一九八八年五月十五日

 桜舞い散る歩道を、新しいランドセルを背負った新入生が並んで歩くのが恒例の四月。「入学式のイメージ」は幻想、つまり関東中心主義思想であって、これが現実なんだと思い知ったのは、わたしが北海道から東京に引っ越してきたときであった。北海道の桜が咲くのはゴールデンウィーク。入学式はとうに終わっている。日本の狭い国土も南北に伸びているため、ささやかなカルチャーショックが後を絶たない。

 四季のなかで春がいちばん好きだ、という言葉を何度も聞いた。わたしは春より秋が好きだ。雪解け水がないから。かつて炭鉱で栄えたという湯浴沢はいまでは何の跡形もなく、水はけが悪い泥炭地が広がって、雪解け水をはじいてわたしのズボンの裾を汚し、母に怒られるという嬉しくもない記憶があったから、春は嫌いだ。

「上京」といえば、必ず上野駅に下車する先入観的イメージがあるが、わたしの場合は羽田空港だった。ちょうど青函連絡船が廃止されたころで、北海道から本州へ行く「北斗七星」は車中泊があり、料金もバカ高い。時間も金もある老夫婦がする贅沢旅行で、わたしには関係なかった。列車で行くより飛行機で行くほうがハードルが低かった。当時は学割のようなものがあったから。

 東京の街より札幌の街のほうが新しくて進歩的な感じがしたし、札幌の地下鉄の自動改札機はすでに導入されていた(1972 年札幌冬季オリンピックで一気に都市開発があった)。

 改札では十数人の駅員が何百万人の乗客の切符を切るため職人のような手さばきをし、乗客を待っているあいだにもカチャカチャという音が鳴っていた。ある意味、懐かしい風景だ。

 十八歳のわたしは、ある時代の相対的立ち位置を知らなかったし(あとになってやっとバブルまっさかりだって知った)、土地勘も知らなかったし(どこに住んでいいのかどのへんが家賃が高いのか安いのか生活に便利なのかまったくわからなかった)、ただ、大学から遠く離れたらきっと授業に行かなくなるってことだけはなんとなく自覚していたが、たった二駅離れたところに住んでいたのに、二、三年生のときには全然行かなかった(自分の家計のため、バイト先には行った)。部屋に閉じこもってゲームばかりしていたのだ。何という体たらくだ。

 一人暮らしで引きこもりになるなんてありえない。ただゲームが面白くて夢中だったのだ。勉学や授業にはまったく興味が持てず、本を読んだり音楽を聴いたり映画を観たりして過ごしていた。母について小説を書こうとしたが、憎しみが鮮やかすぎて近視眼的になり、筆が動かなかったのでやめた(ワープロはなく、大学ノートで書こうとしていた)。そんなことは忘れて、わたしはもっと面白いことや楽しいことに目を向けたのだ。

 新宿駅に着くと生臭いにおいが立ち込めた。シャワーの水を浴びると目が染みる(そうわかったとたん、わたしはペットボトルの水を飲料用水にした。水道の水は不味くて飲めなかった)。天気予報は快晴なのに空はいつもどんより曇っている。北海道の広々としてくっきりした快晴の空が恋しかった。東京に憧れを抱く人は気づかないが、わたしのような憧れを抱かない人は、すでに都会の利便性より死にかけ摩滅した自然性、自然の延命のため科学を最大限に活用している必死さを、わたしは感じずにはいられなかった。

 わたしの通う大学は地方出身者が比較的多いらしく、入学式を終えてゴールデンウィークを迎えたころは、すでにホームシックにかかっている。いわゆる「五月病」だ。わたしの住む学生マンションの住人もほぼ同じ大学の女子学生だが(このマンションの電話は特殊な機能があり、管理人が住人に教える講習会があって知り合った)、ため息交じりに「帰りたい」とつぶやく場面が多々あった。

「帰りたい」だなんて、とんでもない。こっちは「大学上京という名の家出」をしたばかりだ。ずっとこっちにいたい。生まれたときから十八年間家族で暮らしたが、一人暮らしの快適さはこの上なく、生まれたときから一人暮らしをしている錯覚に陥った。

 わたしが東京に行くと決めたのは、高校三年のとき。ぎりぎりのタイミングだ。進学先は国立大学しかなく、選択肢が少なかった。東京の私立大学に行けば、受験の選択科目は自由に選べる(ただし私立文系の英語はめちゃくちゃ難解だった)。国立大学に行くには英・数・国・社・理の五科目で共通一次試験を受けるしかない。わたしは数学と社会が苦手だった。数列は意味不明、歴史上の人物名と年号は受験のために記憶する暗号にしか思わなかった。当時わたしが得意だったのは国語と英語と倫理。作文もそんなに得意ではなかったから通信制のゼミで小論文を受講した。札幌の映画館で観たい映画を上映することを新聞で知り、予備校に行くふりをしてずっと映画を観ていた。不真面目な受験生だった。

「東京の大学に行くなんて、私の家庭では経済的に無理。行きたくても許してもらえないよ」と友人が言った。友人の父は、わたしの父と同じ職場にいる。なぜ東京の大学へ行くことが許可されたのか、経済的に無理ではなかったのかは、わたしにはわからない(たぶん母のやりくりが上手かったに違いない。わたしも姉も学資保険に入っていた)。父は反対したが、母は賛成してくれた(父の意見なんか採用されたことがなかった)。志望大学の資料を取り寄せ、もしかしてわたしよりも熱心に行きたいのではないかと思うくらい、母はその大学へ行くことを熱望した。母は大阪と宮城の大学に行った経験があるからだと思う。

「おう、東京の大学に行け行け、行ってこい!」興奮した母は威勢よく言った。「その代わり、教員免許は必ず取ること。わかった?」

「わかった」

 父の姿を見て教員には絶対ならないと思ったわたしは、面従腹背で即答した。誰が取るもんか。

 もうひとつ、からくりがあった。東京の大学で一人暮らしをするには奨学金が必要だった。奨学金を受け取る学生は、毎月集会に出席することが義務付けられており、たった一度さぼったら、母から猛烈に怒った声で電話があった。奨学金の振込が停止されたのだ。

 仕送りの仕組みを当時のわたしは知らなかった。家賃と生活費込みでの十数万を、母が仕送りしてくれていると思っていたのだ。奨学金の振込先はわたしの口座ではなく、母の口座だったからだ。母は「金の亡者」だった。

 あれはわたしが保育園に通っていたころだ。母と姉とわたしとで保育園からの帰り道を歩いているとき、何を思ったのか、わたしはいきなり走り出した。母は「危ないよ」と言ったのか言わなかったのか、記憶にない。そのときわたしは見事に転び、道路に臥せって泣き出した。泣きながら母の顔を見た。母はわたしに見向きもせず、無関心だった。「ほれ見たことか」と母は密かにあざ笑っていたのかもしれない。あのときの母を、わたしは一生忘れない。母への怒り恨み憎しみは、そのころから続いていた。

 遡って、わたしが中学生のとき、年ごとに十クラスあるマンモス校から三クラスの新設校に転校したときのこと。定期試験の成績が五番以内なら五〇〇〇円、十番以内なら三〇〇〇円が報奨金を与えると、母が勝手にわたしに餌付けをしていた。もらえるものは何でももらっとけと思ったが、まるで鼻先に人参をぶら下げた馬車馬のようだと自分を軽蔑したし、子どもを金で釣るなんて安直な教育方針だ、と母も軽蔑した。高校は第一志望で合格した。子どもたちが成長する代わりに母はだんだん手抜きをした。

 中学までは学校給食だったが、高校では弁当を持っていくか学食で食べるかだった。母は朝食の残りを弁当に詰めさせた。ときには五〇〇円札を黙って渡した。玄関と階段の履き掃除もさせられた。母は家事で子どもたちをこき使うのだった。

 いよいよ受験になると突然母は血迷った。「築の子育てが終わった! あたしは自由だ! これから詩吟を始める!」と言うのだ。朝から晩までトイレのなかで大声で下手糞な詩吟を聞いてると、頭が狂いそうになった。意識無意識関係なく、母はわたしの大学受験の邪魔をしてるのだ(やがて詩吟の趣味はやめたらしい)。つまり、「大学に行け」というメッセージと「大学なんかに行かせない」というメタメッセージである。両親の矛盾したメッセージを受け取る子どもは心因性精神疾患(統合失調症)になるという某精神科医の理論があったが、まさしくその通りだった。

「母は完璧だ万能だ」と思うわたしと「母もただの女だ、過ちも犯す」と思うわたしとで分裂した。だがしかし、過去のことはすべて忘れるとはまったく思わない。母についての恨みの記憶は詳細に渡る。

 わたしは母を決して許さない。この怒りは年々収まるどころか、ますますどす黒くなり、くすぶっている。新たな燃料があれば一気に炎が上がるだろうが、母が死んだときから、わたしの心は怒りでいっぱいだ。

 父は学生時代から自活していたので、結婚後も台所に立つことには抵抗がなかった。たまに父が作ってくれたのは「芋餅」だ。蒸かしたじゃがいも、冷ご飯、しょう油とバターをすり鉢に入れ、ただひたすら混ぜ、捏ねたもので、棒状に伸ばしてラップに包み、冷蔵庫に入れ冷やしておく。食べたいときに食べたい量を包丁で切り、 改めてフライパンで焦げ目がつくまで焼く。

 わたしが一人暮らしをするために最初に買ったものは、大きなすり鉢だった。珍しくて作ったのは最初のうちで、作るのが面倒くさいのでいつの間にかやめてしまった。すぐ隣にコンビニがあったので、食べたいものは作るよりつい買ってしまった。

 サークルは演劇研究会に入った。表舞台に活躍する役者ではなく、影の支配者になれる演出家になりかたかったからだ(わたしは母を投影しているのか?)。

 当時の演出家の先輩が「君が物語を書くなら、皮膚のようなものがいいか、それとも洋服のようなものがいいか。皮膚は肉に張りついてとれないが、洋服はその日の気分に合わせて着替えることができる。流行と思想は時代によって変わるから、時代に合わせて着替えることも重要だ」と言った。わたしは迷った。まさか自分が物語を書くなんて思ってなかったからだ。わたしの皮膚は、まだ肉に張りついて取れそうにない。無理やり取れば激痛が走り、血が流れただろう。その痛みと苦しみがいったい何かになるのか、昔の自分にはわからなかった。

 二年生のときは脚本を書いて演出した。大学には行っていたが授業には行かず、毎日サークルに行って舞台稽古をした。年に二回、大学の敷地内に自前のテントを張り、舞台とひな壇状の客席を作り(古い掛け布団とマットレスがあった)、そこで一か月間、サークル仲間たちと一緒に暮らしていた(管理上、夜間の構内は無人になるが、サークル棟やテントに隠れて“生活”する学生もいたらしい)。

 サークルにはさまざまな劇団から案内状や招待状が来る。週末には上演期間が重なっていない劇団をうまくスケジュールして、熱心に観劇した。当たりの劇団もあれば外れの劇団もあった。無自覚のわたしは純粋に観客の立場にいた。創作の楽しみはあまり感じられなかった。作るより観るほうが楽しかった。

 春公演の準備で忙しいある日、わたしは寝小便をした。ひじょうに恥ずかしかった。姉は小六くらいまで寝小便をしたが、わたしの記憶は小学校あがって以来まったくなかった。後から思えば、当時のわたしは実家を離れて「生まれ直し」をしていたんだな、と思うことにする。

 わたしと母の関係は一体何なのか、その正体を知りたくて、母娘問題に関する本など読んだが、読むだけ無駄だと最初からわかっていた。女性の身体性? 女としての抑圧? 母はわたしに顔や容姿を「もっと女性らしくしなさい」「きれいでいなさい」「化粧をしなさい」と一度も言わなかった。若いころの母は長くて豊かな髪で自然なウェーブがかかっていたが、結婚して出産後、長い髪をばっさり切り、いつもショートヘアにしていた(長い髪は子育てに邪魔だろうと思ったに違いない)。マゾヒスティック・コントロール(母の自己犠牲によって娘の罪悪感をつくる)もなければ、わたしの罪悪感も皆無だった。「母というのは要するに一人の不完全な女のことなんだ」と諭されても、頭では了解しているが、「母の呪縛」から解放されないことは何となくわかっていた。

 母は居間のカレンダーに月経の予定をメモしていた。月経は順調そうだった。カレンダーには「Regel」と書いてあった。Regel とはドイツ語で「月経」という意味であると母に教えてもらったが、いま Google 翻訳で調べてみると「Menstruation」とあった。Regel は単に「ルール」という意味だ。母は間違ったドイツ語を長年用いていた。

 ともあれ、母は性的なこともあけすけで堂々と言動した。テレビでベッドシーンがあっても「いやらしい」と言って消さなかった。わたしは母自身が「女性らしくない」のでは、と思った。「初潮になった」と素直にわたしが母に言うと、黙って生理用品をくれた。「おめでとう」の言葉も、家族そろって赤飯で祝うことなどもまったくなかった。女はただ単に女だ、他に意味などない、と母が言っているようだった。

 学生時代ずっと住み続けたのは、女子学生専用マンションで、管理人付き、オートロックの新築だった。卒業して会社に就職し、高円寺の風呂なし安アパートに引っ越したとき、母のステルスミサイルの襲来がやってきた。当時のわたしは母に対する疑いもなく、鍵なしでドアをロックできるので母を部屋に入れ、用があったわたしは外出した。母を野放しにしたのだ。

 帰宅すると、テーブルの上に四万円が置いてあった。その代わり、壁にたくさん貼ってあった写真がない。一枚二万円でわたしの写真は売られたことになっていた。思い出はそう簡単に金では買えない。わたしは怒りに震えたが、「写真を返してほしい」と訴えたことはない(訴えても母は巧みな言葉で回避して、結局わたしの要望は無視するだろう)。全部黙って耐えたのだ。母はどういう顔でどういう気持ちで写真を勝手に持ち出したのか。気軽にショーウインドーでも見るようにだったのか。わたしの部屋を荒らした意識はまったくなく、むしろ「あんたのものはあたしのもの」だったのではないか。今度母が来たときには部屋に絶対入れるものか。母の行動は、わたしの頭のうえで焼夷弾が炸裂するようだった。わたしは瀕死の怪我を負いながら、一つずつ学習するしかなかった。

 二年生の夏休みに実家に帰省したが、これも酷かった。わたしの部屋は母の趣味で勝手に占領されており、げんなりした。似非アンティークの人形たちに、レースやフリルのテーブルクロス。悪趣味な部屋だ。もう二度と実家には帰らなかった。帰ってもわたしの居場所はないのだ。

 わたしが母に感じる虚無感は過去にもあった。南町に引っ越し、家が広くなって部屋数も増えた。そのころ、携帯ラジオしかなかったわたしはテープレコーダーが欲しくてねだった。テープレコーダーは買ってくれたが、同時に母はステレオを買った。わたしは洋楽に関心のある中学生になり、暇なときはいつもレコード店に寄って、なけなしの小遣いでレコードを一枚買った。そしてヘッドホンをかけてレコードを聴くのだ(スピーカーで直接音を出すと母が怒ってレコードが没収されることをすでにわたしは知っていた。母は少しも音楽を理解できなかったという軽蔑を込めて)。

 高校生になるころ、収集したレコードは数十枚になったが、知らない SP が二枚だけあった。『オクラホマミキサー』と『第三の男』。母はたった二枚のレコードで見栄を張って豪華なステレオを買ったのだ。しかも母がレコードを聴く姿は一度も見なかった。なんて“空っぽ”な母だろう。

 その数年後、父に送ったはずの現代舞踏の招待 DM が、なぜか母の元に届いた。会場で来場客の準備をしていたわたしは、母に呼び出された。総白髪のボブで全身少女趣味、ピンクや白のフリルやレースがふんだんに飾り付けられていた(子育てが終わって再び若いころに戻ったかのようだ)。年齢にもスタイルにも態度にもまったく合わず、センスのかけらもないと嘆息した。山岸涼子『天人唐草』を読んだことがあるなら、母はラストシーンの狂女に違いなかった。知人友人に母を知られたわたしは恥ずかしくなった。この女が母でなくて赤の他人なら無視できたのに。

 そのころから、母の頭はおかしくなっていったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る