創造者は死んでいなければならない

コンタ

二〇〇四年三月十一日

――――記憶は死を、忘却は生を意味する。「記憶しなければならない」は死の掟、

   「忘れなければならない」が生の掟なのである。

          高橋哲哉『記憶のエチカ――戦争・哲学・アウシュヴィッツ』





 無名のフリーライターだったわたしは、某編プロ事務所でゴロツキどもと一緒にブレインストーミングという名の雑談をしていた。当時は気軽にその日居合わせたメンバーと雑談してさらっと書いた書籍企画書を出版社に持ち込むと即採用されるという、ちょっとした出版バブルが起こっていた。バカ売れした本の二番煎じも即やった。ぶっちゃけ金になったから。

 住む場所も仕事の場所も同じで、ずっと一人だった。つまり、一人暮らしの自宅で仕事をしていた。インタビューのテープ起こしをリライトして完成した原稿データを編プロのメアドにファイル添付して終了。昼過ぎに起きて、原稿の目処がついたら就寝。目処がつかないときには、気分転換と軽い運動を兼ねて真夜中のC川に沿って散歩した。モヤモヤする心をそれでいくらか晴らさせた。まさしく昼夜逆転。原稿を送った後のことは知らないが、刊行された本を読むと、わたしが作成した原稿そのままだった。いい加減な編プロ、いい加減な出版社だ。

 ブレインストーミングの話題はころころ変わる。心霊スポットの話、ちょっと奇妙な恋愛話、ナンパテクニックの話、ギャンブルの話、ゴロツキの友人が人を殺した話などなど。

 その日わたしが覚えてるのはコンプレックスの話だった。コンプレックス、日本語でいうと心的複合体。かえって意味が分からなくなる。意識・無意識の動力学理論でもあった精神分析は輸入された当時の日本にはまだ馴染みがなく、いまでも馴染みがない。フロイトの理論よりアドラーの理論である「劣等複合(劣等コンプレックス)」が流通し、一般的になった。

「でもさ、ファザコンとかマザコンとかあるじゃん。それも劣等感なの?」ライター仲間の渚野ヨーコが聞いた。

「学歴コンプ、容姿コンプの場合はそうなるな」

「えーっ、じゃあファザコンは父親に対する劣等感なの? 息子ならわからなくはないけど、娘が年上の男を好きになることじゃないの?」

「...」

 ヨーコの質問は容赦なかった。知識もなく適当に言った者が恥をかく。当時はわたしも一般的なコンプレックスの意味しかわからず、雑談は聞いてるだけだった。ファザコンもマザコンも学歴&容姿コンプも、わたしには共感できなかった。

 そのときわたしの携帯が鳴り、雑談の輪から出て外階段に行った。直接西日を受けるビルは大きな夕陽が眩しかった。

「俺だ、父さんだ」

「何だよ、いきなり自分から誕生日アピールの電話して。何がほしいの? ほしがり屋さんだな~」

 父とは長いこと音信不通にしていたが、半年前にサシで会って和解した。父の声が笑っているように聴こえたので、わたしは冗談半分に応えた。半年前の話はまた後でしようと思う。

「違う違う、そんなんじゃない。母さんが死んだ」

「ええっ?!  嘘!!」

 わたしはびっくりした。そのころまで母は殺しても決して死なないしぶとい女だと、わたしは思っていた。

「嘘じゃない、本当だ。仕事で忙しいと思うが、すぐ来てくれ」

「...わかった!」

 電話を切ったわたしは事務所に戻った。ゴロツキどもは相変わらずヘラヘラ笑っていた。

「急だけど帰る。てか、うちじゃなくて実家に」

「えー、なんでなんで?  これ終わったら一緒に飲みに行こうよぉ」ゴロツキどもは好奇心旺盛で何でも首を突っ込みたがる。

「母が自殺したから」

「自殺!? どうやって死んだの?」(は?  なんでお前らに自殺の理由を話さないといけないわけ?)とわたしはムッとしながら答えた。

「首吊り。そんじゃ」

 ゴロツキどもはまた黙り込んだ。ヨーコのように容赦ない質問はしてないんだけどわたし。

 連中の薄い反応も見ずに荷物を持ったわたしは外に出た。図々しく首を突っ込んだ割に、意外にも自殺遺族者は皆無だった。すでに軽蔑していたゴロツキどもをよりいっそう軽蔑した。わたしもそのときまで友だちや知り合いが自殺したと聞いたことはあったが、まさか自分の家族が自殺するとは思わなかった。

 家から空港に移動するまで、父の声を何度も反芻した。定年後の父は近所の幼稚園の副園長だった。その日は父の六一歳の誕生日なので、職場でささやかなケーキをご馳走になり、心が少し温まって帰ったとき、室内で母が首を吊っているところを発見した。父が急いで母の首をロープから外すと、体内に残った空気があるのか、母は「あ~、あ~」とか「う~、う~」とか言ったという。

「警察に届けたが、『あんたがやったんだろう』と言わんばかりに、たいていは第一発見者の俺のことを容疑者だと決めつけていろいろ質問しやがる。母さんは、俺からの虐待に見せかけて自殺したんだ」

 虐待? そんな馬鹿な。意味がわからない。気が強くて高飛車な母は、むしろ家族を奴隷にし、一方的に命令し、威張り散らすのであった。命令する声と眼差しが有無を言わせない威厳を持っていて、当時のわたしは抵抗できなかった。わたしにとって母は独裁者そのものだった。ただし、わたしがヒトラーを猛信していたわけじゃない。いつも面従腹背していた。いつかこの家を出ていってやる、と密かに決めていた。母の子育ては放任主義である。「宿題しろ」と言われたことはない。子どもに干渉しないのはありがたかったが、要は子どもに関心を持たなかった。高熱を出せば母は舌打ちして「金がかかる!」と怒鳴られた。テレビドラマでお決まりの、高熱を出してベッドでうなされる子どもと、そばで看病して心配する母。あれは真っ赤な嘘っぱちだ。わたしが子どもだったとき、母のぬくもりや思いやりを感じさせる思い出は一切なかった。なんという親だろう。その母が自殺? 絶対ありえない。

 移動中、わたしの携帯が鳴った。地元警察の刑事からだった。

「お父さんがお母さんに虐待した証拠はありませんか?」状況証拠だけで決めつけて話のわからない刑事に、わたしは無性に腹が立った。

「あのですね、母は父をいじめはしましたが、誰からも決していじめられてはいませんでした。何かの間違いだと思います。父が母を虐待したなんて」

「ですが、貯金がまったくありません。これは虐待の証拠じゃありませんか?」

 わたしはむきになって立ち止まった。二つのことを同時にやる能力もないし、「飛行機に間に合わないので後にしてくれませんか?」とさらっと流す大人の態度もとらなかった。

「そのことですが、母は去年の夏、わたしのうちにまで来て『生前分与したい。すでに姉は受け取った』と言いましたよ。わたしは断りましたが」

「その金はどこにあるんです?」

「さあ、たぶん姉のところだと思います」

 わたしが刑事に話した内容は、半年とちょっと前のことである。これも後で話すとしよう。ANA のカウンターに着いたとき、千歳着の最終便は一九時三〇分だった。出発してからすでに三分経っていた。わたしは母にも刑事にも腹が立った。母はいつもわたしを動揺させ混乱させる。わたしの心をかき回す。いつもいつもいつもだ。家出という名の大学上京をせっかくしたのにもかかわらず、なぜか母はわたしの住所を見つけ出して東京までやってきた。いつもいつもいつもそうだ。そして数日間わたしはひどい鬱状態になる。もうたくさんだ、やめてくれ!

 そうか、これで最後だな。母は死んだ。もう二度と心をかき乱されることはないんだ。わたしは一時的に安堵した。しかし、そうは問屋は降ろさなかった。なぜなら二〇年以上も経ってから、わたしの精神を蝕み始めたからだ。

 母が自殺した。わたしはまったく悲しくならなかった。むしろ腹が立って腹が立ってしかたがなかった。怒りの矛先を失ったわたしの心は、内側から腐り始めた。

 羽田から虚しく自宅に戻り、恋人のピヨコに電話した。ピヨコとわたしは二〇歳以上離れた恋人関係であるが、馴れ初めはまた後ほど。

「お母さんが?  先生の言った通りだわ...」

「うん、わたしもそう思った」

 スピリチュアルな占いに長けたピヨコは言った。つい先日会った四国の占いの先生に、ピヨコの亡き夫がどうしているのかと聞き、ついでにわたしの母のことも聞いた。

「...そうですねえ、きずき築 さんのお母さんはこの世にはいません。もう亡くなっているかと」

 わたしとピヨコは驚いた。先生の占いは当たったのだ。いや、当たる当たらないの問題じゃない。先生はわたしたちと違って、見えない何かが見えるのだ。

 翌日、気を取り直して羽田に向かい、千歳に到着した。冬の北海道は久しぶりだ。大学一年生の夏休みに帰省したが、特に会いたい家族がいるわけでなし、ここは豪雪地帯だから、冬休みはもともと帰省する予定がなかった。そうこうするうちに一〇年以上が経っていた。帰省ではなく観光なら何度かした。実家に寄ることなしに避暑ついでに恋人と長い長い観光旅行へ来たのだ。あれは断じて帰省ではない。赤の他人の土地へ遊びに来たのだ。

 三月とはいえ、まだ雪が残っている。夏休みの避暑か観光としてならまだいいが、冬には絶対に帰りたくない。スキーするなら東北で充分だ。道民の帰巣本能は弱いと聞いている。わたしもそうだ。一方、沖縄民は「若いときは東京で遊んで、いずれ沖縄に帰る」という。おそらく天候や文化の違いだろう。

 タクシーから降りてキャリーケースを引きずり、実家のドアを開ける。父が笑顔で迎えてくれた。姉が泣いていた。わたしも姉も互いに挨拶せず、一度も目を合わせなかった。

 父の容疑が晴れたということは、刑事が姉の通帳を調べたのだ。姉の気まずさにわたしは気づいたが、それに配慮してわざわざ声をかける言われもない。気まずければ気まずいまま放置しよう。

一息入れようとソファに座ると、ベランダの窓越しに姉の夫と父が棺桶を入れている。ベランダから見える庭はかなり雪深いので、二人とも長靴を履いていた。その日の天気は忘れたが、たとえ曇りでも雪の光に照らされて周りは明るく見えるのだった。

「なあ、母さん見るか?」

 父はニヤニヤしながら言った。このニヤニヤは照れ隠しだとわたしは思うのだが、低俗で卑しく見えるのでやめてくれと言っても、定年後の父にはもう直しようがない。

 アコーディオンカーテンを開くと、母は布団に寝かされていた。目は閉じていたが口はぽっかり開いている。顔中死班がひどく、ゾンビメイクのようだ。つい最近、ピヨコのお母さんが亡くなったが、まるで眠っているかのようだった。ピヨコはお母さんに抱きついて泣いた。まだ温かだったという。一方わたしは抱き着く理由がないし、泣く理由もない。第一触りたくない。生前、母に触った記憶がまったくない。思いつく限り、わたしが触られた記憶といえば、母から拳骨をもらった痛い記憶だ。痛い記憶は反省ではなく憎しみだけを産む。「家族は血のつながった他人」と言うが、母とわたしはマイナスの感情でつながった親子である。いつどれを思い出しても気分が悪い。それで思い出さなくなる。「家族のいい思い出」なんてあるはずもない。だからわたしは家を出たのだ。

「失礼します」

 葬儀場の職員が訪れて、無言のうちに家族を追い払い、母の死に化粧やら着替えやらをして棺桶に入れた。その一部始終をわたしはまったく見なかった。たとえ生きていてもそうだし、死んだ後ならなおそうだ。

「これ、母さんがあんたに渡してくれって」

 いきなり姉が何かを渡した。母子手帳だ。

「うわっ、キモ!」

 私は反射的に手帳を姉に返した。母も“母性神話”に安直に収斂したんだな、私は絶対に拒否するけど。当然、三児の母である姉も安っぽい“母性神話”に洗脳されている。母子手帳なんかで私を篭絡できるとは。わたしを甘く見るな。“母性”は美徳ではない。“母性”は幻想である。まやかしである。

 それからしばらく葬儀の準備をした。葬儀といっても自宅だが、父の兄弟たちと母の兄弟たち、幼稚園の職員が数人、そして僧侶がやってきた。僧侶のお経を読む声は、わたしにとって心地よかった。ちょっとハスキーな声でウーハーな響きがある。もしかすると、母が自殺したから特別な声を発しているのではないか。浮かばれない魂を成仏させるために、ウーハーなお経を唱えているのではないか。

 いや、葬式は死者のためではなく生者のためにする。母が自殺した衝撃で、わたしの心を鎮めるためにウーハーなお経を...。

 途中で姉が隣に座ってきたので、わたしは即座に立って奥のほうへ行った。「コバヤシの姉さん」の隣だった(母の二つ上の姉である)。コバヤシの姉さんはすでに泣いていた。その哀しみが伝染したのか、わたしも涙が出てきて止まらなくなり、コバヤシの姉さんが白いハンカチを貸してくれた。

 母の遺体を焼くために葬儀場へ行き、寿司を食べたり酒を飲んだりして焼きあがるのを待つ(いつの間にか母の兄弟たちは消えていた)。焼きあがったら親族全員で骨を骨壺に入れる。こんがりと焼きあがった母の骨といったら! これが七〇を超えた人間の骨かと思うほど丈夫で立派であった。骨のフォルムがはっきりしてて、色は薄いピンクだった。病死(主にガン死)した人の骨はたいていボロボロで、元の形が取れないのである。母の骨は、ここはどこの骨ここはあそこの骨と明確にわかり、しかも骨壺に収まりきれないのだ。

 親族全員でムキになり、ただ無言で骨を必死に、力任せに砕く。後から思えば少し滑稽だった。

 夜は夜で自宅で宴会となる。わたしと父は兄弟たちに囲まれてにぎやかに話をしたが、姉とその夫、ふたりの娘たちの一家はぽつんと離れて黙っていた。まるで本当の葬式を見てるようだった。姉は母から二度も金を受け取ったが、私は拒否した。その金は母が偽装した捨て身の虐待死の証拠だったが、刑事が姉の通帳を見て母からの金額を受け取っていることは明確だから、父の容疑も晴れた。なので、気まずい気持ちはわからないでもない。

 しかし、わたしは金を受け取るだけ受け取って、後は何もしない姉を非難する気もない。非難しないが、その心境が理解できないのだ。わたしと母の関係と、姉と母の関係は違うし、接する態度も心理的物理的距離も違う。何せわたしは独身で、姉は結婚して子どもが二人おり、三人目は姉の腹のなかにいる。どちらに同居するかといえばわたししかいないだろう。母は御しやすいシチュエーションを直感的に選択する能力に長けている。そして、わたしは「生前分与したい=金さえあれば同居して一方的に命令しやすい」という要望を、直感的に拒否したのだと思う。

 母の居場所はなかった。とはいえ、せっかく母から離れたのに、ここでわざわざ母と同居するのは一種の自己犠牲だったと思う。わたしの居場所を母に譲るわけにはいかない。もしも家出しなかったら、もしも母と同居したら、わたしのほうが早く狂っていたに違いない。

 携帯が鳴った。ヨーコからだった。

「そろそろ葬儀終わった? あたしも父親が自殺してさ、ずっとうつ病だったから」

「それって医者に診断されたのか...。わたしの場合、かーちゃんが老人性統合失調症じゃないかっていう状況証拠だけ。しかも素人判断」

「カラダの病気は目に見えるけど、オツムの病気は自分にもよくわからないっていうよね」

「死んだからゲームオーバーだよ。もうやめやめ、これ以上考えても無駄」

「...泣いてないの?」

「むしろ怒ってるよ。かーちゃん、これまでいろいろやらかしたけど、最後に強烈な核爆弾落としてみんなを被爆させて、しかもまったく戦後処理していかなかった。わけわかんなくてずっと怒ってる」

「ははは、そのうち泣くときがくるよ。全部落ち着いたらね」

「へー、先輩ぶって!」

「先輩ぶってないけどね、いずれあたしも自殺するかもなーって思ってる」

「...まさかぁ」

「あたしもうつ病体質だからさ、遺伝性の。ときどき死にたくなる。てか、父親が自殺したとき『あたしもそうみたい』って納得したの」

「うつ病は遺伝するかもしれないけどさ、むしろ現代社会の情勢なんじゃないの? 現代人はみんなうつ病で死にたくなるからといって、みんな血のつながった家族になるなんてナンセンスだよ」

「まあね、生きたくなるのは正常な反応で、死にたくなるのは異常な発作だからね」

「かーちゃんが自殺したのは...なんかそんなんじゃなくてさ、とーちゃんの誕生日に計画的に死んだんだよ。焼身自殺じゃないけど、抗議の自殺っぽい」

「抗議の自殺? 何か訴えたかったのかな? アジアの坊さんが焼身自殺して政治的な抗議をするみたいに」

「わかんないよ、遺書も何もなかったからさ。抗議なら生きてこそ抗議すべきでしょうよ。それなのに、虐待に見せかけて自殺しちゃうなんて、意味わかんない。かーちゃん狂ってるよ」

 上着を羽織らずに外に出たせいか、三月の夜の北海道は当たり前だが寒い。途中で雪が降ってきた。酒も入ってるし、底冷えするほどでもないが、わたしは電話を早く終わらせて家に帰った。母のことはもう考えたくなかった。

 深夜、寝ていたわたしは起きてトイレに行った。行きがけに、母の棺桶がある和室を見てしまった。左右に二つある雪洞の淡くて白い色が、わたしにはなぜか母が怒っていると感じた。わたしは恐怖に震えた。和室から目を逸らし、急いで用を足した。

 翌日、姉一家は帰ったが、わたしは数日居残った。父が一人になるのが気になったのだ。

「ここ数日で三キロ痩せたよ」

 本当は深刻なんだけど、父の表面上はまたしてもニヤニヤが止まらない。もうこういうキャラ設定にするしかない。私がイラっとするキャラ設定だが、これしかもうどうしようもない。

「なあ、母さんの墓、どうしようか?」父が聞く。

「永代供養なんかいいんじゃない? 東京では五〇万かかるって。地方なら安いんじゃないかと思うけど」

 父が寺の坊さんに相談し、永代供養になった。金額はたったの五万円。母の骨壺は永代供養の先輩たちの骨と一緒くたになる。ぶっちゃけ無縁仏だ。それを定期的に読経を上げることになるから、離婚した無職の母にとってはいいご身分である。

「なんで離婚したのよ?」

「母さんと墓に入りたくなかったからさ」

「そんなもん、死んだ後じゃわかんないでしょ?」

 でも、いまなら言える。わたしも父の墓には絶対に入りたくない。死ぬ前に分籍して遺書を残そう。

 父は忌引きがあるらしく、当面のところ休職になった。フリーライターのわたしも当面暇なので、今夜の夕食は近所の回転寿司に決まった。

 店内には客が一人もおらず、閑散としている。父と二人でカウンターに座ったが、カウンターの上を回る寿司は遠目から見ても表面が乾いてるのがわかる。寿司ネタはどれも新鮮じゃない。それでも父は黙ってカウンターで回る寿司の皿を取った。サバとコハダ、どちらも酢で〆てある(どちらも寿司じゃないとわたしは思っている)。わたしは「あれ?」と思った。

 父のセコさは重々承知しているが、外部に対しては「自分はセコい」と主張しないのではないかと訝った。父は無口で内気で、小心者だった。あるいは、サバとコハダはそんなものだと思ってると思う(父は寿司にはこだわりがない)。カウンターをぐるぐる回った寿司も、いま職人さんが作った寿司も値段は一緒。同じ寿司ならネタは新鮮なほうがいい。

 私はカウンターにない皿をざっと見て、新たな寿司を注文した。わたしが好きなのはサーモンとウニとイクラ。父の分は父が注文すればいい。私は父の世話などせず放置した。食べたけれど、まったく味がしなかった。

 高校教員だった父は、不良学生を怒鳴って殴る勇気はあったが(当時「暴力教師」と言われた)、いじめられる学生に対して「見ないふり」をするだろうと思った。父は教育者というより権力者で、バカで非常識で、優しくなかった。引っ越して広い家に住んだものの、夫婦の会話があったとは思えない。母とふたりでいたたまれくなった父はその場から逃げ、わたしたち二階の姉妹の会話を盗み聞きし、いきなりドアを開け、わたしたちに嫌がらせをした。嫌がらせだということを知りながら、父は何度もやった。父は幼稚で低能だった。こんな父のどこに惚れたのか、わたしは母も不思議だった。一回り年上の母に対して、父は無口で無関心だった。一言いえば十倍になってやり返してくる、気の強い母が苦手だったのだと思う。わたしも同意する。

 その後、母の遺品を整理しようとして押入れを開けた。押入れのなかを見て私はギョッとした。大きめのタッパーをビニール袋に入れて一個ずつギュッと縛っている。タッパーには何も入っていない。それが何十個も積んであった。私はビニール袋をほどきながら、これに何の意味があるのだろうか、母は本当に頭がおかしくなっていたんだろうか、と疑った。

 葬儀の翌日、わたしはA市に向かった。コバヤシの姉さんに借りた白いハンカチを返そうと思ったからだ。コバヤシの姉さんの家は、子どものころに遊びに行ったときと同じだった。だが、従兄弟三人は新しく家族を作り、夫も死んだからか、家のなかはひっそり鎮まっており、死の匂いがした。

「...そうねえ、テイコの若いときねえ。そういえばテイコは職場で不倫して、そこにいられなくなったから本州の大学に行く、と言ってたかしらね」

 職場で不倫。母らしい。好きな人は好きなんだから、誰にも邪魔されたくない! と思いつつ、傍から見れば、実は「妻」という存在が邪魔だった。自分が不倫していたから、結婚後、夫の浮気を監視せずにはいられなかった。ミイラ取りがミイラになる。これは推測だけど。

 コバヤシの姉さんは母と二つ違いらしく、何でも相談して話し合った。わたしが母に聞いたのは、小学校の代用教員をしてから二つの大学に入ったのだが、どうして本州の大学に行ったのだろう。札幌でもよかったんじゃないか。大阪と仙台。なぜ二つも大学行ったんだろう。母のことだから、そこに大した理由はないんじゃないか、とも思った。行き当たりばったりの母の人生は、計画性がなさすぎる。

 私が東京に帰ろうと思ったのは、夜、父が誰かと楽しそうに電話をしているのを聞いたからだ。葬式の後、父一人で残してはいけないと思ったが、すでにそういう相手がいたのだ。そして母にも気配で伝わっていたのだと思う。母は態度や言動で表しはしない。でも父をずっと嫉妬し監視していた。浮気してるんじゃないかと妄想的になっていた。母のそれは愛ではない。執着である。

「高校時代付き合ってた後輩の子がいる。シューコっていうんだ」

 父が写真を見せた。学生時代の父は「線香の八割」と言われるくらいガリガリに細かったが、シューコさんは対照的に背が低くてコロコロしていた。母もそうだ。「ああ、父は太めの女がタイプなんだ...」と知った。

「会ってみるか?」

 えっ、いまから? 会いたいのはむしろ父のほうでしょ?

「道東に赴任になって、もともと道東が出身だから懐かしい奴もいるかと思い、昔付き合ってた女性が見つかった。それがシューコだ。シューコも未亡人だからだんだん距離が近くなって、見合いの段取りは部下がやってくれたんだ。まさに四〇年ぶりの再会。父さんの実話、小説にするといいよ」

 父は自慢げに言った。わたしの本を読みもしない父のことはスルーして、わたしは続けた。父が主人公となる小説を、わたしは決して書かない。

「じゃあ、以前から付き合ってたってわけね?」

「うん、浮気は一回もしてないよ。母さんとの離婚が成立したから」

「離婚??? したの???」


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