7
汗と脂と腐臭、そして独特の甘ったるい臭い。手入れのされていないマンションの一室。明かりのつかない電灯が放置されている部屋すらあった。剥がれた壁紙は放置され、正体のわからない液体でベタついた廊下。到底、外靴を脱ぐ気にはなれないような状態だった。
虚ろな眼で脱力した体を床へ横たえた人間の傍らに千葉恵吾はしゃがみこんでいた。ツヤツヤに磨かれて光沢のある千葉の革靴とは対照的に、部屋の床は埃が積もって傷が入っている。洒落たベストと清潔で豪奢なシャツを身につけている千葉の存在はまさしく場違いだった。部屋にはカビの生えた箇所もあり、至る所にゴミが散乱している。そのゴミの中に裏稼業では何度も目にしたことのある物体の残骸も発見し、たまらず溜め息を漏らした。
「――もう、ダメそうやな」
溜め息に反応して、その人物の瞳に僅かに光が宿る。力のない目だったが、千葉の顔を見ると少々驚いた表情を見せる。
「……お久しぶりですね……あなたは確か、千葉さん……」
唇を動かす体力も気力もなさそうなほど、その人物はゆっくりと言葉を紡ぐ。呼吸も浅く、息も絶え絶えといった様子だった。口内でもごもごと舌を動かしているため、ところどころ呂律も怪しい。
「久しぶりやな。というかそのやりとり、さっきもしたけど。でも、また正気に戻るとは驚きやな」
「もう正気でいるときの方が、珍しいですよ……正気のときの記憶すら、もはや……」
「そうみたいやな」
「……どうですか、今の私……流石のあなたでも、私のことを……バカだと、思うでしょう」
床に転がった人間は千葉を見上げながらゆっくりと笑顔を浮かべた。しかし顔の筋肉のどこかが反応していないのか、半分笑って半分驚いたままの歪な表情だった。千葉はその表情をじっと無表情で見つめ、そしてもう一度溜め息を吐き出す。
「それは自分自身の問題やろ……場当たり的に、感情的に生きてきた人生はどうやったんや。どう感じてるんや」
「……私としては、結構、理性的に……生きてきたつもり、なんですけどね……」
「理性的? 面白い冗談もあったもんやな」
「結果的にはやはり……自分の感情に従って、生きてきただけ、でしたね……だから……」
「『だから』?」
その発言の後に『だから』という言葉が続くとは思わず、千葉は鸚鵡返しをしてしまう。大きな茶色の瞳がスッと細められる。
床に横たわった人物は千葉のそんな表情の動きを見て、眩しく感じたのだろうか。目を瞑ってしまった。
「だから、あなたに私の感情的な生き方を肯定されたと感じて、救われたんですよ」
それまで力のない声で話していたはずがその言葉だけが急に明瞭に発せられて、千葉は目を見開く。そして床の上の人物に気取られぬように腰に差した拳銃へゆっくりと手を回した。
「――肯定した覚えはないけどな」
「……あなたは、そう言うだろうと、思ってました……私が勝手にそう、感じた、だけです」
再びその人物の呂律が怪しいものへ戻っていく。意識が急速に覚醒して、千葉への攻撃に発展する可能性も考えられたが、その警戒は取り越し苦労に終わりそうだった。しかし千葉は拳銃から手を離すことはなく会話を続ける。
「それは……幸せな人間やな」
「そうです、ね……私はしあわ、せ、な人間、なのか……も……」
言葉がどんどんと途切れていき、ついにその人物は沈黙した。
呼吸は細く浅く繰り返されている。しかし、もう会話はできない様子だった。
「どうだった、千葉」
「いちいち質問すんなや。さっきまでの会話、通信で全部聞いてたやろ」
千葉はタクシーの助手席に乗り込みながら、忌々しげに電子タバコの電源をつけてカートリッジを唇へ挟んだ。運転席で待機していたツナギ姿の恰幅のいい男は前髪で隠れていない方の左目で千葉を見ると、苦い表情を作る。
「……発狂したり静かになったり、典型的な末期症状だったな」
千葉と床の上に横たわっていた人物の会話を通信を通して聞いていたからこその表情だった。大半は千葉の言葉が通用せず、無意味な言葉と発声を繰り返し、床をのたうち回る音だけがスピーカーから聞こえていた。そして正気に戻ったかと思えばその状態は長く続かず、知りたい情報を聞き出せずに再び床をのたうち回る音がする。電子ドラッグに侵された人間が死の寸前を彷徨っている段階の症状そのものだった。
「もう数日のうちにまともに会話もできなくなるだろうな、アレは」
「あんな状態やと口割らせることもできんしなあ……他に情報ないかなと思って部屋も探り入れてみたけど、アイツ自身は末端な上に、意図的に上位組織の情報を排除してたみたいやわ。末端のわりに仕事だけはできるヤツやったみたいやな」
「薬物のために薬物の売人になっていたヤツが仕事ができるってのはおかしな話だな」
運転席の男もダッシュボードの上に置いていたケースからタバコを取り出すと火をつけて、溜め息と共に煙を吐き出す。
「まあ……結局知り合いに悟られずに殺しをやり遂げて、警察にも捕まらず、挙げ句の果てに気が狂ってるくせにヤクの出元まで隠しおおせた状態で死んでいくんやから、なかなかのヤツではあるな」
「死ぬかどうかは……」
「死ぬやろ。あんな状態の人間、もう何週間も生き延びられへん。ツナもわかってるやろ」
タクシーが停まっているのは古ぼけた団地の一角だった。都市開発がどんどんと進む中で、その団地だけが放棄されたように時代に取り残された場所だった。昼間というのに妙に静かで、死の手が忍び寄っているような感覚に陥るような場所だった。そんな薄暗い空気に構わず、千葉はタクシーの窓から大量の煙を吐き出し、隣に座る男を白々と見つめる。『ツナ』と呼ばれた男は唇をへの字に曲げるものの、千葉のごもっともな言葉を否定できずにいた。
「……そういえば、昔の客のようだったが、もう今は繋がりはなかったのか」
「あ? もしかして妙な勘繰り入れてるんか?」
「違う……単純に気になっただけだ」
「連絡なんかとってへん。仕事も一回引き受けただけの客や。顔見てもピンと来んかったし……名前呼ばれてやっと思い出したくらいやわ」
千葉の言動に不自然なところは一切なく、男は真実を語っているのだろうと『ツナ』も受け入れることができた。そして、不貞腐れたような顔でハンドルにもたれかかり、煙を吐き出す。
「そうか……はあ、中毒者とはなるべく関わり合いになりたくなかったのに、どうしてこんな仕事を……」
「ほんまそれ。こんなん、警察の仕事やわ……ヤクを捌いてる大元を探り当てろって……いくらPMCやからって警察の下請けしてるわけちゃうのにな」
「お前が東雲の依頼なんか引き受けるからだぞ。いい加減にしてくれ」
「いやあ、祥ちゃんにこの前ゲームで負けてもうたからそれで……」
「それをいい加減にしろと言っているんだ。巻き込まれるのは俺だぞ」
運転席に座る男はフィルターの間際まで吸ったタバコを車載灰皿へ乱暴に押し付けて火種を消す。そして左腕につけたナノマシンデバイスを操作すると車のエンジンを起動させた。
ふたりの男を乗せたタクシーは緩やかに発進すると静けさに包まれた団地を後にする。
真実は死神の手に覆われたまま、床の上の人物が物語ることもない。
<完>
隠し事 AZUMA Tomo @tomo_azuma
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