第2話
数年後。
その頃には、既にロイはバティスト専属の付き人ではなくなっていた。それどころか、彼はいつの間にか退職してしまったらしい。
ウィルコックス侯爵邸に仕える使用人たちの間では、精神を病んで病院送りになっただとか、バティストに無礼を働いてクビになっただとか、流言飛語が飛び交っていた。
ロイが邸を去ったのにもかかわらず、バティストは悪びれる様子もなく日常を送っていた。
そんな中、バティストはトリスにある本を勧めてきた。なんでも、ある死刑囚が獄中で書いた話なのだとか。
十数年前に出版された本らしく、バティストは「これは僕の愛読書だ」と得意げに語っていた。
正直、トリスはあまり気が進まなかったが、後で感想を聞かれても困るので一先ずその本を読んでみることにした。
読み進めていくうちに、その本は著者の実体験をもとに書かれたものだということがわかった。
どうやら著者は貴族らしいが、殺人を犯して収監されたのだという。
序盤は至って普通だった。著者がひたすら自身の生い立ちを語るだけだったので、退屈で眠気すら覚えた。
けれど、その眠気は著者が自身の起こした事件について言及した途端吹っ飛んだ。
なんでも、著者は結婚と離婚を頻繁に繰り返していたそうなのだが、そのたびに妻になった女性に暴力──最早、拷問と表現したほうが正しいかもしれない──を振るっていたそうなのだ。
拷問の内容は口にするのも恐ろしく、且つおぞましいものだった。
気分が悪くなったトリスは、読書を中断して横になる。とりあえず、これではっきりした。
バティストは、この本の著者に感銘を受けている。だからこそ、以前ロイに対してあんな酷い仕打ちが出来たのだろう。
とはいえ、ただ単に本に感化されたから真似をしたわけではないような気がした。多分、そんな単純な話ではない。
──恐らく、バティストの潜在意識には元々「他人を傷つけたい」という欲求があったのだ。
本を読んだのをきっかけに、その傾向が顕著に現れたのだろう。
バティストは、恐らくトリスが恐怖心や嫌悪感を抱くことを見越してこの本を貸したのだ。
一見、ただの嫌がらせもしくは度を超えた悪戯のように見えるが、トリスは気づいていた。……既に、自分がバティストの「新しい玩具」として標的になっているということに。
それ以来、バティストは度々トリスに精神的苦痛を与えてくるようになった。
そう、例えば──トリスが弾くピアノに駄目出しをしたり、食事の作法に難癖を付けたりしてくる。
ロイの時とはやり方を変えたのだろうか。暴力自体は振るわれないものの、沢山の人の前で恥をかかせられたりすることがやたらと増えた。
トリスは日に日に疲弊していった。今すぐにでも婚約を解消してもらいたかったが、それをオリンズ伯爵に──自分の父に伝えることはできなかった。
オリンズ家は、本家であるウィルコックス家に隷属していると言っても過言ではない。
主人に逆らえばどんな処分を受けるのかは、まだ社交界デビューすらしていない世間知らずなトリスでも想像に難くなかった。
だから、トリスはせめてもの抵抗に毅然とした態度でバティストに接することにした。
具体的に言うと、嫌悪感を剥き出しにしたのだ。
更に数年後。
バティストは、新しい方法でトリスに精神的苦痛を与えてくるようになった。
というのも、彼は婚約しているにもかかわらず、別の令嬢と浮気をするようになったのだ。
しかも、浮気現場をあえてトリスに目撃させるという悪質ぶりである。
相手は、元平民で現在は子爵家の養女であるミラ。彼女は、数年前に聖女の一人として覚醒した。
基本的に聖女として覚醒した者は王太子と婚姻を結ぶことが義務付けられている。
だが、聖女が複数人いる場合、その中で最も強い聖力を持った者が王太子の婚約者として抜擢されるらしい。
だから、今のところミラには決められた婚約者がいないのだ。
この国の貴族にとって、婚約者を奪われるということは男女ともども最大の屈辱である。
明らかに相手側に非があるにもかかわらず、「きっと、あの人には何か問題があるんだ。だから、婚約者に愛想を尽かされたのだろう」などと荒唐無稽な噂が立つことも珍しくはない。
恐らく、バティストはトリスに屈辱を与えるためだけに浮気を断行したのだろう。
お気に入りの玩具を苦しめたいがためにわざわざそんな手の込んだことをするなんて、最早怒りを通り越して呆れ返ってしまう。
そして、今日──トリスは、バティストの誕生日パーティーに招待された。
おおよそ、
あれこれ思いあぐねながら馬車に揺られていると、いつの間にかパーティー会場に到着していた。
トリスは渋々ながらも、馬車から降りて重い足取りで建物に入る。
一時間後。
意外にも、パーティーは順調に進んだ。
案の定、ミラもパーティーに招待されてはいたものの、特に何か問題が起こるわけでもなく。
主役であるバティストと聖女ミラが爛れた関係であることを除けば、至って普通のパーティーだ。
身構えていただけに、トリスは何だか拍子抜けしてしまう。杞憂だったか、と安堵のため息を漏らしていると、ふとミラがバティストの隣に移動したことに気づいた。
何だか嫌な予感がしたが、トリスは一先ず成り行きを見守る。
すると──
「トリス・オリンズ! 本日をもって、お前との婚約を破棄する! もし、理由がわからないのなら、自分の胸に手を当ててよく考えてみろ!」
不意にバティストがこちらに鋭い視線を飛ばしてきたかと思えば、そう言い放ち火蓋を切った。
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