第26話 薄暗いこと

 明るく素直で機転が利いて気立てが良く、可愛らしい容姿をした少年は周囲から愛されやすい気質だった。王室の図書室を管理する番人や司書たちは気さくに話しかけた。図書館に出入りする、王立の研究機関の偉い研究者さえ。


 ——エリアス、今日は何の本を読みに来たんだい? 

 とか。

 ——ちょっと話を聞いてやってくれ、新入りがローゼンキルヒェンの人間なんだけど、お前の母親もそうだろ? 

 とか。

 ——その事象に興味があるなら、この本を読みなさい、エリアス君。

 とか。


 奉仕の代償としての政治学者の講義から帰って復習していたある日、「そういえばさあ」、と、司書が少年に言った。


「王太子殿下が、妃殿下の懐妊中なのに浮気してるだろ?」


 司書の言葉に、少しだけ緊張の糸が張る。驚いた表情を作った。


「う……うわき!?」

「もう修羅場よ、修羅場。王太子妃殿下が浮気をかぎつけちまって」

「あれは、王太子殿下も隠すのが下手っていうかさあ〜、もっとこう、上手にやるべきだよな……。俺なら自分ん家に連れ込んだりしない。自分ん家っていっても王宮なんだけどよ」


 そういうふうに門番が割り込んでくる。司書が門番の肩を繰り返し叩きながら爆笑しだした。


「妃殿下が王太子殿下にハサミ持って詰め寄ったとか聞くぞ!? あっひゃっひゃ!!」


 その騒ぎに、静かに本を読んでいたはずの王立アカデミーの学者が割り込んできた。


「やめなさい、お前たち。エリアス君はまだ十二だ。子供のを妨げるんじゃない。しかも、なんだかんだでエリアス君は子供とはいえ伯爵、我々の中で一番身分が高いですからね。節度を持って話すように……で、王太子殿下はどうなられた?」


 そういえばさっき会った時、頬に切り傷があって、どうしたのかと聞いたら笑ってはぐらかされたな、と少年は思った。妻にハサミを投げつけられて出来た傷だとは言いにくかっただろう。


「王太子妃殿下が目の色変えてその浮気相手の絶世の美少女を探してるそうだ」


 門番が笑いながらいった。


「……え?」


 まずい、と少年は本能が騒ぐ。

 

 「どんな子なんですか?」


 ためしに、彼らにどのくらいの事実が知れ渡っているのか聞いてみる。


「なんだ? エリアスは絶世の美少女に興味津々か? さあ。先ごろ亡くなられた王弟殿下ゆかりの少女としか。年齢も容姿もわからない」


 王室の図書館にいる連中にはこちらが流した情報しか伝わっていない、となると、王太子妃は年齢や容姿の推測はできても寵姫本人にはたどり着いていない、と見るべきだろう。実際、自分は何も危害を加えられていない、今のところ。

 だが、自分のできることは限られている。下手に動いたらすべてがばれる——。


 有力で安全な情報源があるじゃないか、と思った少年は、ある夜、王太子の膝の上に座った。悲しげに。主人が事情を聞く前に、そっと唇を重ねた。


「もし、お妃さまから僕のことを聞かれるようなことがあったら、僕は死んでいると伝えてください」


 王太子は目を見開いた。優しく、だが焦燥の表情を浮かべて、少年の波打つ栗色の髪を撫でてくる。


「……妃の噂を聞いたのか?」


 少年はうつむいたままだった。王太子は寵愛する美童の小さく形の良い頭を抱き寄せる。


「何があった? 答えなさい」

「殿下はぼくと不実をはたらいているのでしょうか。それはよくない……」


 美しい灰色の瞳から、水晶や金剛石のごとき涙がぽろぽろとこぼれていく。すると、王太子は血相を変えた。


「妃に会ったのか? お前も何か言われたんだね」


 なるほど、と少年は得た情報を分析しながら、「何も」と男のしっかりした胸板のなかで大きく首を横に振った。

 王太子は王太子妃から責められている。だが、妃は夫を責めることが優先事項であり、自分の正体を探すほどの心の余裕はない。けれど、冷静さをなくした人間が何をするかわからない。


 顔をあげてにっこりと微笑んだ。


「大丈夫です、殿下。ぼくはこのとおり元気ですから」


 王太子が少年の腰を撫でる。冷えた体が温まり、とても安心する。しかし、その耳に囁く声音は、もちろん自分に向けたものではないが、珍しくも厳冬のようだった。


「お前には指一本触れさせない。妃であっても」


 物静かで声を荒立てることのない彼がこんな声を出すのは少し困惑する。だが、言質は取っておくに越したことはなかった。


 だというのに、少年は馬鹿なことをしてしまったのだ。


  王太子妃が王子を出産した少し後。

 使用人に手を貸さずに階段をのぼった祖母が、すべって腰を痛めた。知らせをもらって、急いで少年は勉強を切り上げて家に戻ることにした。

 少年と一緒に血相を変えてくれたほど親切な、王室の図書室の門番が、近道を教えてくれた。


「ここからなら、西翼の裏道を通っていけば西門に着く。外出する使用人に周りに紛れてこっそり出れば、お前の家は目と鼻の先だ。医者の家も近い」

「あ、そうですね」

「ただ、西翼は王子女の住まいだ。王太子殿下や王女殿下に失礼のないように。見つかったからって、伯爵さまだし子供だからなんとかなると思うが、こっそり、こっそりいくんだぞ。庭園の隅を抜けてって」

「はいっ!」


 たぶん大丈夫だ、と門番は肩を叩いてくれた。


「腰痛で死んだ人なんていないから」


 気休めに過ぎないことはわかっていた。祖母は高齢、骨折しやすく、さらに骨折が命取りになる年齢だ。

 少年は門番に言われた通り、急いで西翼を通った。


 だが、門番の言いつけに背いて、庭園の隅からふと、中に入ってしまった。——王太子の影が見えたからだ。心の不安をぶちまけて、頭を撫でてもらいたくてたまらなかった。大丈夫だと言って欲しくてたまらなかった。そうすれば、少し頑張れる気がした。


 その誘惑に、少しだけ追いかけていくと、薔薇園にたどり着いた。秋薔薇の香気が鼻腔を満たす。


 薔薇園のなかで、王太子は用意された椅子に座った。物静かな笑顔を浮かべて。その隣には金糸のように流れるさらさらした髪で青い瞳の、気高く美しい王太子妃がいた。彼女は生まれた子を抱いて幸福そうに笑んでいた。

 王太子妃は腕のなかの第一王子をあやしていた。周囲には女官がたくさん控えている。

 子供を乳母に預けると、王太子妃は王太子に美しいクリスタルガラスの花瓶を差し出した。


「殿下、これはわたくしの祖母が作らせました花瓶ですの。祖母が是非、殿下にと」

「……感謝致します、我が妃」


 王太子の穏やかで端正な声が——少年に向けた事のないような、折り目正しい声が、響いた。

 なぜか、そのやりとりがどうしてか少年の心にナイフのように刺さった。


 

 ——お妃さまのおばあさまは、まだお元気なんだ。


 まだ南の国の皇帝である父が健在な王太子妃は、父を亡くす悲しみを知らない。困窮の恐怖を知らない。祖母や母を食わせるために生きてはいない。なんの苦労も知らない。

 祖父や父や自分のように、高貴な人に身体を捧げなければ生きていけないという薄暗さも持ち合わせない。


 ——薄暗いこと。


 少年はうすうすわかっていた。自分は薄暗いことをしているのだと。身体で貴人に取り入って願いをかなえているのだと。

 けれど、そうでもしなければ自分と母と祖母とでどう生きていき、どう学べばいいのだろう。


 王太子妃はなんでも持っている。少年なんかと比べ物にならないくらい何でも。その上、自分から目が逸れた夫の不実を声高になじることができるほど、後ろめたいという感情なく正義の化身となれる。薄暗いことなど何一つもしたことがないのだ。


 ——ぼくは十二年しか生きてないのに、薄暗いことばかりしている。


 泣き叫びそうになったとき、うっかり王太子と目が合ってしまった。彼は目を見開くと、「……どうしてこんなところに」と呟いた。王太子妃はそれを見逃さなかった。


 いけない、と涙を拭って少年は身をひるがえし、急いで門番のいうとおりの道へ逃げていった。

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