第35話 姉との会話(2)

「グラスに溜めた涙の水?」


 かたい性格の弟からの問いに、ドロテアは眉を下げ、悲しそうな顔をした。会ったことのない女性に心を寄せるように。


「大人になればなるほど、泣けなくなって、心のグラスに涙をためておくの。普通ならそのまま干上がってしまったり、美しいものや楽しいものを見たり聞いたりして流せてしまうものだけれど、そうでない時もあるの。涙が溜まりに溜まって、グラスがいっぱいになってしまったら——」


 アガーテもそうだったのだろう。さまざまなことに悩み、苦しみ、疲れていた。

 でも、泣いてばかりいたのはゴットフリートのほうで、彼女の泣き顔をほとんど見たことがない。


「受け止めて差し上げる存在が必要だわ。それがその方にとってのあなたになったら、どれだけ素敵かしら。姉としても誇らしいわ」


 ゴットフリートは頬を赤らめた。

 ドロテアはいたずらを思いついたように微笑んだ。


「それにしても、あなたに愛する人が出来るなんて」

「……」

「どんな方なの? 弟は堅くて真面目で重いから、あなたをさらに傷つけるかもしれませんよ、って御忠告しないと」

「堅くて真面目で重いって……!」


 ゴットフリートはぴくりと形の良い眉を跳ね上げた。姉は声を立てて笑う。


「そうじゃない? すべて彼女のことは把握しておきたいでしょう? 彼女は、あなたの前で嘘はつけないわね」


 否定できない。


「……美しい人です。本当に美しい。声が柔らかくて好きで、人柄も慎ましやかで……」

「まあ、べた惚れね。わたくしの存じ上げる方かしら?」


 名前を言いかける前に、ためらった。人妻に恋をしている、と姉に伝えることができない。兄は人妻だろうと何だろうと御構い無しに手を出して大騒ぎしているというのに。


 ——僕は心底後ろめたいんだ。アガーテに対する恋情が。姉上にお話しすることができない。なんでもかんでもお話しできたのに。彼女を救うと騒いでいながら、彼女との関係の正当性を最も疑っていたのが僕だったとは……!


 がさがさ、という音がした。

 姉はびくりと大きく身体を震わす。何か緊張している面持ちで、弟はすぐに愛しい姉の繊細な手を握りしめた。ひどく汗ばんでいて、冷たかった。


「……誰?」

「私です」


 過呼吸まで起こしかけていた姉は、そのゆったりした声に、ひどく力が抜けた。男がこちらにやってくる。姉の夫、老ラインフェルデン公爵だった。確かに老いてはいるが、人格に余裕があり、思慮深そうな人物であった。


 ドロテアは「おじさま」と、夫に飛びつく。


「第二王子殿下と愉快そうにお話されていて、安心いたしました」

「ええ。ゴットフリートはいい子よ」

「帰りましょう。そろそろお茶の時間です」

「もうそんな時間? ゴットフリートとまだお話ししていてはだめかしら」

「もちろんよろしゅうございますが、冷えましょう。殿下もご一緒に中でお茶でも」

「そうだな。そうしましょう、姉上」


 ラインフェルデン公爵家の侍女がドロテアを引き取り、彼女を室内へと避難させるように連れて行った。何か不審があったのだろうかと、姉の夫をゴットフリートは見る。老公爵は声を落とした。


「……王太子殿下がお戻りになり、ドロテア殿下を探しておいでです。用がある、とおっしゃって」


 それはよくない。ゴットフリートは事情がわからないながらも理解した。

 姉は嫁ぐ前、心底慕う兄に理不尽な理由でひどく暴力を振るわれたことがきっかけで、魂が壊れてしまった。

 一時的に激昂げっこうしただけなのだろうし、兄はさすがにもう暴力を振るわないだろうが、姉にとって兄は怪物のようにみえてしまっているかもしれない。


「承知した。兄上がいらしたら、姉上とは今日はお話ししていないとお答えしておく」


 申し訳ございません、と老公爵は頭を下げる。ゴットフリートは、お構いなく、と鷹揚おうように首を横に振った。


 しばらくして、ゆるゆると姉の後を追いかけようとすると、兄が現れた。

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