二〇〇三年六月二十三日

 進学塾の講師のバイトを辞め、個人事業主のフリーライターとして独立して数年が経った。毎年三月になれば確定申告の季節。五月に還付金が入るのだが、そういえば、今年の五月は母が七〇歳になる。喜寿のお祝いに小さな花を贈る。わたしにしては、珍しいこともあるものだ。

 母に花を贈ったことを忘れたころ、謎の現金書留が来る。差出人は母だ。開けてみたら、なんと現金五〇万。感謝よりも先に驚いた。そして不愉快になった。手紙には「もっとまとまった金を送るから、口座を教えなさい」と書いてあった。わたしは返事をしなかった。

「せめて手紙で『ありがとう! 綺麗な花だね!』でしょ? それがあの金は何? 見返りは金って、どういうことよ?」

「う~ん...それはねぇ...お母さんはお金でしか表現できない人なのよ。そのお金はお母さんの感謝の気持ちだと思うわ」心理カウンセラーで飲み友だちの真奈美が、すでに酔っぱらいながら答える。

「そりゃわかってるけどさあ...じゃあ、わたしも金でしか表現できない人だったらどうするよ? まるで金がボールのように黙ってあちこちいっちゃったりさ~、両者の気持ちの平行線は変わらないんだね~、とか」わたしもすでに酔っぱらってる。一生に一度、絡み酒っていうのをやってみたかったのだが、頭の芯は冴えていて、いくら酒を飲んでも駄目だった。

 真奈美には言わなかったが、大学を卒業したすぐのころ、バイト生活をしていたわたしは経済的に困窮していた。SOS の信号を、とうとう母に送ったのだ。だが母はわたしのSOS を完全に無視した。困っている娘は無視するくせに、娘から誕生日のプレゼントを贈られて感激したら一方的に金を送ってくる。なんとまあ自己中心的なのだろう。わたしは憤り、恨んだ。母はわたしを助けてくれなかった。あのとき、転んだわたしを助け起こさなかったのと同じように。この母はいったい何なんだ! どうしてわたしを産んだ?!

 またしてもそんな記憶はすっかり忘れたころ、留守電に伝言が残っており再生した。母の伝言だった。

「今日、新宿の旅館に泊まるから、これを聞いたら旅館に来なさい」

ため息が出た。伝言通りになんかしない。新宿には絶対に行かない。わたしの SOS を母が無視したように、今度は母の命令をわたしが無視する番だ。わたしには仕事がある。一人で食べていくのだ。母が来たので娘は優先的に対応して当然、と彼女は思ったのか、わたしにはそうはならない。思い通りにはならない。その日の用件は流れた。

 仕事依頼は主にメール連絡だったから、わたしは母の留守電をあまり気にかけていなかった。すると突如自宅に母が来た、階下の大家を連れて。どうせ「○○の母です」とか何とか言ったのだろう。大家はすぐに信用して、わたしのドアの鍵を使って開けた。もしその日わたしがいなかったら、母に部屋を勝手に荒らされるところだった。危ない危ない(そのときこう思った。わたしの上京を母が許して応援したのは、わたしの部屋をホテル代わりに利用できるからだろう、と)。

 現金書留よりもまとまった金をあんたの口座に送る。これは生前分与だから」と母は言うが、わたしは反論した。

「は? 生前分与? まとまった金を預けるのはむしろ間違ってる。老後の生活費に使えばいい。わたしは受け取らない。いったい、今後どうするつもり?」

「ねーちゃんはもう受け取ったよ」

 受け取る意味が分からない。玄関で言いあって言いあって疲れ果て、母がわたしをやりこめた。会話を終了するには、結局わたしが根負けするしかない。わたしは黙って階段を下り、郵便局のある駅前に向かったとき、

「そっちじゃない! 駅前の交番であんたの家までの道のりを教えてもらったんだ!」

 いきなり母は怒鳴り、駅とはまったく逆方向に行こうとする。どうしてこう頑固なのか、ため息しか出ない。わたしは数年ここで暮らしているのに、今日初めてここに来た母が、なぜナビゲート役を買って出るのか、意味がわからない。大人しくわたしについてくればいいものを、幼少のころから<大将>気質だったのか(いまさらあんたが<大将>だなんて誰も思ってない!)、交番という“権威”に聞いたから安心だと思ったのか。大人しく母についていくのが馬鹿らしくなった。結局わたしは金を受け取らず、母の顔も見ずに別れた。この女とは結局ディスコミュニケーションだった。わたしは諦めており、怒っていたのだ。二人の歩く方向からわたしが離れていったことに、母が気づいたかどうかは、わからない。

 かつて「離婚はしない」と言い張った母が七〇になる四月、父に裁判をかけられて結局離婚した。自殺する直前の、母の頭がおかしくなったころ、ずっと離れてたわたしは詳しく知らないが、オウム真理教の麻原彰晃こと松本智津夫と似たような性格――自分の思い通りにならないと我慢ならない(精神科医の高橋伸吾氏が分析した「かつてヒステリーと呼んでいた転換症状、演技性人格の典型、自分の意に添わない場面だと身体的な症状が出てくる」)――に陥っているのではないか。離婚後約一年のあいだ、母は日々ストレスで針が触れたようになり、いわゆるダブルバインドという心理状態に陥ったのではないか、と。

 都合のいいことは機嫌よく話すが、都合が悪くなると態度を変えて怒鳴り出す。攻撃的で、向こう見ずで、エキセントリックな性格。全面的に母が悪いのに「全部お前らが悪い!」というように抗議の自殺をした、父の誕生日に。

 マインドコントロール。わたしはマインドコントロールにかかったのか? いや違う。むしろ姉が母のマインドコントロールにかかったのだ。姉は素直に金を受け取った。姉にも「生前分与」だと母は言ったのだろう、けれど姉は疑いもせず受け取った。わたしのぶんも含めて二度受け取ったのだ。姉は「母がおかしい」と少しも思わなかったのだろうか。今度は、姉の心理もわたしにはわからない。

 四人家族のうち、父が定期的に「泊り(遠方から来る学生のための寮があり、その監督として教員はローテーションで寮に泊った)」で家には不在で、父が不在なときは必ず母が父の悪口を言った。そしてわたしもまた母の悪口のターゲットになった。母と姉は無言のうちにタッグを組み、わたしを排除しようとした。

 二つ違いの姉は、小学校低学年のころ緘黙症だった。同じクラスで一番背が高く目立っていたので、いじめっこに目をつけられ、いじめられても黙ったままで、泣きながら帰宅した。

「姉ちゃんが無口なのはあたしのせい。聞いてもいないことをぺらぺらしゃべるから、あたしは『黙ってろ!』と怒鳴り散らした」と告白した。

 三年生になった姉は親友ができたらしく、緘黙症は治ったが、母は姉に負い目が常にあった。気まずい場面になると、子どものころの癖で、姉は悲しそうに黙り込んだ。たとえば、夫が姉に詰問すればするほど沈黙していた。黙っているのは苦しいのか、それとも楽なのか安全なのか、わたしにはわからない。

 わたしが上京して、父が転勤で単身赴任になり、実家には母と姉が残された。想像するに、二人は仲良くやっていたと思う、それも母が姉にマインドコントロールをかけながら。

 幼少のころから姉もわたしも父を憎んだが、大人になったわたしは父と和解した。しかし姉は、結婚して子どもができてもまだ父を憎んでいた。あれは完全に母からのマインドコントロールに違いない。結婚直前の姉は看護師として働いてたが、某新興宗教に入会し、高価な着物や化粧品などを買って、まさに霊感商法にかかっていた。「宗教を学びたいから」と姉は言うが、「だったら一人で聖書やコーラン、仏教の経典を読めばいい」とわたしは心のなかで突っ込んだ。

 話はもっと昔になる。わたしが小学校低学年だったころ、コバヤシの姉さんの家に遊びに行った。高校生になった従姉(コバヤシの姉さんの娘)は何回か読んだので、もういらないと思ったのか、わたしに預けた。手塚治虫『ブラックジャック』全十数巻。もらった漫画をわたしは夢中になって読んだ。

 ある日、漫画本が忽然と消えた。母が無断で処分したのだ。わたしはショックだった。独善的な母は静かに怒っており、十歳にも満たなかったわたしは、泣き叫ぶどころか黙っていた。処分の理由は言わなかったし、わたしも聞きはしなかった。泣きながら母に訴えても話が通じないと諦めていたが、心のなかでは、いつか復讐してやると思った。

 もう死んだのに無敵な母さん!!! 母さんが怖い!! 怖くてたまらない!!!

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