やっと秋らしい風の通り抜ける夜が来た。

永里茜

シヅル

 やっと秋らしい風の通り抜ける夜が来た。

 などと一丁前に言ってみるものの、シヅルはそこまで夏の盛りのくるしさに晒されなかった。仕事は一〇時から一八時までのリモートワーク、日の出る時間はほとんど庇の下。週末はともかく、平日と言えば退勤後に飲みに出るくらいで、せいぜいが太陽と入れ違うような過ごし方、今となってはすっかり電灯が点いた時間にしか遭わなかった。


 シヅルが涌田と出会ったのは桜が降る夜。小さな商店街の裏、川沿いに添うような桜並木から落ちる花びらはうすら白くて、ぬるっと流れる川のうえに模様をつくる。地元の人ばかりが行き交うこの町ならきっと、花見ができる、とシヅルはたくらんだのだ。店の前に即席の出店を並べたアーケード街にて、パックに詰められたギョウザを一つと、青椒肉絲を一つ。酒屋で日本酒ひと瓶。飲食が揃ったところで、河川に迫り出した階段に居を得て、持参したクッションを敷き、蛇腹のカップをぼこんぼこんと広げて酒を注ぎ、醤油パックを2個引きちぎってギョウザのうえにまんべんなく振りかける。実食! 心のなかで叫んでギョウザから取りかかった。詰められて少し時間が経ったギョウザは、少ししっとりとしていたものの、たっぷりと野菜と肉が詰められて、優しく口のなかに溶けていった。そのにかぶせるようにして日本酒を呷る。澄んだコメの味がきゅっと喉を通り抜ける。冷蔵庫の中身をまんべんなく消費するために作った料理ではなく、自分が食べたい! と思ったその瞬間の口にぴったりなものを選び取れる外食の、味覚が満たされる愉しみ。


 幸福の反復運動を繰り返しながら、墨色の水面沿いに敷かれたコンクリートの飛び石を進む子どもたちの会話を小耳に挟んで、照らされた青白い桜の木を仰ぎ見、そして、強い自意識がシヅルの動きを封じる。


一人で行動することに抵抗はないつもりでも、「一人で花見をしながら、きょろきょろとあたりを見回す女図」の異質感を勝手に想像して、誰に見られた自覚もないのに自分の行動を制限してしまう。跳ね返さねば。シヅルはそう思って、就活用に買ってすでにくたびれた、黒の凡庸な肩掛けバッグからタブレットを取り出した。必要なものはダウンロード済み。今夜は一人で花見晩酌をしながら映画を観る、それが目的にして目標だった。持参した小さな折り畳みイスをいそいそと広げ、画面の設置角度を調整する。やや、快適とは言えない角度で首を曲げ続けることにはなるが、それは次回以降の反省としよう。


いざ再生しようとして、はたと止まった。イヤホンがない。川は、住宅街に挟まれている。ここで音を垂れ流すのは気が引けた。そればっかりは、人の視線が集まったら恐縮すべき話になるはずだ。祈るような気持ちでカバンの中をあさる。こういう日に限って、普段使いのは充電したまま置き去り。根本からの計画転覆の予感に焦りながら、ふだん使わないポケットのほうまで、たんねんにあらためていった。


 あった。それはいつか、リモート面接用に慌てて買ったコンビニ産のイヤホンだった。くしゃりと押しつぶされた形にくせがついていて、広げてもいまいちびよんびよんしている。有線に身体の稼働領域まで奪われるおまけがついてしまったが、とにかく、計画遂行だ。気を取り直したシヅルは、満を持して右向き三角をタップした。

「あの~」

 振り返ると、フード付きパーカーにジーンズといういで立ちの人間が、恐縮、という文字通りに縮こまるようにして、こちらを見ていた。

「それ、じぶんも観ていいですか」

「え」

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