雨に唄えば
やけに溜めていた作業がはかどる日というのが、一年に二度くらいある。毎週毎週、todoリストの端に呪いのように残っていた「掃除」という項目に横線が入る日が来た。昨日はただ頭を通り抜けるだけだったものが、「不要な品の選別・処分→棚・押入れの中身の整理→簡単な壁天井の掃除→畳の張り替え」という手順として整理され、とはいえ部屋に残された家具は多くないので、思ったより前2ステップの解消はたやすいことが明らかになり、モノの運び出しには人員を必要としたものの、畳の張り替え業者を入れる準備まで、意想外にとんとん拍子で済んでしまった。
シヅルは意気揚々と畳業者に電話を入れる。同時に、適当な座椅子ソファのようなものを見繕ってポチる。例のリクライニングソファの売却という段階になって、ふと手が止まってしまった。この上で一日のほとんどを過ごしていた頃の祖父の記憶があまりない。大学に入ったばかりで、ひとたび受験を理由にして階下の祖父の部屋を訪れなかったものが、次は遊びまわるのに忙しくしていた。死去の直前まで、惣菜メインではありながら、自分で食事の用意をしていた。二度ほど入院した覚えがあった。これは、一度めの退院の折に買ったものだったか、そんなことすら定かでない。その折は、一日そこに座っていたのだろうか。人を大きく包み込むような黒い合成皮革のソファは、ひとたび座ってしまえば、一〇〇〇人目の亡霊として、どこかに連れていかれそうだった。
相変わらず、涌田はパーカーにジーンズといういで立ちを崩さなかった。シヅルもシヅルで、へたった黒バックを肘窩に食い込ませながら、猫背ぎみの仁王立ちで待ち合わせ場所に待機している。
「シヅルさん、姿勢悪いですね」
「涌田は、相変わらずパーカーだね」
「じぶんの一張羅なんで」
「今夜は我が家の劇的ビフォーアフターをご覧に入れましょう」
「ビフォー知らんけど」
道すがら、ほとんど見ず知らずの他人を家に上げる違和を改めて感じつつ、AirPodsを両耳につけてのしのし歩く涌田を顧み、まあ涌田ならいいか、と考え直すのだった。
「おー、すげえ」
いくつかの既存の調度に、新しく加えた座椅子と、結局、部屋の隅に寄せて捨てずにおいた黒いリクライニングソファ。涌田はさっそく座椅子に居をかまえて、いそいそと背もたれを調節している。
「まあそこそこでしょ」
「いやあめっちゃいいですよ。畳も変えたてじゃないですか」
「鑑賞中のつまみも用意しましょう」
「うわ、懐かしいそのポップコーン」
「作り方、逆にわかんないんだけど」
「え、とりあえず火にかければいいんじゃ」
「了解了解――わ、ポンポン言ってる」
「落ち着いて落ち着いて。合ってるから」
「めっちゃ膨らんだ。完成?」
「完成」
こんもりとアルミボウルに盛られたジャズポップコーンには懐かしさもひとしお、やけにおいしく感じた。
「それではさっそく」
おもむろに冷蔵庫からビールを取り出してきたシヅルを見て、涌田はハッと笑った。
「シヅルさんの場合、映画のお供にお酒は必須ですね」
「これが好きなんよ、これが」
「で、何観ますか、結局」
「まあさくっと、『雨に唄えば』でいいんじゃない」
「そうですね」
一度観たきりしばらく空いた映画は、なんとなくいい気分になった感触だけが残っていて、筋書きはすっかり忘れている。鑑賞の直後でない限り「いいよね」以上の感想が出ない自分に、シヅルは密かにやきもきしていた。
涌田はどうなんだろう。ふとそう思って隣を見やると、ぐっと画面を見つめた目は、シヅルの視線をまともに受けても微動だにせず、映画に張り付いていた。
また、あの憧憬の感覚がシヅルを襲った。他人の視線をぶっ飛ばすのではない。この人はそもそも「他人が見つめる眼」を想定していない。そもそも意識の範疇にない。
映画はちょうど、反駁し合っていたドンとキャシーが距離を近づけあい、狂言回しのコスモと夜明かしで朝を歌うナンバーに差し掛かっていた。Good Morning, Good Morning. 心地よい調和。
The End. とあっさり映画は幕を降ろした。エンドロールで余韻に浸るような映画でもない。二人は無事結ばれました、おしまい。が合っている。配信サービスが自動的に関連の「踊る大紐育」を再生しようとしているのを止める。
「ざまあ展開でしたね」
開口一番、涌田は神妙な顔でそんな感想を洩らした。
「言われてみれば……そうだね」
「じぶんのなかで『エンタメはざまあが永遠の王道説』がより確からしくなりました」
「ざまあなんて言葉知ってるんだ」
「じぶん、SNSはやらないんですけど、ネットに転がってる小説読んだりはしますよ」
「へー、意外なんだけど」
「一人の敵にヘイト溜めてそれを大解消! 勧善懲悪の安定感たるやですよ」
「けど、改めて見ると敵女優、露悪的なまでにウザく作ってあるよねえ」
「この声、逆に稀有」
「稀有って。ていうか、永遠に自分の声としてキャシーを使おうとする胆力、すごいことじゃない?」
「逆に言うと、このひと一生声を奪われるわけですしね」
「悪役道を貫いた人生だったね」
ボウルの底に残ったポップコーンを啜るように流し込み、ごくんと呑み込んだあと、涌田は、
「人生ですか」
と訊き返した。
「映画に出てる全部が人生でしょ、このキャラにとっての」
「面白いな。たしかにこの映画、この先に登場人物の人生があるように思えない」
「ざまあ展開が見せ場のお話って、まじで転結がすべてじゃん。一回締まっちゃうともう開かない感じがするよね」
「なるほどなあ。じゃあ次はキャラクターの人生が続いていきそうな映画観ましょう」
「え、チョイスむずいな。まあいいけど」
「じゃ、おいとましますわ」
相変わらず涌田はスパッと帰宅を告げる。「帰りたい」がどうしても切り出せず、かえってお昼でも食べる? などと誘ってしまうところがあるシヅルには真似できない、さっぱりとした態度だった。
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