この手を引いてくれたのは
この手を引いてくれたのは
作者 各務あやめ
https://kakuyomu.jp/works/16817330661650801650
器用にこなす私だが勉強もテニスも敵わないと知り、昔習っていたピアノ教室に通い出すも右手に腫瘍が見つかり、良性だが手術することに。教室でできた友達に連絡すると良性に喜び、二人がくれたお守りを握りながら『再来月、また会おうね』返事を送る話。
ダッシュはふたマス云々は気にしない。
実に素敵な話。
何者かになりたいと抱くのは、若者の特権である。
また、安心など誰も死ぬまでできない。
生きることはすべて不安なのがあたりまえ。だからうまくいったときは飛び上がるほどはしゃいでは大笑いし、感動もより深くなる。
それが人間というものではないか。
現代では、スマホ画面内で大はしゃぎするのが常になっていることを、実感させられる。
主人公は、女子高二年生。一人称、私で書かれた文体。自分語りの実況中継で綴られ、現在→過去→未来の順に書かれている。
人物や風景描写はあまりない。一文は短く、読みやすい。
面白い作品にみられる、どきり、びっくり、うらぎりの三つの「り」が描かれている。
女性神話の中心軌道に沿って書かれている。
主人公の私は、何でも器用にこなす子だった。勉強も運動もそれなり、友人関係も程よく八方美人でいて、礼儀も常識も身につけ苦悩することはなかった。
中学ニ年の夏休み明け、一人の女子生徒が転校してきた。彼女の偶然、彼女の定期考査結果が目に入り、一位だと知る。自分には勉強に限界があると悟り、勉強以外のことに目を向けるようになる。
高校ではテニス部に入り、どんどん実力てついていった。一年後にはその部のエースと呼ばれるまでになるも、春に新入部員が入ってくる。「もともとプロ志望だったんですけど、怪我しちゃって」と遠慮がちにラケットを握って打ったボールは見たことがなかった。もうプロは目指せないんですけどと肩をさすりながら諦めたように笑うのを見て、この場の人間に買っても狭い世界でもがいているだけに過ぎない。テニスじゃなくてなんでもいいから何か圧倒的なものをもった自分を目指していたことに気づく。冷めていくのはあっけなかった。
幼い頃、数年間だけピアノ教室に通っていた。決められた時間以外にテニスをすることがなくなり暇を持て余していたとき、部屋にあったオルガンを弾いてみる。教室に通っていた当時が思い出され懐かしさを感じ、ピアノ、もう一度やったらと母は提案。
ピアノ教室に通うも、右手に主要があるとわかると家中大騒ぎになった。大病院に連れていかれ検査し、翌週結果が帰ってきた。
腫瘍は良性だときいて、母は良かったと呟いた。良性でも手術で右手から除去するらしく、手術が成功してもピアノはしばらく弾けない。
母ほど喜びもなく、勉強やテニスを頑張っていた頃なら、飛び跳ねて喜んだかもしれない。ピアノから離れなければならないが、ピアノは遊びで会ってもなくてもどちらでもいい存在だと思い直す。
ただ、週に一度ピアノ教室ですれ違うだけで、義務的に連絡先を交換しているだけの同い年のあかりちゃんと、はなちゃんという友だちができた。彼女たちに限らず、いつも付き合いは淡白で、自分を磨こうと努力すればするほど周りが見えなくなるタイプだった。
熱心に医者の説明を聞く母の隣で、体裁だけを整えて聞いているふりをする。手術だってどうとでもなればいいと思いながら、左手をずっと握っている。ここで終わればよかったのに、とさえ思えてきた。
母は診察料を払いに受付へ、私は待合室のソファに座る。もし検査の結果が悪かったら、大病院に長期入院を強いられ、人生の最期をここで迎えることになっていたのかもしれない。スマホで、検査を受けると知って心配していたピアノ教室の友達にメッセージを送る。と、虚無感におそわれた。
すると、腕には点滴台に繋がる管が刺さり、コロコロとそれを運んで歩いている幼い女の子が目の前を通り、「お姉ちゃん、そのシュシュ可愛いね」と髪飾りを褒められる。痛々しい腕から視線を剥がしながら「あ、ありがとう」お礼の言葉を口にする。
女の子は看護師に招かれて、入院病棟のエレベーターへ向かっていた。私は唇を引き結び、拳を握った。他人を見ないと自分の幸せに気づけないだなんて馬鹿が過ぎる。が、家に帰っても時間を貪るだけ。目標をなくし、前より思いなにかを背負い、ずるずるとくらいところへ引きずられていく。何かが自分に都合良く降ってくるのを待って、膝を抱えているだけで、自分の無力さと怠惰を認めるのが怖かった。
すると、スマホにメッセージが届く。ピアノ教室のあかりちゃんと、はなちゃんから『良かったああああああああああ!!!!』『安心したよー!!!!』と顔文字とハートマークとスタンプであふれかえる。知り合ってから一か月程しか経っていないのに。
『お守り、役に立った?』ぱっ、と画面に文字が浮かぶ。
左手を開く。そこには、片手にすっぽりと収まってしまうくらい小さい、二人がくれたこのお守りがあった。
自分が抱いていたのは怒りではなく寂しさだった。手術でピアノが弾けなくなると知って悲しかったのは、二人にもう会えないのではないかと思ったからだった。震える手で、文字を打つ。手術は、来月だからさ。『再来月、また会おうね』
生きている限り、私は独りにならないのだから。
三幕八場の構成で書かれていて、後半の展開、どんでん返しもあって非常によくできている。
書き出しは「十七歳の夏。病院の診察室で、私は絶望した」と、衝撃な言葉から始まっている。
なにに絶望したのか、読み手は気になるのだが、担当医と母のやり取りから、大事には至らなかったことが伺える。
でも、「この場で喜んでいないのは、患者である当の本人の私だけだった。どうやら私は、命は助かるらしい。私の体は、これからも何の問題なく生きていけるらしい」と、助かったことを喜んでいない。
自殺志願者かしらん、と頭をよぎる。
主人公の苦悩とは一体なにか。
大きな謎とともに、彼女に訪れる数々の出来事という謎、二つが最後には一つに繋がり、絶望から希望の結末へと描かれていく書き方は非常に上手い。
「負けというものを知らなかったから、自然と、上の人間のことを想像できなくなっていたのだ」とあるけれど、だからといって一位の子をみて、「どうやら勉強では、私には限界があるらしい。私は勉強以外のことに目を向けるようになった」となるのかしらん。
一位になる、ならないは別にして、勉強をしないと授業についていけないし、強豪とよばれていたテニス部のある高校へも進学できないから。強豪と呼ばれる学校は、部活以外にも勉強にも力をいれていることは多い。
なんでも器用にこなす性格の主人公なので、勉強以外のことに目を向けつつも、勉強をそつなくこなしているはず。
主人公が悩むのは、器用貧乏だからと考える。
何でもできる人間はなんにもできない、といわれることがある。
テニスには強い力がいる。ピアノには強い力はそこまで必要はなく、指先の器用さが求められる。使う筋肉は間逆なのに、テニスの合間にピアノを弾くのは難しい。
それでもできるのは、彼女が「幼い頃、数年間だけだったが、母に連れられてピアノ教室に通っていた」からだ。
これが逆で、幼い頃からテニスをしてきた人がピアノを始めるのは、かなり大変。
手の腫瘍が悪性だったとしても、早期発見なら、そこまで非鑑定になる必要もない。全身にガンが転移して施しようがない、みたいな状況でないかぎりは、「悪性だったら命にも関わっていた」ということもないのでは。
そういう事実はどうでもよくて、このときの主人公はそれくらい、自身の人生を悲観していることを描いているのだろう。
それよりも、手術してピアノがうまく引けなくなることに対して心配していないし、「ピアノなんてせいぜい遊びで、あってもなくてもどっちでもいいくらいの存在なのだ。私はそう思い直した」と、自分の人生の状況から逃げ腰なのがわかる。
主人公には、逃げ癖がついている。
勉強で勝てないから、テニスをはじめ、テニスでも駄目だったからピアノへ。そしたら腫瘍が見つかり良性だったけど、ピアノなんてどっちでもいいやと、逃げてばかりいる。
一度逃げると、くり返してしまう。
結果、自分が求めてきた人生とは違う生き方をしてしまい、幸が薄く、ますますもって悲観的な考えに走りやすくなっていく。
友人関係にしても「私は淡泊なのか、友人関係がある一定のラインから発展しない」と、線引をしている。
ここまでは仲良くしても、ここからは踏み込まない。
しかも、言い訳が多い。
「自分を磨こうと努力すればする程、私はまわりが見えなくなる人間だった。別にそれでもいいと思っている自分も確実にいる」「自分は達観しているとか、大人だとかなんて微塵も思っていない。私は凡人で、それを覆せる程の努力家でもない。ただそれを自覚しているだけだ」という具合に、自分を客観視しているだけで、自分が人生の主人公だという考えを放棄している。
前半は、受け身な主人公の姿が描かれている。
後半は、積極的に行動を起こしている。
ピアノ教室に友達にメッセージを送り、もし悪性だった入院していただろうと想像する。
そんなとき現れる現実。
入院している幼い女の子が「腕には管が刺さっており、点滴台に繋がっていて、コロコロとそれを運んで」目の前にやってきて「お姉ちゃん、そのシュシュ可愛いね」と声をかけられる。
五、六歳の女の子は、主人公の対照的な存在、もし悪性だったらどうなるのかという姿を、想像ではなく彼女の現実として見せている。ここの書き方がいい。
あと、「五、六歳の女の子」というのは、主人公の精神年齢なのでは邪推する。
自分の見た目は十七歳の女子高生だけれども、「達観しているとか、大人だとかなんて微塵も思っていない。私は凡人で、それを覆せる程の努力家でもない。ただそれを自覚しているだけ」の、中身は幼児と変わらない、考え方や発想が幼稚なのだと表現したいのだと思う。
「私は幸せ者だ。だからこそ余裕があって、考えたって仕方のないことを永遠に続けてしまう。全ては運命で、私たちの意志とは関係無しに、歯車は回っているのに」
幸せな悩みという言葉があり、主人公の考えていることはまさにそう。
なにが幸せなのかというと、人生にはもっと煩わしくて、複雑で、いろいろな問題がある。たとえば、親戚付き合いとか、ご近所付き合いとか、税金とか支払いとか、あげたらきりがない。
そういった煩わしい悩みを抱えずに済んでいるのは、親がいてくれて、周りの大人が支えてくれているから。
大人に守られているから子供は幸せでいられるし、考え悩まなくてもいいことで悩んでしまう。
他人と比較するのではなく、人生の主人公である自分自身を、いかに育てていくかに力を尽くしていけばいいだけなのだ。
本作の主人公の彼女も、自分自身が「ずるずるとどこか暗いところに引き摺られていくようだ」と客観視し、「私は今、何を求めているのか」と自問をしては、拳を握る。
この拳には、ピアノ教室の友達二人から贈られたお守りがある。
話すつもりはなかったけど二人に話してしまい、お守りをもらったから握っている程度だったのに、スマホに届いたメッセージで一転するところが、すごくいい。
しかも、『良かったああああああああああ!!!!』『安心したよー!!!!』と絶叫なのだ。
意外な展開がきて、読み手としても「おおおっ」と声を出したくなるような場面なので、二人の絶叫のメッセージはタイミングがそごくいい。
「今この瞬間も、ぽんぽんぽんぽん、新しいスタンプが次々に送られてくる」は、目に浮かぶようで、読者側も一緒になって素直に「よかったよかった」と思える。
「人の声って不思議だなあ、と私は小さく呟く。たとえ何も解決してくれなくても、塞がらない心をすっと埋めてくれる」
メッセージなので声を聞いてはいない。
ここは、「人の言葉」だと思う。
主人公の彼女としては、メッセージの文字を見て、ピアノ教室で会って話した友達の声が、頭の中で再生されたのだろう。
本人が寂しさに気づく前に「ずっと、怖かった。死ぬのも、自分を見失っていくのも」とある。
この辺りでもやもやする。
本音の部分では、腫瘍ができて検査するとなったとき、悪性だったらどうしよう、死ぬかもしれない、と不安になり怖かったのだろう。
そのあとで良性ですと言われて、「絶望した」となる。
ということは、理性が強い子なのだ。
感情面では死ぬのかもしれないと不安で怖かった。
でも理性面では、覆せるほどの努力家でもないし、ピアノなんてどっちでもいい、いっそのこと悪性だったよかったのにとさえ思っていた。
そこに、現実である入院している幼い子を目の当たりにし、たまにしか顔を合わさないけど心配してお守りまでくれた友達が、良性だったと聞いてものすごい喜んでいる。理性が引っ込み、感情が表に現れてきたのだ。
手術は来月だから『再来月、また会おうね』と友達に伝えることができ、「生きていてよかった」と素直に思う。
「あんなに長い間どうにもならなかた焦燥感が、嘘みたいに薄れていく」のは、強かった理性が大人しくなって感情が表に出てきたから。
「このあたたかさに気づかないのは、本当に惜しいことだ」とまで言い切っている。
最後の「生きている限り、私は独りにならないのだから」は、女の強さかもしれない。
読後、タイトルを見ながら、ピアノ教室の友達だけのことではないと思った。
手の腫瘍と、あかりちゃんとはなちゃんは、きっかけに過ぎない。
手を引いてくれたのは、生まれてから今日まで、直接間接に関わらず、たくさんの人達と関わってきてことを指しているのだろう。一位をとった転校生も、怪我をしたプロ志望の子もすべてがいたから、いまの自分がいる。
「先なんて分からないままでも、私には何も無いわけじゃない」「生きている限り、私は独りにならないのだから」の思いがあれば、これからも、たくさんの人達と関わりを持って生きていけるだろう。
実に素敵な話だった。
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