涌田
涌田は奇妙なひとだった。「じぶん」というオタクくさい一人称を使うわりに、何かのジャンルに精通しているわけでもなく、口数が多いわけでも、ツイッター弁慶なわけでもなかった。また、その言動は性差を明らかにするような表現や仕草を介さずに行われた。どちらかの性に寄せた行動を取っていた期間がある人間なら、癖付いてしまっていそうなものが。
「AirPodsってiPadに2個イヤホン接続できるんですよ。じぶん、2個持ってまして。あ、除菌スプレーあるんで、拭きますから」
酔っているようには見えなかった。たしかに風変りな申し出ではあったが、警戒すべき人間とも思えなかった。シヅルのほろ酔い加減では、一人を貫く不便より、音質の良いBluetoothイヤホンを使える実利にたやすく天秤が降りた。
「ああ、じゃ、どうぞ」
と腰を浮かしかけて、
「あ、酒も良かったら一緒に飲みますか?」
となぜか言っていた。初っ端から距離感をつかみそこねまくっていた。
「じぶん、酒は飲まない質なので。そしたらちょっとコーヒーだけ買ってきます」
「あっ、ポップコーンついでにお願いしてもいい?」
「了解です」
ふしぎと、映画の始めから終わりまで、居心地の悪さはなかった。ポップコーンを順繰りにつかみ出して口に入れる動作も、合間合間に酒/コーヒーを含む動作も、とくにぶつからずに98分の映画はエンドロールまで行き当たった。
「ふっ」
「なに?」
「いや、なんかこの映画を見知らぬ相手と観たの、おもしろいなと思って」
「夜桜の下で一人で観てたとしても、相当おもしろいチョイスだったでしょ」
「それはたしかにそうですね。逆になんだったら納得できるだろう」
「うーん。『パンダコパンダ』とか?」
「たしかに、キラキラしたファンタジー系のやつなら」
「まあ、そもそも、納得するしないって、誰がって話だけど。そもそも、今日は人目がとか、そういうのぶっ飛ばしにやってきたの」
シヅルは、酔っ払いらしく、こぶしを振り上げて宣言する。
「へえ」
「だから、自分が観たいと思った映画を、自分が食べたいもの、飲みたいものと一緒に、外のちょうど良い気温の、気分がよくなるとこで、でもなんか、周りががやがやしてたり、冷やかすようなひとが居なくて、安全が保たれるところでって思ってさ」
「それでここが選ばれたんですか」
「そうそう、歩いて帰れる範囲だし、花見スポットだけどほぼ地元民で、川辺は川辺でも、河川敷がのっぺり広い系の、人がはしゃぎがちな空間じゃない。秘密基地みたいだし」
「まあたしかに、秘密基地っぽさはあるかもですね。それで、ぶっ飛ばせたんですか?」
「まだまだだね」
「まだまだですか」
「そうですよ。えーっと、そうだ、名前すら知らなかったけど、あなた、あなたはぶっ飛ばし慣れていそう、そういうの」
「じぶん、涌田です。
「わたし? わたしねぇ……まあ、シヅルさんとでも呼んで。なんとなくカタカナのシヅルで居たい」
「はぁ」
「ラジオのハンドルネームみたいでしょ」
「なるほど全くわかりませんね」
「カタカナで書くと払いをピピピピっと書いてけばできるんだから。シヅルって」
「あーなるほど。シ・ヅ・ルか。それはたしかににいいな」
涌田は、空中に大きく書いてみて、納得の表情を見せた。
「たしかに、なんつーか、匿名って感じがしますね。記号っぽい?」
「そういうこと。で、なんだっけ。何か話の途中だった気がしてたけど」
「ああ、そうだ、ぶっ飛ばせる、ぶっ飛ばせない、って話ですよ」
「あーはいはい。本日の最重要議題ね。つまりさ、一人で何かを楽しむ日って、その感情を自分だけで受け止めて過ごしたいわけで。ところがだよ、なんとな~く、何観た、読んだ、食べたって投稿をして、みんなの反応を確認しちゃったり。あるいは、レストランに入る瞬間、一人なの別に気にしてません、ってアピールしたくて、ちょっと食い気味に一人です! って言っちゃうとか。負けてる気がするんだよね」
わたしたちは、息を吸うように見られている自分を捉えてる、今この瞬間が後からすれば郷愁をさそうってわかっててエモい、って言う、後のために、今を記録することに使いながら生きる。さいこう〜って歓声をあげながら撮った動画はその日のうちにインスタで閲覧がつく、気づいたら何気ない自分の様子が動画に収まって、SNSに載せられる、ひとの眼から自分がどう見えるか、自分のSNSでの振る舞いがどう見えているのかすら、省察して生きている。どこまでも自分に付き添ってくるその「眼」を跳ね返してしまいたい。シヅルが言いたかったのはそういうことだが、気持ちのすみずみまで行き渡ったことばで発話できるほど現状の厭さを捉えられているわけでもなかった。
「へー。そんなSNSやらないんで、わかんないな」
涌田は、袋の奥に残ったポップコーンのかけらを掻き出しながら、のんびりとそう言う。
「すてきなことだよ」
「そうでもないっすよ。流行ってるミームとか、表現? みたいなの追いつかないし」
「わかる。わたしもそういうのが嫌でどうしてもやめられない。ずーっと小さい画面見つめて深夜まで過ごしてしまった時とか、不甲斐なくて嫌になる」
「不甲斐ないんですか? 自分のやりたいことに時間使うのは別に良くないですか」
「いや、なんだろ、目の前の時間を殺すためにひたすら指を繰ってるだけ。まあテレビ優勢だった頃はクラスの子たちがキャイキャイ言ってるドラマのことわかんなくても平気だったし、べつに、いいんだろな、やってなくても。時間が余ってみても、本当にやりたいことに向き合えない自分と向き合うのが怖いから、逃げるために使ってるんだろうな」
「ああ、それはわかります。ほんとはじぶん、学生の間にもっと映画観ておきたいなって思ってたんですけど、全然観れてなくて。結局もう夜が遅いだの、途中で寝落ちしちゃうだので。じぶんは本当に映画が好きなのか? とか思って」
「ああ、涌田にもそういうことあるんだね」
「この数時間でじぶんを信頼しすぎじゃないですか」
「いやー涌田は偉いよ。すごい。ほんとうにすごい」
シヅルは、涌田のあり方に、まだそれのどこがということは言語化できないままに、一種の憧憬の念を抱いていた。
「うわー、なんかその言い方、今日聞いた中で一番酔っ払いっぽいですね」
ひひ、と笑う顔の半分はもうマスクに覆われていた。そして、
「宴もたけなわでございますが、じぶんはそろそろ」
と、尻切れトンボに腰もあげかけているのを、シヅルは慌てて、
「次! 一週間後、おんなじ曜日、おんなじ時間で、映画観よう。リクエストは?」
「『ベン・ハー』」
「一番長いやつ? この環境で観てたら腰か首が亡きものになるよ」
「亡きもの……たしかに。じゃあ『雨に唄えば』」
「長さはいいけどミュージカルはいい音響がほしい」
「だるいだるい、そんなこと言ってると映画観れなくなるんですよまじで」
「わかったわかった、実家の空き部屋シアター化計画済ませておくから、そこでやろう」
「ようわからんけど、それでいいなら喜んで。とりあえずここに一週間後ですね。じゃ、眠いんでまじで帰ります」
「引き留めてごめん! おやすみ」
ひょ、と片手をあげつつ、出てきた時と同じ唐突さで、涌田は去っていくのだった。
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