紅
「うぇ……」
ゆっくりと足を上げると、ネチャァという粘っこい音と共に粘菌が糸を引く。
「気持ちはよーく分かりますが、一々そんな反応をしないで下さい。こっちまで気が滅入ってきます。」
横からそう言ったシスター自身でさえ顔をしかめつつ、三人はゆっくりと歩みを進めていた。
その足元には、床を覆い尽くさんばかりの赤の群れ。
辺り一面にすっかり蔓延っていたらしい人形菌を弧白が食べ尽くした結果だった。
「しっかし、ホントとんでもないな、原種ってのは」
その結果に光を当て、思わずと言った感じにそう呟くアギト。
「そうだよねぇ。正直僕もここまでとは思ってなかったよ」
「……やはり何か確証があってのことじゃなかったのですね?」
それにのほほんと同意したヘルメスに、シスターの胡乱げな声が飛んだ。
それにヘルメスは事も無げに……
「え、そりゃそうでしょ。原種なんて初めて見たんだし……第一、シスターは慎重すぎるんだよ。こんなとこだと悩んでる間に死んじゃうんだからもっと柔軟に……」
「はぁ~!?あ、貴方、今までに自分が何度その性格で足を引っ張ったと思ってるんですか!?牙を忘れた時だって。あろうことかセルを忘れた時まで!全部私の予備に世話になってますよね!!?」
「う……それを言われるとちょっと弱いんだけど……でもそれを言うなングッ」
「ちょっと待て」
再び異論を唱えようとしたヘルメスの口を塞ぎ、アギトはそう声を上げた。
「……どうしました?」
その様子に何かを察して静かにそう尋ねるシスター。
場の空気を読んでか、むーむーと呻いていたヘルメスまでもが静かに聞き耳を立て、何事かとアギトをじっと見つめていた。
「いや……今何か聞こえなかったか?」
そう言ったアギトの言葉を最後に、シンと静まり返る三人。
しかし、その張り詰めた空気とは裏腹に、辺りには弧白の蠢く音が微かに響くだけだった。
「……ねぇ、この音と聞きまングッ」
辺りの孤白を示しながらそう言おうとしたヘルメスを再び黙らせつつ、アギトは地面の弧白を救い上げ……
ビャッ!
と右斜め前方に投げつけた。
固体でありながら、液体のような性質を併せ持つ……つまりは泥の様な性質を持った粘菌は、波状に広がり、そのまま無為に落下するものかと思われたが……
ビチャッ
「ーーーーーッ!!!」
暗闇の中で、何かに掛かった様な音をたてると、その直後。
悲鳴とも咆哮ともつかない、甲高い声が上がった。
「な、なに!?」
その声に、大慌てでライトを向けるヘルメス。
その先には、異様としか言い様のない姿が有った。
二本の腕に、二本の脚。
加えてその上に乗っかった一つの頭。
これだけの情報であれば、たいていの人間は、これを人間だと認識するだろう。
ただ、実物は違う。
その実、その脚も、腕も。
ついでにその胴体までもが。
身体に有るありとあらゆるパーツが二倍、三倍以上に膨れ上がり、黒く変色しているのが、今三人が対峙している『何か』の外見であった。
そのくせ、頭は元のサイズでちょこんと上に乗っているため、それが不気味なシュールさを三人に与える。
「ーーーーーッ!!!」
三人を視認するや否や、声にならない咆哮を上げる怪物。
「ッおい!」
バチン
それに真っ先に反応したのはアギトだった。
突然の邂逅に驚き、すっかり固まった様子の二人に声を掛け、それをかばうように、杭を構えて前に出る。
その前衛として理想的ともいえる立ち回りを目にして、二人もすぐにどうすべきかを思い出し、咄嗟に『牙』と呼ばれる短いナイフを構えた。
「な、何アイツ!ってか戦うの!?」
「そりゃそうでしょ!いつでもここに入れるわけじゃないんだから!」
「そ、そうだよね……でもどうしよう。こんなに暗いと……」
メキメキ……バキッ
ヘルメスがそう口にしようとした瞬間。
発電所内に何かが壊れる様な音が響いたかと思うと、突然一条の光が差し込んできたのだった。
咄嗟に顔を上げれば、天井に張り付いていた何か赤い物が落ちている最中の崩れた瓦礫を拾い上げ、その細い糸で吊り下げていた。
それが何かは言うまでもなく……
「あれ……隊長から貰ったセルだよな?」
そうアギトが口にすると、それが聞えたのか、弧白は見るなとも言いたげにに吊り下げた瓦礫を振り回し、何かに向かって、今しがたはがれた瓦礫を数多の腕で投げつけた。
ドォン ドォン
流星群さながらに落ちる瓦礫は、いくつかははずれて砂煙を巻き起こすだけだったが……
ッパァン
そのうちの一つは、腕を盾にし、自分の身を守っていた何かの腕を弾き飛ばした。
「…………」
それにショックを受けるように呆然とその断面を見つめていた何かだったが、直にゆっくり腕を降ろすと……
ミチッミチチチチ
そんな音を立て、瞬く間に元の太い腕が生えてきたのだった。
「ッこれだ!俺の聞いた音!」
「今それどころじゃないよー!」
思わず叫んだアギトに、いつでも動けるように構えながら半ば悲鳴混じりの声で応えるヘルメス。
その視線の先には辺りの瓦礫を拾い上げる何かの姿が有った。
何かはそのまま腕を上げ、振りかぶったかと思うと___投擲。
その狙いは、天井に張り付いた弧白だった。
凄まじい勢いでぐんぐんと距離を伸ばす瓦礫。
それが弧白に当たる寸前。
弧白は地面に向かって、垂直に飛び降りた。
弾丸のように落下する弧白。
その勢いのまま着地するかと思った次の瞬間。
突然弧白は不可思議な挙動をした。
着地する寸前のこと。
空中で、突然その粘体が解けるようにして飛び散ったのだ。
飛び散った雫は一瞬宙に浮いたかと思うと、今度はまるで逆再生でもされるように、渦を巻き、その宙に浮いた雫どころか、辺りの粘菌をも飲み込んでいく。
ただ茫然と眺める三人と、様子を伺う何かを差し置いて、弧白はどんどん大きくなっていく。
それは直に人を形作ると……
ブンッ
右腕に当たる部分が煩わしそうに振られ、うねって曖昧だった弧白の表面は一斉に剥がれた。
その欠片は風に吹かれた桜のように、ふわりと後ろへ舞い散っていく。
その桜が止む頃には、そこに一人の女が立っていた。
まるで炎を切り取り、張り付けたような深紅の髪に、後ろに流れる、髪と同様真っ赤なドレス。
そのおおよそ場違いといって差し支えの無い様な装いの女は、一つ溜息を吐くとこう言ったのだった。
「はぁ……ったく。めんどくさい」
病弱彼女 かわくや @kawakuya
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