火星と月と万有引力

火星と月と万有引力

作者 坂口青

https://kakuyomu.jp/works/16817330662811085581


 将来の夢を物理学者に選んで勉強して東大へ進学したが、途中でついていけなくなり、高校で物理教師をしている男は、惑星になれず衛星となった不甲斐ない自分を許してくれと思いながら、未来の惑星たちに、物理学で大事なのはセンス・オブ・ワンダーだと伝える話。


 現代ドラマ。

 人間ドラマがよく書けている。

 高校生が書くからこそ、現実味がずっしり感じるのだろう。


 主人公は、物理学者を夢見て物理の先生になった男。一人称、俺・私で書かれた文体。自分語りの実況中継で綴られている。


 女性神話の中心軌道に沿って書かれている。

将来の夢を物理学者に選んだ主人公の男子高校生は、勉強して東京大学に入学するも、三年で躓く。式を追うことしかできず、その奥にあるはずの現象、物理が観えない。何も見えないまま追う数式は呪文のように思え、苦痛に変わってしまった。

 諦めきれずに大学院に行くも研究がうまくいかず、自分には物理しかないという気持ちだけが空回りし、博士課程二年になったときドクターストップがかかった。

「俺に死ねって言うんですか。研究は今の俺の全てなんです。それに今更もうどこも俺を雇ってなんかくれませんよ」

 気の毒そうな顔をした医者から、研究が大事なのは理解しているとしながら、「このままの生活ではそのうち研究か、あなたかどちらかが破綻する。医師としてそれは容認できない。修士まで出ているのだから、何かしら食っていく道はあるはずです。私も精一杯支援します」と言われ、大学院を中退。現在は高校の教員として、物理を教えている。

 あれだけ大志を抱いて上京し、本物の才能たちにプライドを粉々にされ、ただの高校教員をして罪人のように生きている自分が惨めだった。

 万有引力を教えた後、生徒の「結構老けてるよね。あいつ物理何年やってんだろ、よく飽きないよな」の言葉が刺さる。呼吸が荒くなり、フラフラと歩きだして養護教員に声をかけられる。保健室に連れて行かれると、奥には女子生徒が座っていた。

 最近は体調も安定してきて大丈夫だと思ったのですがと嘘を付きながら、ご迷惑をおかけしましたと退室しようとすると、「先生、物理の先生でしょ。ちょっと教えてほしいとこあるんだけど」と女子生徒に声をかけられる。

 重力加速度の質問に答えながら「本当に理解するためには、もっと難しい内容を勉強しないといけません。今三年に教えているけれど、何かプリントとか要りますか」と聞く。

 彼女は他の勉強も追いつかなくてはならないと断るも、「三年になったら先生から物理習いたいな」という。退室しようとすると、「先生が精神病んだのって、教えてる教科のせいでしょ。さっき私に物理教えてくれたとき、楽しそうだったけど、目が苦しそうだった。気をつけてね」

 発作は収まるも、胸の奥が鈍く痛む。

 次の授業の準備をする。生徒にとってヤマ場になり、生徒に人気がある教育学部の数学専攻だった同僚に積分の補足プリントをもらって帰宅する。数学教員の名前を出したおかげで真面目に聞くようになり授業は成功した。

 アパートの暗い一室に、僅かに月明かりが差す。狭い部屋に薄い布団で寝ながら、本当に囚人みたいだと苦笑を浮かべる。

 自宅から電車で一時間ほどいったところにある、都内でも星が見えやすいことで有名な森林公園で天体写真を撮るのが、数少ない安らぎだった。一瞬、月と火星の軌道を描くガイド線が見えた気がした。ふと突然、月と火星の像がぼやける。

 理屈と数式に埋もれ、宇宙の神秘を見失った。今見えたガイドは頭の中の宇宙の名残。自分は惑星ではなく、惑星の小さな片割れとして辛うじているだけの衛星だと気付く。 

 並んだ二つの星は希望そのものであり、若かった自分を思い出させるから嫌いなのに、いまでも物理に恋い焦がれている。

 惑星も衛星も、宇宙に浮かぶ星に変わりない。惑星は、衛星の公転によって軌道を僅かに揺らす。万有引力の法則がそう言っているのだ。だから、きっと私の言葉だって無意味にはならない、という思いを込めて「物理学で最も重要なのは、不思議さに素直に感動する姿勢、センス・オブ・ワンダーです。ぜひ、初めて物理を学んだ日の純粋な気持ちを、忘れないでください」素直で色とりどりの未来の惑星たちに、不甲斐ない自分を許してくれと思いながら教鞭を取るのだった。


 物理学者になる夢の謎と、主人公に起こるさまざまな出来事の謎が、時の積み重なりとともにどのような大人となり、どう自分と向き合って、次に続く者たちへ伝えていくのかに魅了される。

 感動をもたらすのは、わからないことがわかること、自分にも関係があること、自分でもできること、いずれかが含まれていることが大切だ。

 本作には三つすべてが描かれている。

 物理学者を目指して勉強に励んだ主人公が、挫折して物理教師として高校で教える大人になった姿を描くことで、まだ十代ならば、主人公のように描いている将来の夢が叶わなかたらどうしよう、勉強しなきゃとか考えるかもしれない。大人なら、描いた将来の夢を掴んでいるのか、掴めていないのか、それによって感じ方が人ぞれぞれ異なっていくだろう。

 他人と競争する社会、栄光をつかめるのはごく一握り。

 それ以外の多くが夢敗れる。

 大会に出れば予選敗退、応募すれば落選、受験や就職、恋愛など、大多数の人は挫折を経験してきているはず。

 主人公のように、自分には物理しかないんだと思って、恋い焦がれても、なりたいものになれるとは限らない。

 そんな経験があるからこそ、本作には少なからず感情移入ができるのだ。


 冒頭の書き方がいい。遠景、近景、心情の順に描くことで、主人公の思いが深く伝わってくる。

 書き出しの「今日、俺の将来の夢が決まった」は、決意をしたことがある人ならば、目を引くだろう。続きの「いや、夢というよりも運命に近い。そうなることが俺の一生の使命なんだ。間違いない」と、いい切るほどに確信している。


 やりたいことを決めたとき、誰も同じことをおもったはず。

「自分の将来の姿を思い浮かべる度ににやついて溜め息をついてしまう」

 目標が決まると、一本の道が見えてくる。たとえどんなに遠くても困難でも、目指す場所が明確になるだけで、不安に迷っていた心は霧が晴れたように明るくなる。だから笑いもこみ上げるし、困難さに気合を入れるためにもため息をつくのだ。

 物理はあらゆる学問の中でも一番大事なもの。物理を問うために文字を学び、数式を学び、歴史も学ぶ。ありとあらゆる学問は物理に通じている。主人公の目の付け所は素晴らしかったと思う。


「物理学で最も重要なのは、不思議さに素直に感動する姿勢、センス・オブ・ワンダーです。ぜひ覚えておいてくださいね」を読んでいてモヤッとした。

 ニュートン力学も万有引力の法則も大事だけれども、ここで語られているのは、教員が生徒たちになにかを伝えようとしているように感じたから。

 授業内容というより、雑談に近いような雰囲気がある。

 個人的に、一九六〇年代に環境問題を告発した海洋生物学者、レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』を思い出した。『子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察や、美しいもの、畏敬すべきものへの直観力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。もしわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない『センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目をみはる感性』を授けてほしいとたのむでしょう』

 物理の教員も、生徒たちにも同じように、神秘の不思議さに目を見張る感性を忘れないでほしいと伝えたかったのだ。


 主人公が途中で躓いたのは、「俺は物理をやっていくのに何かが根本的に欠けている。式を追うことしかできない。その奥にあるはずの現象が、物理が観えないのだ。大学三年のときからずっとそうだ。何も見えないまま追う数式は呪文のようで、その日から物理は苦痛に変わってしまった」と自身でも語っているように、問題を解くことにのみ注視してしまったからだ。

 物理だけでなく数学も、問題文や数式を問いていくことが目的ではなく、それらはすべて練習にすぎない。公式を覚えたり、問題の解き方を学んだりするのは、その先にある、あらゆる事象に対してどのような理論理屈が働いているのかを読み解いていくための道具として、数式を用いて解いていくのだ。

 主人公が物理学者になるという夢を描く時に、宇宙の真理を読み解くとか、宇宙の誕生だったり、宇宙の外の世界はどうなっているのかなど、一緒かかっても解明されないかもしれないけれども、途方もない壮大なスケールの目標を掲げ、それに向かって大目標、中目標、小目標を自分で設定しては、一つずつクリアしていく。そのために物理学を使っていくとする考え方を最初に打ち立てて置かなかったからだろう。

 もちろん、途中で上手くいかなくなり、本作のように挫折するかもしれない。それでも、あらゆる学問は物理に通じているのだから、自分のいる場所からでも物理はできる。

 アインシュタインは、ベルン特許局の職員の仕事を続けながら、「特殊相対性理論」をはじめとする画期的な論文を発表。世界の有名科学者の仲間入りを果たし、研究生活に打ち込むため、特許局を退職して大学教授の職に就く。

 研究室にいなければ物理学者になれないわけではないのだ。


 保健室に女子生徒が、主人公が病んでいるのに気付くところが良かった。同じように悩みを抱えている彼女だったからこそ、他人の痛みがわかるのだろう。

 また、こういう生徒に物理を教えたら、ひょっとしたら大成して、物理の道へと歩んでいってくれるかもしれない。


「天体写真は、無気力な日々の中の数少ない安らぎだった」

 かつて星々に思いを馳せ、物理学者になろうと夢見たときから、続けてきた趣味なのだろう。星を見て、かつて希望だったものが「奈落へ突き落とす」ものに、今は成り果てている。

 星は何も変わらないから、変わったのは主人公である。

 歳月はまさに残酷である。


「物理って、皆さんのほとんどはあと数年の付き合いだと思いますが、続けるのが大変な学問です」現実味のある台詞である。多くが、卒業したら、学んだことを使う機会もなく、離れて言ってしまうのが現実だ。

 自身を衛星に、生徒たちを未来の惑星たちと比喩しているのが素晴らしかった。


 主人公は、研究者になろうと思って頑張り、叶わず、違う人生を過ごしている自分に苛立ち、不甲斐ないと思い続けている。

 だけど、生徒たちに「物理学で最も重要なのは、不思議さに素直に感動する姿勢、センス・オブ・ワンダーです。ぜひ、初めて物理を学んだ日の純粋な気持ちを、忘れないでください」と伝えることで、夢を追いかける側ではなく、夢を追いかけていく若い人たちを送り出す側になったことを受け入れたのだと思う。

 どんな仕事においても、これまで培ってきた経験や経験に基づいて研ぎ澄まされた勘所は、何者にも耐え難い財産である。

 加齢と体力の低下が進む中、後進に道を譲るように身を引き、次に続く若い人たちを物理学の道へと引っ張り上げていくのが、これからの主人公の喜びになっていくのではと思う。

 

 昔、教員が言っていた事を思い出す。教え子から一人でも多く、世に出て、世の中を良くしていってくれる子を育てるために、無駄かもしれないと思いながらも教えるのだと。 

  

 読後、タイトルを見ながら、火星と月を考える。

 月と火星の最接近は毎月起こり、珍しい現象ではない。

 月は地球の周りを約一カ月かけて公転しており、地球から見ると月は西から東へと日々空を移動し、約一カ月かけて空を一周する。

 そのため、月は惑星や星座の星々との位置関係、そして、見える時間帯等が毎回異なる。

 主人公がみた最接近はいつなのかわからない。

 数カ月後に生徒たちにセンス・オブ・ワンダーの話をしていることから、高校で物理学を学ぶ生徒を前にして話す言葉に思えるので、語ったのが四月だとすれば、最接近をみたのは冬だったと想像する。

 

 私達に必要なのは、いつだってセンス・オブ・ワンダーなことを、教えてくれるし思い出させてくれる、そんな作品である。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る