女演俳優賞

女演俳優賞

作者 ヤチヨリコ

https://kakuyomu.jp/works/16817330650515837507


 頭のいい義兄に感化しては喜劇以外の本を読むのを勧められ、「この世は舞台、人はみな役者だ」を口にする義兄との性愛関係を望むなら「家族すらも騙す女優になるんだ」との言葉にうなずいた私は、家では良き妻を演じ、義兄の前では女になる生き方を続ける話。


 タイトルから、想像した話とかなり違い意表を突かれる。

 男女の性愛関係へ至っていくまでを扱った作品。

 性的描写や表現を押さえられながら、男女の機微を描いている。

 最終的には不貞に至るので、倫理的に逸脱した行為である。

 読んでいると、高校生ですかと聞きたくなる。結婚したその後も描いているものの、小学生から高校生へと至る辺りが本作のメインなので、高校生だよねと納得させた。


 主人公は女性。一人称、私で書かれた文体。自分語りの実況中継で綴られている。比喩表現が上手い。お話の展開が興味深い。義兄が、主人公を悪い道へと誘う存在として描かれている。


 男性神話の中心軌道に沿って書かれている。

 四人家族の妹として生まれた主人公は、母を亡くしてからは兄妹と兄の飼い犬は父に養ってきてもらった。が、再婚し、血の繋がらない二人目の兄と母ができた。

 シェークスピアの本をくれた義兄は頭がいいが性格は悪く、実兄より大人っぽい匂いをしている。ハーフらしく外国人っぽい顔立ちをし、ときどき「レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた『モナリザ』を知っているかい?」みたいなことを聞かれては自説を垂れ流すと、頬にキスをしてくる。

 されっぱなしが嫌なので仕返しをすると、義兄はさらにキスの嵐を降らせる。「『モナリザ』のモデルは、この際、誰でもいいんだ。あれはダ・ヴィンチが自分自身を嘲笑した、言うなればシニカルに自分の愚かさを描いた作品なんだ」と皮肉っぽく義兄は笑い、「『モナリザ』はダ・ヴィンチが描いているときはダ・ヴィンチだけを見ているだろ。もしかしたら、ダ・ヴィンチはマゾヒストのケがあったのかも。でなけりゃ、女に嘲笑されるような絵は描かない。その証拠に、ダ・ヴィンチは死ぬ最後まで『モナリザ』を手放さなかったという」などと語るのを聞いて、昔に死んだ人の考えが今の自分達にわかるはずがないのになぜそう思えるのか尋ねると、「考察は自由だよ。考察は生きている我々観衆だけの特権だ。それがどんな意味であれ」と小悪魔のように笑う。「これも教養だよ」

 自分も義兄と同じものを見て同じものを考えたいと話せば笑われ、「そのままの君が好きだよ」と優しく諭される。

 友だちと遊ぶなら、シェイクスピア、ゲーテ、オスカーワイルドなど、喜劇以外の本を読むのを勧められる。シェイクスピアの四大喜劇は義兄の言うとおり嫌いだった。なぜなら、人生は喜劇みたいなもの。人生は喜劇であり、悲劇であると言っていた義兄に賛同する。義兄の前ではいつまでも幼く可愛い自分でい続ける主人公は、義兄との奇妙な関係を高校生になるまで続けた。

 大学生になった義兄は、整髪料やオーデコロンをつけ、煙草を吸うから匂いが移ったのがわかるようになった。

 部屋で義兄を迎えると、頬にキスをされては、彼を抱き寄せる。が、招き入れるのも、関係を定義するのも嫌だと思い、「いいよ、もう」と彼から離れる。

 ぽかんとした義兄の顔がおかしくって、笑って、静かに泣いた。涙を拭ったハンカチを、義兄は優しく口付けて「君を愛している。君が望むなら君の奴隷にだってなる」といわれる。彼にとっての神となり、彼にだけ見てもらいたいと思い、彼の唇を奪う。だが、彼から離れていく。

「ごめん。つまらないことした。……なんでもないよ。いっときの気の迷い。忘れて。どうせ、赦されるようなことでもないんだし、いっそのこともうやめようよ。義兄さんだって今のままがいいってわけじゃないでしょう」ため息を吐いた義兄はシェイクスピアの『お気に召すまま』の一節、「この世は舞台、人はみな役者だ」を口にし、「倫理を選択授業で選んでいればわかると思うけど、エピクテトスって哲学者も「君は演劇の俳優だ」と言っている」と付け加えて、手の甲に接吻をしてくる。「結局のところ、教養だよ」

 義兄は「君が今の関係に満足せずに性愛の関係にまで至ったとする。血が繋がっていないとしても僕らは兄妹だ。僕の母や、君の父、兄はどう思うだろう?」と倫理を説いて「……きっと許されないだろうな」「君がこの関係を望むのであれば、君は家族すらも騙す女優になるんだ。僕らは今までどおりの兄妹。それだけだよ」

 互いを見て、二人はうなずいた。

 ベッドにはタバコの匂いが染み付き、結婚するまで毎晩同じベッドで眠った。

 小学生の頃の宿題で答えたように、普通に良い大学へ行って、普通に良い企業に入社して、普通に結婚。義兄はずっと独身の一人暮らしをしている。

 家では良き妻を演じ、義兄の前では女になる。今の自分は女優か、裸の心のままなのか、今はもう分からず、タバコの匂いが染み付いて取れなかった。


 三幕八場の構成で書かれている。

 一場のはじまりは、「将来の夢を書きましょう」の宿題について、普通に良い大学へ行って普通に良い企業に入社して普通に結婚して幸せな家庭を作ることが何より難しい、主人公じゃないんだからと屁理屈をならべる。

 ニ場の目的では、義兄からもらったシェークスピアの本を読んでいると、貸してくれた漫画のお礼として義兄から頬にキスされ、鼓動が早くなる。

 二幕三場の最初の課題は、賢くハーフである義兄の質問に自説を垂れ流すと「お利口さんだ」とキスされ、返すとキスの嵐をされる。

 四場の重い課題では、モナリザの微笑の意味について、ダヴィンチの考えがわからないのになぜマゾヒストのケチだと言えるのかと聞けば、「考察は生きている我々観衆だけの特権」といわれ、これも教養だと笑われる。そんな義兄と同じ考え方をしたいと話すと笑われ、子供なんだから今のままの君が好きだと諭される。

 五場の状況の再整備、転換点では、、人生は喜劇であり悲劇であり、友だちと遊ぶ暇があるなら喜劇以外の本を読むようにと義兄から四代喜劇を省いたシェークスピアの本や、オスカーワイルドの『サロメ』、ツルゲーネフの『はつ恋』、谷崎潤一郎の『痴人の愛』、江戸川乱歩の『人間椅子』、田山花袋の『蒲団』を贈られ、本棚に埋まっている。主人公は義兄の前ではいつまでも幼くかわいい自分でいたかった。

 六場の最大の課題では、大学生となった義兄から額にキスされ、高校生となった主人公はハグするも、関係をやめようと思って離れる。義兄のぽかんとした顔を見て笑うも涙が流れてくる。「いっそのこともうやめようよ。義兄さんだって今のままがいいってわけじゃないでしょう」と早口で言う。

 三幕七場の最後の課題、どんでん返しでは「シェイクスピアの『お気に召すまま』。読んだことある?」「この世は舞台、人はみな役者だ」と義兄は語り、今のままの関係に満足せず性愛に至る関係を望むのなら、「君は家族すらも騙す女優になるんだ。僕らは今までどおりの兄妹。それだけだよ」といわれ、部屋に取り残される。悲劇の主人公であり、ろくでもない人生だと思いながら、結婚するまで毎晩、関係が続く。

 八場のエピローグでは、普通に良い大学へ行って、普通に良い企業に入社して、普通に結婚し、家では良き妻を演じ、義兄の前では女になる関係を続けている。

 

 冒頭の「『将来の夢を書きましょう』という宿題に対して、私はこう答える」という読者をつかむ書き出しが上手い。

 小学生の作文の宿題で、一度は書いたことのある題材なので、誰もが主人公はなんと書くのだろうと、興味を抱くだろう。

 だから、次の行が気になって読み進めてしまう。

」普通に良い大学へ行って、普通に良い企業に入社して、普通に結婚して、幸せな家庭を作る」

 ベタな事が書かれている。

 かなり昔なら、よく耳にした将来の夢だと思う。バブル崩壊から失われた三十年と言われる今現在、この内容の将来の夢を答える子供はどれくらいいるのだろう、とおもっていると、

「これが何よりも難しいことだと、教師含め一度社会に出た大人たちは理解しているはずだ。そうに違いない。……などという屁理屈をこねる悪癖のせいで、私は生来親や親類から叱られてばかりだ」と続いて、なかなか面白い発想と着眼点をする主人公だと感心した。


 しかも、父親もなかなかどうして。

「どうしてそう屁理屈を並べるんだ? 子供らしくパティシエとか無難なことを言えば、それでいいじゃないか」「あいつらなんか会社で働いたことのない馬鹿ばかりなんだから、うまいこと書けばいいじゃないか」

 ひねくれていると言うか、屁理屈をこねて、素直ではない。

 父親のいうことは、まったくもってそのとおりだし、昔からよく大人がいっているのをよく耳にしたので、作者にも感心させられる。


 自分は「何かの主人公じゃないんだし」と言いかけてやめるけれども、心のなかでは主人公だと思っている。のちに、義兄にこの世は舞台で誰もが俳優、君は演劇の俳優だといわれ、悲劇の主人公の女優となっていくのだから。


 亡き母の写真に「馬鹿」と愚痴っている。

 母のことが大好きだったのだろう。

 もし母が生きていたら、屁理屈をいうような子にはならなかったかもしれない。

 ひょっとすると、母がなくなったことで、自分は悲劇の主人公だと思っているかもしれない。

 少なくとも、寂しさを抱いているはず。

 そんな時に再婚し、頭が良くてハーフの義兄ができ、外国の挨拶のように頬にキスする。自然とハグもするだろう。

 ストレスを抱えている人は、身体的接触、手をつなぐとかハグされるとかすることで、ささくれていた心が和らいでいく傾向がある。

 義兄は頭がいいけれど、「それをあえてひけらかすことはしないが、選書とかで嫌味っぽいくらい頭がいいのがわかる」とあり、もらったシェークスピアは「どれも陰鬱なばかりで、ちっとも面白くない」ものばかり。

 ボーディーランゲージを取っては、単純接触効果を発揮して懐柔し、悲劇だと思っている人間に人生は悲劇だと思わせて、不貞な関係へと持ち込んでいくので、義兄は狡猾な賢さを持っているように思えてならない。

 とうするに義兄は、自分の欲求を満たそうと、主人公である義妹の心の隙間を利用したのだ。

 だけど、義兄が強要したわけではなく、あくまで主人公の義妹が二人の関係を望んだ流れに持ち込んでいる。

 

 高校生のとき、義兄は大学生とあるので、少なくとも年は三つ離れているはず。将来の夢の作文が出されるのは、小学生でも高学年だろう。すると、義兄は中学生だったはず。ハーフだったから、さらに大人びてみえていた。

 そんな相手から、頬やキスをされたら、「少女漫画みたいだ」と思うのは当然だし、ドキドキしてしまう。

 こういう男を、女たらしというのだ。


 モナリザの話をしているとき、ダ・ヴィンチはマゾヒストのケチだったかもしれないと話をしているとき、「待てよ、と思った。それはおかしい」と反論している。

 この辺りは、まだ理性的に物事を見ることができている。

 でも、「義兄と同じようにものを見て、同じようにものを考えてみたいと思える私がいるのは誤魔化せない」と、義兄の考えに染まっていく。

「まだ子供なんだからそんなこと気にしなくていいのに」と義兄はいう。否定をしているように聞こえるけれども、大きくなったら気にしてほしいと思っているのが透けて見える。

 しかも、「君はかわいいよ。君はそれでいいんだ」「そのままの君が好きだよ」と口説いていくのだ。


 喜劇を読ませないのは、いつまでも悲劇のヒロインでいてほしいと思っているから。そのほうが義兄としても懐柔しやすいだろう。

「――喜劇は嫌いだ。義兄が言った通り、喜劇は駄目だ」と、すっかり義兄の考えに染まっている。

 でも、駄目だということは、読んだことがあるはず。

 読んでもいないのに、良いも悪いもいえないのだから。

 もっと早くにシェイクスピアの四大喜劇を読んでいたら、考えも違っていたかもしれない。


 オスカーワイルドの『サロメ』とは、聖書から題材を取り、イエスキリストと思える様な弟子を持つ予言者ヨカナーンと、ヨカナーンに恋をしながらも父王エロドから恋慕の想いを抱かれている王女サロメとの恋と嫉妬、そして想いが叶わない事で、永遠に独占しようとする情熱的な女心を怪奇な幻想を描いた作品。

 ツルゲーネフの『はつ恋』とは、モスクワで暮らす少年ウラジーミルの家の隣に、美人で高飛車なジナイーダという娘が引っ越してくる。ジナイーダは数人の青年を弄ぶ悪女であり、ウラジーミルも弄ばれた挙げ句、彼女のところへ忍んで行く自分の父親の姿を目撃する作品。

 谷崎潤一郎の『痴人の愛』とは、国立大学を出た真面目なサラリーマンの河合譲治が、実家から放任された十五歳のナオミとカフェで出会い、彼女を育て、いずれは自分の妻にしようと思った。しかし、次第に少女に破滅的な愛情を抱くようになり、悲劇的な結末を迎える作品。

 江戸川乱歩の『人間椅子』とは、外交官婦人で美しい女性作家の佳子が書斎でファンレターをチェックしていると、分厚い手紙が紛れ込んでいることに気付き、自分への手紙であると判断して読み始めると、とある男が椅子の中で生活しているという懺悔の内容であり、恐怖に支配されていく様子が描かれた作品。

 田山花袋の『蒲団』とは、中年文学者の竹中時雄が若く美しい女弟子の横山芳子に恋心を抱くも田中秀夫との恋愛問題を起こしたため故郷に帰し、時雄は芳子が使っていた蒲団や夜着の匂いを嗅ぎながら顔を埋めて泣いて終わる作品。 

 義兄が選んだ本はどれも耽美小説であり、彼が好きな世界なのだろう。

 小説の中だけでなく実際に自分も堪能したいと考えた義兄は、教養だといって主人公の義妹に読ませ、自身が好む世界を踏襲させるためだと邪推したくなる。

「――この贈り物の意味がわからない私ではない」とあるので、これらの本を義兄から贈られたとき、義兄の考えには気づいていた。

 気づきながらも、「この関係を終わらせてしまうのが怖かった」のだから、義兄との関係に快感をおぼえ、義兄の前では何も知らない、気づいてもいない「幼いかわいい私」を演じだしていたことがわかる。


「煙草のにおいが私に移ったような気がする。それがなんとも愛おしく、また嫌だった」の比喩的表現が上手い。

 煙草のにおいイコール義兄であろう。

 高校生になってから、やはりよくないと思ったのだ。

 義兄が「君が今の関係に満足せずに性愛の関係にまで至ったとする。血が繋がっていないとしても僕らは兄妹だ。僕の母や、君の父、兄はどう思うだろう?」「……きっと許されないだろうな」という。

 結論からすれば、義理の兄や弟との結婚は可能である。

 だから問題はない。

 義兄が「……きっと許されないだろうな」というのは、そうであっても父や兄や継母の考えはどうなのか、ということ。

 倫理観である。

「そうか、倫理を説くか。――私は唇を噛みしめた」と思っているけど、実際どうなのかは本人たちに聞いてみないとわからない。

 でも、「何をわかりきったことを。知っている。知っているさ」とあるので、あの父や兄なら反対するに違いない、と思っていたのだろう。

 

 一人になった時に呟いた「主人公じゃあるまいし」の言葉が、小学生のときと同じなのに重みが違う。

 あの頃はまだ軽い感じがしたのに、いまもう悲劇の主人公で、「ろくでもない人生」だと理解している。

 にもか関わらず、義兄と関係を持っていく。

「ベッドには煙草のにおいが染み付いていて」という隠喩は、義兄とベットをともにしたことを含んでおり、しかも「結婚するまで毎晩このベッドで眠った」とある。

 他の家族は気が付かなかったのかしらん。


「私は義兄の家を訪ねても、ボディソープを使わない。彼のにおいを持ち帰らないために。家では良き妻を演じ、義兄の前では女になる」がモヤッとする。

 義兄は煙草に匂いがするはず。

 ボディーソープを使わないと、煙草の匂いを家に持ち帰ることになる。

 なぜ使わないのか。

 考えられるのは、出かけたのにオフロに入ってきた匂いがしたら怪しまれてしまうから。もしくは、家で使っているボディーソープと義兄の家のボディーソープが違うのかもしれない。

 義兄の家でするとは限らない。ラブホテル(レジャーホテル)を利用しているなら、匂いを気にする人が多いためか、ボディーソープは無香料であることが多い。

 なので、ラブホテルで会っているなら、ボディーソープを使っても良いはず。

 ただし、髪はどうだろう。

 毎回違うラブホに行っても、髪は同じ匂いになることがある。枕やシーツなどリネン類の柔軟剤がどこも同じだから。

「私は義兄の家を訪ねても、ボディソープを使わない」とあるのだから、やはり素直に義兄の家で毎回会っているのだろう。


「そんな今の私は私なのだろうか。女優としての私なのか、裸の心の私なのか。私にはもうわからない」からは、習慣やくせみたいに義兄との関係を続けてしまっている様子が伺える。

「私には煙草のにおいが染み付いていて、もう取れない」は、好きだから会いに行って抱かれているのではなく、水と魚の関係みたいに義兄との関係はもう断ち切れない、ということかしらん。

 ある種の病気、もしくは洗脳といえる。

 

 読後、タイトルの『女演俳優賞』を見て考える。女演俳優賞をあげたいほどの女に成長した、その過程が描かれた作品ということだろう。

 そもそも、最優秀主演女優賞や最優秀助演女優賞はあるが、女演俳優章はない。

 義兄にとっての女を演じさせる義妹に贈られた俳優章、という意味合いが込められていると考えると、適したタイトルに思えた。


 義兄は耽美小説の影響から、悲劇の主人公を気取ろうとしていた義妹に教養を強要し、自信の考えに傾倒させて悲劇の主人公の女優に仕立て上げたといったところかしらん。

 つまり義兄は、義妹が好きではなく、不貞をさせ、自身が耽美体験をすることで悦楽を求めるための相手が欲しかっただけではないか、と思えてならない。

 義妹は自分で考え選んできたように思っているかもしれないが、実際のところは義兄に洗脳され、誘導された気がしてならない。

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