幕間 妃妾争い Ⅰ

第23話 幸運な少年か、生贄か

 父のやせ細って真っ白になり、どんどんと硬直していく手を見た。


 少年は、ちちうえ、と呆然としていた。隣国のローゼンキルヒェンからわざわざ嫁いできた母は自分にすがって泣いていた。祖母も。

 父の伯父にあたる、ふくよかな本家の伯父がこまごまといろんなことを周囲に差配していた。


 たった十やそこらで少年は父を亡くした。


 ——どうやって生きていったらいいというの。


 父の遺言通り、脇目も振らず、、勉強して役人になればいいとはわかっていた。

 けれど、自分は幼くて、まだ大学にも入れる年齢ではない。

 公爵たる本家の伯父は分家の跡取りである少年が伯爵位を継げるよう取り計らってくれた。だが、昨今、王家は貴族同士の財産の行き来を取り締まっているため、日常の細々した面倒くらいしか見ることができない。

 父の残してくれたいくばくかの遺産を食いつないでいくしかない。


 使用人を大勢解雇せざるを得なくなった。

 母は自ら毎日帳簿をつけ、よく机の上で眠りに落ちた。その細い肩に毛糸のショールをかける。

 めっきり足腰の弱っていた祖母に自分で肩を貸し、祖母の部屋から居間へと連れていく。


 ふたりから、


 ——悪いわね、エリアス。


 そういわれるたびに、「だいじょうぶ」と返しながらも心が少しずつ不安に苛まれていった。


 ——最近足腰がめっきり弱くなられたお祖母様と、外国から来て僕を生んでもまだこの国に慣れない母上と、ぼくで、大学に入れるまで、どうやって生きていったらいいというの。


 顔を見たこともない母の父——母方の祖父が心配して、少年たちをローゼンキルヒェンに引き取る話が出た。それに祖母がひどく抵抗した。生まれてから一度も、外国旅行さえしたことがない祖母は、外国へ行くのが嫌だったのだ。

 母と祖母の言い争いの声が扉の向こうから聞こえて、廊下でうずくまりながら、もっと絶望的な気分になる。

 ささくれだち始めている木の廊下に、塩辛い滴がぽたぽたと落ちていく。


 そこに、父親の「」だったという亡き王弟からの紹介状を携えた、当時の王太子が降り立った。

 首都の片隅にある小さな屋敷の、あちこちつぎはぎだらけの客間ににこやかに座る二十代前半の青年は、糊のきいた黒の軍服を美しく着こなし、絹のブラウスが袖口から美しくこぼれていた。まるで木々も枯れて寂れている湖に舞い降りた白鳥のようだった。

 残された数少ない使用人たちと母と祖母では、貴人に対する十分なもてなしはできなかったが、それも王太子は笑って許した。

 

 父が王弟と親友なら、その旨を遺言状に書いてくれれば、そのつてで何かしらの利益が得られたはずなのに、と、美貌の父が自分をとしていたことなど少年は、少しだけ歯噛みした。

 

 だが、不思議なことに、祖母は少年を自分の裾に隠し、母はあからさまに警戒した顔をしていた。母国の訛りがとれないまま、王太子に必死に願っていた。


「どうか、エリアスだけは。おさない子ですから。夫みたいに——ヴェンツェルみたいに、殿下がたを、たのしませることは、できないでしょう」


 亜麻色の巻き髪で、紫水晶のごとき瞳の、物静かな雰囲気の王太子は母の訴えに、次のように言ってただ微笑するだけだった。


「……思っていたよりも幼くないし、それに、エリアスは、王家に仕えてきたレーヴェンタールの人間のなかでも魅力的すぎる。愛らしくて美しすぎる。紹介状を書いてくれた叔父上は亡くなっているからまだしも、弟や父上や大公たちに取られてはたまらない」


 母は顔を凍りつかせて、その灰色の瞳から涙を流した。


 珍しくも、祖母が嘆き悲しむ母親に寄り添うなか、少年は王太子に抱き上げられて馬車に乗せられた。

 何が起きているかさっぱりわからない。

 ただ目の前にいる貴人に相対あいたいするには服が粗末なのを嘆いていると、唇を奪われた。


「……?」


 亡き父や、祖母や母が褒美や慰めの証に、額や頬にしてくれるくちづけとは何かが違う気がする。王太子は驚く少年に笑んだ。


「可愛いすぎて愛おしい、ということだよ。服であれば着替えさせる予定だから……」


 少年の髪を結わえていた粗末なリボンが解かれた。そこに現れ出たのは鈴蘭かすみれか林檎の花か、というほど可憐なであった。王太子は少しだけ我を失った後、唾を飲み込んで、美少女のごとき少年を膝に乗せて愛撫する。


「……かわいいね……本当に可愛い……」


 少年はすっかり困惑してしまった。だが、次の王太子の言葉は魅力的だった。

 

「……君が大学に行けるまで支援してあげるよ。叔父上の遺言だから。お金もちゃんと出すし、君のお母様とおばあさまが苦労せずに暮らしていけるように助けてあげよう」

「ほんとうですか?」


 少年の灰色の瞳に光が灯ったのを見て、王太子は顔を綻ばせた。


「本当だよ。約束する。ただ、私の話し相手になってほしい」

「話し相手?」

「……そう……話し相手。遊び相手かな」


 王太子は少年の襟のボタンを外し、その白く細い首筋をむき出しにさせると、くちづけをおとした。少年は、「あ」とくすぐったがる。


「くすぐったい?」


 青年の問いに、指ではなく唇でくすぐられたと思った少年は無邪気に頷いた。すると青年は微笑する。

 

 馬車は王宮の離れに到着した。離れだというのに、自分の屋敷くらいの大きさがあるということに、素直に驚いた。

 王太子は少年の頭を撫でながら言った。


「私と話すために特別に部屋を用意させたんだ。自分の家だと思って、好きに宿泊しなさい。ただ、私の招きがあれば必ずその部屋にいること。王宮そのものに来てはならない」

「はい、かしこまりました」

 

 少年は笑顔で頷いた。

 話すために特別な部屋がいるとは、何が何だかわからないが、貴人のいうことに疑問を差し挟める身分でも年齢でもない。

 

 少年は全く知らなかった。そこが、国王や王太子がを囲う際に使用される離れだということに。

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