるようになった。そちらに没頭したかった僕は、一方的に結婚を取りやめ、女性と別れた。もう五年以上前のことになる。十年、は経っていないと思うが、どうだったか。相手の女性には悪いことをしたと思うが、正直、もう顔も思い出せない。
「旨いな、このワイン」
タツがあっという間にグラスを空にする。キッチンに立ったまま飲んでいた僕はタツの向かいに戻り、グラスに二杯目をそそいでやった。
「あ、そういえば。面白い手紙が届いたんだ」
「手紙?誰から」
「わからないんだ」
テーブルの端に置いたままになっていた封書を、タツに見せてやる。
「はあ?わからない?……なんだこりゃ、〝空の葬儀のご案内〟……?」
タツが薄墨の文字を見づらそうに読み上げた。
「先日、空が、そのあまりに長き生涯に幕をおろしました……、生前には大変お世話になり、心より御礼申し上げます……、つきましては葬儀に御参列いただきたくお知らせ申し上げます……?なんだこれ、いたずらか?」
「さあ。わからないんだけどさ。ちょっと面白くない?」
「面白いかあ?悪趣味だな、お前」
タツがテーブルの上に手紙をぽい、と放った。
「だって、ここには『幕をおろしました』とあるんだよ。だけど、僕が見る限り、今日も空は窓の外に広がっている。これを書いた人は、何をもって『空が生涯に幕をおろした』としたんだと思う?」
「知るかよ。そういう理屈だか言葉遊びだかわからんことは、自分の頭の中だけでやってくれ。つーか、窓の外に、って、ここの窓から空見えねえじゃねえか」
「見えないこともないよ、窓ガラスにできるだけ体をくっつけて見上げれば、だけど」
「ああそうかよ」
タツは面倒くさそうに片手を振って、ワインのおかわりを要求した。
「まさかとは思うが、空、って名前の知り合いがいるとかじゃねえよな」
「いない」
「だよな」
単なるいたずらであるとしても、誰がどんな目的で出した手紙なのだろう。自慢ではないが僕は交友の範囲が狭い。同業者の知り合いもほとんどいないし、学生時代の友人、と呼べる人物など皆無だ。唯一、友人と呼べるのは、目の前でワインを飲んでいるこの男なのだ。
「まあ、行ってみればわかるかな」
「行ってみれば、って、その空の葬儀とかってやつに?行くのか?どう考えても胡散臭いだろ」
「胡散臭いけど面白そうじゃないか」
手紙には葬儀の日時と会場が記載されていた。二週間も先だ。空が生身だったら腐乱は免れないところか。いや、今の技術だったら三か月ほどは鮮度を保つことができるのだったか。
「タツも一緒に行くかい」
「えぇ?」
放り出した手紙をつまみあげて日時を確認すると、タツは乗り気ではなさそうだったが頷いた。
「予定通り帰国できてたらな」
「ああ、ケアンズだね。いつ出発?」
「明後日だよ。あのな、半分以上はお前のために行くんだぞ?日程くらい覚えておけよ」
「ごもっとも。すまん」
軽く笑って詫びると、タツは嘆息してジーパンのポケットから小さなメモリカードのケースを取り出した。
「これ、去年のハワイの画像データだ。別のカメラで撮ってた分を渡し損ねてた。いまさら必要ないかもしれねえけど」
「いや、有難く頂戴するよ」
僕がケースを受け取ると、タツはグラスを置いて立ち上がった。
「支度があるから、そろそろ行くわ」
「うん、気を付けて。……楽しんできなよ」
「……そうだな。その〝ついで〟に、空を持ち帰ってきてやるよ」
タツは楽しそうにニヤリと笑った。タツにとっての空とは、「飛ぶところ」だ。
タツはスカイダイバーだ。出版社を通して行った、取材の際に知り合った。その頃は北海道にある観光客向けのスカイダイビングクラブでインストラクターをしていたが、十年ほど前に、オーナーともめてやめてしまった。それ以来、関東を拠点にしてフリーで活動している。観光客が増えるシーズンにだけ、ビデオ撮影係として呼ばれて飛んだり、急病になったインストラクターの代わりをつとめたり。それから、僕の注文に応じて飛んだり。
「自分で飛べばいいじゃないか、一緒に飛んでやるぞ。もちろん、撮影もつけてな」
最初に注文したとき、タツにそう言われたけれど、僕は笑って首を横に振った。そのときの言い訳の「閉所恐怖症なんだ。飛ぶのはともかく、狭い飛行機で上空へ上がっていく時間を耐えられそうにない」というのに嘘はないけれど、理由はそれだけではなかった。
タツにもらったメモリカードを、リビングのディスプレイで見るべく、接続された機器にセットする。
ごごご、ばばば、という風の音がして、ディスプレイに不安定な光景が映し出された。青と、白と、白と、黒。ざらざらした英語で交わされる会話。タツの、短い笑い声。
ゴー、とその声だけが妙に明朗に聞こえたと思ったら次の瞬間には、タツは風の中を舞っていた。一度、ぐわっと視界が持ち上がって、それから、まるで一定の高さを漂っているように安定する。しかし、その安定していると見える間にも、タツの体は地上に向かって落下しているのだ。ばばばばばばば、と風がタツのウエアを叩く音がする。
タツが、レンズをわざと下に向けた。雲の層が見える。絨毯のようだ。雲海、というやつ。そこからぐるり、と画角を変えて空一面を映す。
一面? どこからどこまでが一面だ、と僕は自分の思考に待ったをかける。
そんな内心などおかまいなしに、映像はどんどん下降する。青、白、白、青、青、雲の下から緑?いや、見えた気がしただけかも。
雲の層に入る前に、僕は映像を止めた。膝の上に置いた手を見て、窓の外のビルの窓を見て、テーブルを見た。ほとんど中身の入っていないワインボトルと、グラスがふたつと、それからあの手紙。僕は自分が十五階建てのマンションの七階の一室にいるのだということを、再認識する。飛行機から身を投げ、風の中でバランスを取って空中の映像を撮影したのはタツであり、僕の体験ではない。僕はディスプレイの前で、風も空の変化も感じられないリビングで、それを見ているだけなのだ。
僕は、タツの映像から、空の飛行……厳密には飛行ではなく落下なのだが……を追体験したりしない。あくまでも、「地に足をつけた者」として飛ぶ光景を傍観するのだ。その制約にどれほどの意味があるものか、自分でもわからないのだが、僕は決して「空を飛ぶことができる者」になってはいけないのだ、という妙な予感があった。僕にとって空は、見上げるものであって、飛ぶものではない。
映像の一時停止を解く。再び風の音を聞きながら、僕はあの手紙を手に取った。この手紙の差出人は空を生き物と捉えているのだ。そうでなくては「生涯」という言葉も「生前」という言葉も使うまい。
飛ぶところ、つまり風を受け浮遊感を味わうための場所として捉えているタツとも、見上げて愛でるための観賞物と捉えている僕とも違う。
いったいどんな人物で、いったいどんな葬儀だろう。
葬儀には結局、僕ひとりで参列することになった。タツには連絡が取れなかったのだ。旅程が狂っているのだろう。天候の所為か、航空会社のトラブルか。珍しくもないことだ。
手紙に書かれた式場は、きちんとした葬儀会館で、念が入ってるな、と思うと同時に、なんと言って予約を取ったものだか不思議になった。金さえ払えばなんとでもなるのだろうか。
このところ流行しているらしい窓のないつくりのビルの、その最上階で、式は執り行われるようだった。ずいぶん久しぶりの、真っ黒な礼服。空の葬儀に参列するのに人間と同じ作法でよいのかどうか、いくらかの迷いはあったけれど、これ以外に特に気の利いた服装も思いつかなかった。
あえて述べておくことだが、この日も僕は空を見上げたし、見上げられた空も泰然と、臆することなくそこに「あった」。
式場には、誰もいなかった。がらんとした大きな部屋の壁にはぐるりと鯨幕が貼られ、最奥には白い花で埋め尽くされた立派な祭壇がある。受付すら設置されず、パイプ椅子も並べられていない、だだっ広い式場に僕の足音だけが響く。
どうしたことだろう。偉大なる空の葬儀が、こんなに寂しくていいものなのだろうか。空のおかげで生活できている者は数えきれないだろうに。翼を持つ乙女とまでは言わないが、空ばかり撮るフォトグラファーや画家くらいは、参列しても良さそうなものなのに。僕はそんなことを考えて、場違いにも笑ってしまいそうになった。
静かな式場。遺影はない。だが、祭壇の中央には棺があった。吸い寄せられるように、祭壇へ向かった。
あの棺に横たえられているのが、空だというのだろうか。いったい何が入っているのだろう。それとも、空は入れられなかったから空っぽです、というわけだろうか。
そうっと覗いた、その、棺の中には。
僕の良く知る顔があった。
ほどよく日焼けした、精悍な顔。
タツだ。
「さすがに空を落とすことはできなくて。だから『あなたの空』だけを落とすことにしたの」
背後で、硬質な声がした。振り向くと、喪服姿の細身の女性が立っていた。
「可哀想に、パラシュートがちゃんと開かなかったみたい。落下事故での死亡にしては、綺麗な状態の遺体だそうだけど。不幸中の幸い、というやつ?」
「……君は、誰だ?」
嬉しそうにしゃべり続ける女性に、僕は問うた。どこかで見たことがあるような気がする顔ではあったけれど。問いかけた瞬間、彼女の笑顔が引きつった。
「誰、って……、本気で訊いてるんじゃないでしょ?」
「申し訳ないが、本気だ。すまない、人の顔を覚えるのが苦手でね」
みるみるうちに、女性の頬が赤くなり、まなじりが吊り上っていく。
「どうして!?どうして自分の妻になるはずだった女の顔を忘れてしまえるわけ!?」
金切り声が式場に響いた。ああ、と僕は嘆息する。そうか。彼女はこんなふうだったっけ。正体がわかってもなお、ピンと来なかった。それきり彼女には興味を失って、僕は棺の中のタツと向き合った。
外傷はなさそうに見えた。少なくとも、顔には。まるでまだ筋肉が働いているように、口元は引き締まっている。たくさんの風を受け、何度も空を飛んできた男の死に顔として、きっとこれ以上のものはないだろう。
ついこの前だったのに。一緒に空豆を食べたのは。
「……残りは、天ぷらにしてひとりで喰っちまったよ」
僕は少し、笑った。
「ちょっと!」
怒鳴る彼女に、僕はもう一度だけ顔を向けた。きっとこの先、二度と見ることはないであろう顔だ。
「君が落としたのは、僕の空じゃない。彼は僕の空ではなく……、そうだな、いわば、僕の翼竜といったところかな」
は、と目を見開いて固まっている彼女を置いて、僕は式場の出口へ向かった。葬儀会社の人はどこだろう。遺体を引き取って帰りたいのだが。今の技術なら三か月は鮮度が保てるらしいし。
空を見上げようとして、ここには窓がないことに気がついた。でも、大丈夫だ。僕には、タツが持ち帰ってくれた空がある。
次に書くのは「空をつかみ損ねて死んでしまったダイバーの話」だ。その次は、「空の葬儀の話」で決まりだろう。
僕は、まだしばらく、廃業せずに済みそうだ。
空を弔う 紺堂 カヤ @kaya-kon
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