第二部 十七歳/二十九歳
第6章 清めの儀式
第28話 わたくしは刺繍がございますもの
すうーっ、すうーっ、という音が耳に響いた。
目をゆっくり覚ますと、女の膝の上だとわかる。
女の膝の上、とゴットフリートは眉根をひそめる。自分に不埒な行為をしている女官でもいるのか、と思い、ゆっくり顔を動かすと、黒髪の、
自分がもぞもぞと動いたせいか、女がどこかに刺繍枠を置いた。女の指が自分の頭に伸びてきて、優しくつむじを撫でてくる。
「お目覚めですか」
優しくしっとりした声に、ゴットフリートは自分が今どこにいて、誰と何をしているのか思い出した。何より愛おしいアガーテと、離宮で静養をしているのだ。自分は軽い暑気あたり、アガーテは、——心身ともに疲れ切ってしまって。
ゴットフリートがあのとき無理にでも救わなければ、彼女はこうして穏やかに刺繍をしていることもなかっただろう。
「ああ」
ゴットフリートは微笑んだ。
もうすぐ誕生祝賀の行事があり、それを話し合うために王宮の使者が来た。
王宮の使者と話をするのは骨が折れた。
疲れたので、廊下の片隅で刺繍をしているアガーテを呼び、居間のソファでたわいもない話をした。その話の最中から先の記憶がない。
横向きのまま、アガーテの膝に頭を乗せてぼんやりしていると、なよやかな手が、ゴットフリートの肩から腰にかけてを優しく愛撫してきた。ブランケットをかけられている事に気づく。
「かなり、お疲れなのではありませんか?」
「確かに疲れているかもしれんな」
「王宮にお戻りになられるのでしょう」
「ああ。一、二週間のうちには。これ以上引き延ばせないらしい」
「引き伸ばしておいでだったのですか」
アガーテは驚いたかのような声をあげた。ゴットフリートは笑んだ。
「
「殿下」
「……というわけではない。姉上が祝賀に出られるかもしれない。出られはせずとも、挨拶に見えられる。姉上のご様子がよろしくなるのを待っていた」
「ドロテア王女殿下は……」
「万全というわけではないが、出られないわけではない、……とのことだ」
ゴットフリートは起き上がり、あくびをした。女は優しく微笑んだ。
「姉上とお会いになれるとよろしゅうございますね」
少年は、その言葉に、たとえ人の妻であっても、彼女を恋人にして良かったと、思った。
父母の関係は冷たかった。表面上は仲がいい。だが、どこがどう、というわけではないが、非常に冷たかった。母が止めるので、ゴットフリートはなかなか父に会えなかった。だが、母からは基本的に構ってもらえず、兄は側から見ている自分が目を回すほど多忙だった。
姉しかゴットフリートを見てくれなかった。姉はゴットフリートより兄のほうに重点を置いていたが、でも、それでも良かった。
そんな姉と会えればいいなどと、誰かに言われたのは初めてだった。
孤独な王子は、愛人の
「……っ」
今が昼過ぎだということも忘れて、ゴットフリートはアガーテに溺れてしまう。
アガーテは夏用の薄手のブラウスに長いバッスルスカートといった格好だった。ブラウスの
「……殿下、お昼でございますから」
咎める声を聞かずに、ふくよかな乳房にくちづけた。乳房を口に含んで吸うと、ほのかに甘い乳が口腔を満たす。アガーテの腹の子のものだった乳を横取りしているような気分になるが、それでも止められない。それに彼女の翡翠色の瞳が最も優しくなるのは、この愛撫を与えている瞬間だ。女は自分の頭に手を伸ばし、優しく抱きかかえて、そっと撫でた。
それが
乳を貪った後、その渓谷にくちづけ、スカートをゆっくりと下ろしながら、肋骨の浮かび出ている
「……あぁ」
いけません、殿下、という女の声は
「確かによくはないな」
アガーテから身体を離す。昼間から女を抱くなど確かに堕落の極みだろう。自分は第二王子、国王や王太子の支えとなるべき存在。女とこのような堕落に耽っていてはいけない。
だというのに、アガーテはゴットフリートを後ろから抱きしめてきた。むき出しのふくよかな胸が、なよやかな太ももが、身体に当たる。脳髄が蕩けだしそうになる。
うっとりと息を吐きながら振り向くと、女が鮮やかに微笑んでいた。
「ですわ。そろそろアフタヌーンティーのお時間でございます。今日は
「貴女は?」
「わたくしは刺繍がございますもの」
アガーテは最近、本当に控えめに過ごしている。
最初は自分の強いすすめで顔を見せていたアフタヌーンティーにさえ出ない。
ゴットフリートとしては、人の妻である
彼女の人格の素晴らしさと自分たちの関係の正当性を周囲に知らしめ、足固めをしておきたいのだが。
彼女は何故かそれを避ける。
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