第27話 悲恋、という言葉が似合う

 家に医者を連れて帰ると、祖母は少しだけ熱を出していた。医者曰く、しばらくすれば熱も引くでしょう、今のところは大丈夫だが、何があるかわからない年齢ですから、と言った。

 その瞬間、彼はうずくまって床に倒れこんだ。母が悲鳴をあげて抱え起こした。彼のほうが、祖母より高い熱を出していた。


 熱にうなされているあいだ、王太子妃に、この貧乏人が、と石を投げられ、血の涙を流す夢を見た。


 王太子は高熱で苦しむ、病める愛妾を王宮の離れに連れて行った。国一の名医を呼び、手ずから薬を飲ませ、懇切丁寧に看病した。汗にまみれた栗色の長い髪が寝台の白いシーツに波打っている様子さえ絵になる少年は、息をひどく喘がせていた。

 煙水晶スモーキークォーツのような瞳に涙をためて、王太子の裾を握る。


「殿下、いやじゃない? ……かんびょう」

「何を言っているんだ?」

「お妃さまのつわりのときはいやだったでしょう? いやだったらかえる」


 その切々とした訴えに、王太子はハッとした表情をした。少年の細く華奢な手を優しく握りしめる。


「……ごめん。ごめんね。あの物言いは、お前をも傷つけていたね。虚像を演じるのは、たまにひどく疲れることがあって、あんなことを言ってしまったんだ」

「……きょぞう?」

「……そうだね……、これから執務があるから、夜、ゆっくり話そう」


 日が没し、ただ深い紺色の板に、金剛石ダイヤモンドと水晶を砕いて散らしたかのような星空が窓の外へ映ったその夜のこと。

 王太子は真実を口にした。少年は少しだけ熱が引いていた。


「妃は悪い人間じゃない。真面目だし、賢いし、気品があるし、思いやりが深い。……美人だしね」


 そういって王太子は肩をすくめて、冗談めかして小さく笑った。だがその表情はすぐに悲哀に変わる。


「私などには過分な妃だ。私は彼女を一目見たときから好きになった。子供も愛おしい。けれど、……頑張り過ぎてしまったのかなあ」


 少年は、苦しげに告白をする王太子の腕を、おずおずと撫でた。


「帝国の皇女。教養深く気高く人格も麗しい美貌の姫君。薔薇や百合の如き姫君。だから、私は彼女の騎士であらねばならなかった」


 いつもは少年を包み込んでくれる青年がひどくはかなげで、夜の闇にかき消えてしまいそうにみえた。


「理想の夫を演じすぎた。優しくてききわけがよくて物分かりがよく、彼女のいうことを何でも聞く。気づけば自分が消えていた。自分の好きだったものが、——歌劇や絵画や数学やなにもかもを——、まったく思い出せなくなっていた。妃は私のことを全く知らない。小さい頃、クリスタル・ガラスの花瓶で手を切ったことがあってね。それ以来クリスタル・ガラスの花瓶は苦手なんだけれど、そんな些細なことも打ち明けられない」


 王太子はひどく疲れたようなため息をつき、少年の横に身体をすべりこませた。


「子供が産まれれば夫婦のずれは解消されるという。私は期待した。子供が出来れば彼女と私はなんのわだかまりもなく本性をさらけ出せると。彼女も私と同じで、気高い妻を演じているだけなのだろう、と。懐妊したと聞いて、希望に湧いた。今度こそ妻と打ち解けられる。子供と妻と、どんなことをしよう、きっと自分たち夫婦は幸せになる、と。でも私がそう感じているだけだった。彼女は何も演技などしていなかった。そして、彼女にとっては優しくて完璧な虚像の私こそ、私なのだった。私は彼女から虚像を愛されるのみ。悲しいというか、虚無というか。私たちは、もう一生、終わるどころか、んだ、と気づいた。私の愛した女性は私に振り向いてくれなかった、というわけだ。片恋が終わった。ま、よくある話だよ」


 青年は自嘲するように笑った。悲恋、という言葉が少年の脳裏に浮かんだ。


「そんななかでエリアスを知った。私の絶望と閉塞感に、窓を開け、風を入れてくれた」


 頭をぽん、と撫でられた。


「看病させてくれ。お願いだ。もう寝なさい。私が添い寝しているから、苦しかったり変な夢を見たら、私にいいなさい」


 少年は頷いた。夫婦とは奇怪なものだと思いながら、目をとろんと閉じた。




 自分のは、ただの疲れからくる風邪だったようだが、祖母の病状は一進一退だった。

 ため息をつきながら王家の図書室を後にし、帰途につこうとしていると、冷たげな顔の女官が呼び止めてきた。

 その後をついていくと、見たこともない豪華な部屋に通された。王太子との情事に使っている部屋よりも贅美を極めていた。


 目をぱちくりさせていると、数日前に見た美しい王太子妃が入ってきた。血が出そうなほど唇を噛みながら、自分を睨んでいる。


 ああ、と少年はうつむいた。やってしまった。薔薇園など覗かなければよかった。


「……見つからないわけだ。男だったのだから」


 王太子妃は少年の側につかつかとやってきて、髪を結んでいたリボンを強引に解いた。

 そこに現れたのは、王太子の心を奪った美少女であった。

 あおい目が、小さな少年の大きな秘密を暴こうとする。


「そなた、亡きレーヴェンタール伯爵の遺児よなあ?」

「……はい」

「死んだ祖父が先王陛下の閨に入り浸り、巧言令色をもって晩節を汚させた不遜な男だったことと、死んだ父親が亡き王弟殿下をはじめ、様々な貴族と関係をもつ娼婦のようなけがれた男だったことは知っておろう?」

「……祖母から聞きました」

「ときにそなた、なぜ王室の図書室へ出入りしておる。我が女官が見ておってなあ」

「……おゆるしをたまわって……」

「そなたのような尻や股でのし上がったきたならしい一族の息子に、神聖なる王室の図書室の鍵を貸し出した痴れ者はわたくしの夫か?」

「……」


 妃の剣幕にうつむいた。震えが止まらなくなる。少年は姿はまるで可憐で楚々たるすみれの姫のようだった。

 美しいとはいえ可憐さに欠ける薔薇か百合のごとき王太子妃は息を荒げ、ひどく肩を上下させた。嫉妬のあまり。愛おしかった優しい夫は、本当はこういう「女」が好きだったのか、と思っているかのようだった。

 初めて知ったらしい嫉妬の激しい痛みに耐えかねたのか、涙を浮かべて、王太子妃は闇に堕ち、年端もいかない少年をいたぶった。


「我が殿下に罪を犯させたのか、貴様が誘惑して! 子供のくせに!」


 なんでそのような物言いをされなければならないのだろう。少年はとうとう、煙水晶の瞳から涙が零れた。

 髪を掴まれて引き倒され、腹を思いっきり蹴られた。妃の女官たちがけざやかに笑う。


「この女男が。二度と我が殿下の不実と淫蕩を煽るでない! 肥溜めにでもいろ! ああ、気持ち悪い、女装好きの変態の下衆が!!」 


 その先のことが、記憶から飛んだ。ただ恐怖と震えと痛みしか覚えていない。


 どのくらい時間が経ったのかも。


 通りすがりの侍従がその様を見つけて助けを求めて叫び声をあげた。髪を振り乱し、らしからぬ侮辱的で下品な言葉を吐いて暴れる王太子妃は、別の侍従たちが別室へ連れて行った。


 茫然とした表情の王太子が息を切らせてやってきて、「エリアス……?」と少年を抱き上げた時、少年はごぶりと血を吐いた。

 唇も口の中も切っていて、血まみれの口元を白い布で拭われた。

 王太子が狂い笑う声が聞こえた。

 

「……そうか。そうだったのか、……無力な子供に野蛮な行動をする女だったのだな。私はあれを一生愛さない。愛そうと思ったことが間違っていたのだ。離縁させてくれと父君——国王陛下に訴えてしまおうか」


 少年は、「それはだめ」とつぶやいて気を失った。



 王太子妃の行いは産後の錯乱ということにされて秘匿された。女官たちは何人か解雇された。

 一ヶ月ほど生死の縁を彷徨さまよった少年は静養がてら、顔も知らない祖父のいるローゼンキルヒェンへ母と赴くことになった。身体の弱い祖母は本家の伯父に引き取られた。


 少年は、母と祖母以外の女を、極度に怖がるようになっていた。慣れ親しんだ使用人ですら。


 王太子に最後暇乞いをするとき、美しく男装した少年は彼に願った。


「殿下、おねがいが」

 

 少年を離したくないのか、夫婦関係が決定的に破綻したためか。王太子は不機嫌そうだった。

  

「何」


 その冷たい声を包み込むかのように、少年は笑顔になる。

 

「ぼくの肖像画を描いてください」

「……?」

「ぼくはこれからローゼンキルヒェンで頑張って勉強します。殿下がぼくの肖像画を見ていると思うと安心します」

「何を馬鹿なことを——」


 手を伸ばす王太子をかわすように、少年は遠ざかった。


 少年は鮮やかに少女となり、その肖像画は国でも有数の肖像画家が描いた。王太子は妻の目を避け、絵画好きの妹にその肖像画を預け、足繁く妹の別荘の画廊へ通った。



 少年は文雅の国といわれるローゼンキルヒェンで四年間を過ごし、祖父の死とともに母と共に帰ってきた。

 王太子は即位していた。国王と王妃の関係はで、第一王子が生まれた二年後に第一王女が生まれ、そして、今また王妃の懐妊が明らかになっていた。


 そして少年は、祖父の残してくれた遺産を継ぎ、明るく社交的で人好きのする、美貌の青年になっていた。

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