第41話 病める時も健やかなる時も

「お察しかと思いますが、殿下は……お母様に愛されたことがおありではありません。王妃様がゴットフリート殿下を御懐妊なさった折、孤閨に悩まれた国王陛下は、王妃様の勘をこうむり国外追放の憂き目にあっていた寵姫を呼び戻されました。国王陛下が寵姫を派手に寵愛なさるかたわら、王妃様はひどくお苦しみになられました。そんな王妃様に生まれたお子様を愛する心の余裕などなく、——そのまま」

「……そんな」


 国王に寵姫がいたとは意外だった。

 いや、——とアガーテは記憶を辿る。

 まだ少女だった時期、王宮の舞踏会に参じた母子爵夫人の口から、興奮気味に、国王陛下の隣にとんでもない美女がいたらしいわよ! と聞いたことがある……気がする。母からのたわいもないただの噂話だったので、すっかり忘れてしまっていた。


「で、でも、お生みになったお子様でしょう、すぐに愛おしむ心がお生まれに」

「なりませんでした。王妃陛下にはその余裕がおありでないのです。もちろん、お伺いすれば、愛しているとお答えになりましょう。でも、忘れるともなく忘れておられる。殿下がご病気になられても、ご下問があるのは国王陛下からのみ。王妃陛下は何も——……」


 ——なんてひどい。


 アガーテは、子を生まれる前に失ったからこそ、王妃のその行動の真意を掴みかねていた。


「その寵姫とはどのような方なのです? とんでもなく底意地の悪い女で、王妃様をいじめたとか……」


 マルタは首を横に振る。


「一度、国王陛下の女官をしていたときにお目にかかったことがございます。濃い色の髪が印象的な、とんでもなく玲瓏とした美貌の、可憐な印象のお方でした。亡きシュレンドルフ大公殿下ゆかりのお嬢様だったそうで。逆に王妃陛下からことあるごとに責め苛まれて、それが不憫だと国王陛下の御心に火をつけられたらしく……」 


 シュレンドルフ大公とは国王の叔父のことだ。随分と昔に亡くなっている。


「そのお方は今でも生きておられるのですか?」

「おそらく。国王陛下のおすすめで、どこかの貴族にようですから。たしか十年ほど前。済んだことです。なのにお子様に目を向けられない。王妃様は過去に囚われておいでなのです……!」


 だとすれば同年代で、知り合いにいるはずだが、とアガーテはぼんやり考えた。


 ただ、世間は広い。


 どうして王妃の勘気を蒙って国外追放に処されたというのに、のこのこ戻ってきてしまったのだろう。そして、どうしてまた国王の寵愛を受け入れて、王妃の機嫌を損ねるような立ち振る舞いをしたのだろう。

 のせいでゴットフリートは母親から愛される機会を失った。


 ——あんまりにひどいじゃあないの。


 ことなど気づきもしないアガーテは、寵姫にもどかしい感情を抱いていた。


「どうか、殿下を哀れと思し召して、一目お逢いになっていただけませぬか」


 アガーテは、マルタの言葉に、何もいうことができなかった。



 気づけば満天の星空が広がっている。

 身支度を整え、マルタの言うままに指輪をつけて馬車に乗り込んでいた。

 用意された場所は、祭りの後の、雨上がりのうら寂しい林であった。誰もいない。

 アガーテは馬車から降りると、情事の場所が林であるということに息を飲んだ。どういうことなのだろう。

 逡巡していると、足音がする。振り向くと、王子が立っていた。


 しばらく会わないうちに、王子は信じられないほど大人になっていた。

 どこかかげを宿したその美貌は、アガーテの心をざわめかせる。


 彼はただ、静謐せいひつな笑みを浮かべていた。木の枝の隙間から月光が差し込み、彼の白い顔に神聖さえ感じさせる光が降り注いでいる。


 ゴットフリートはアガーテの頬に手を当て、何も言わずに静かに唇を重ねてきた。

 ゆっくりと、しっかりと抱きしめられた。


「貴女に謝罪しなければならない」

「……は、あ」

「貴女にずっと無体を強いていた。貴女の気持ちを聞いていなかった。本当に申し訳なかったと思う」


 ふと、首筋に涙を感じた。ゴットフリートが泣いていた。


「……殿下?」

「僕は、愚かだったんだ」


 アガーテは優しくゴットフリートの頭を撫でた。何を言える訳でもなかった。それを言えば、アガーテも愚かだ。ほだされて。こんなところまで来て。また王子に逢ってしまって。


 王子に抱く感情が同情なのか愛情なのかわからない。だが、目の前にいる真摯しんしな青年を——自分の年下の美しい愛人を、可愛いと感じる気持ちは疑いようがなかった。


「謝ってくださるのね」


 アガーテはふんわりと笑った。ゴットフリートはそれを見て、頬を染めてぼうっとした顔をする。

 優しく、唇を貪ってあげた。舌を滑り込ませて絡ませる。王子はそれだけで、紫の瞳から理性をなくした。

 彼はアガーテの襟ぐりから覗く豊満な胸の谷間に手を伸ばし、谷間の中に指を入れた。


「だめ。お外だから」


 ゴットフリートの手を優しく遮る。彼は不満げな顔をした。アガーテは愛人の頬を優しく撫でた。


「女たらしなこと以外は、ずっとそのままでいらしてね。あなたはこの国を支えるお方なのですから」


 ゴットフリートは素直に頷いた。——未来、彼女の意に随分と外れた人間になってしまうが。


「貴女が側にいてくれるな……」


 もう一度、アガーテは彼に口づけた。


「それはできません。あなたはお妃様をお迎えになって、ね?」

「妃など迎えない。妃であるなら貴女がいい」

「まあ、ご冗談を」


 魔性の女は王子の真摯しんしな言葉を笑った。王子は女の胸に顔を埋める。それには女は抵抗せず、優しく彼を包み込んだ。


「僕は本気で言っているんだ、アガーテ」


 王子は頬を膨らませた。


「あの紫水晶の指輪は、僕の婚約者に渡すつもりで作らせたんだ」


 アガーテの指に紫水晶の指輪がはまっているのをゴットフリートは見てとると、「その指じゃない」と指輪を外した。右手の薬指に指輪をはめ直してくる。

 アガーテはエリアスとの結婚指輪の上にはめられた指輪を、まじまじと見つめた。


 その様子に、ゴットフリートが笑う。


「エッテが、この指輪を貴女たち夫婦がうまくいくようになどと抜かして、僕に作らせた。僕は嫌だった」

「殿下、それはジークマリンゲン大公女殿下にあまりな物言い——」

「夫婦がうまくいってほしくない。貴女は僕のものだからだ。僕の妻になるからだ」


 王子は鮮やかに、幸福そうに笑う。


「僕と本当の夫婦になろう。アガーテ。病める時も健やかなる時も、貴女一人を想おう」

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