第22話 血ではなかったのが悲しい

 グリューンガウの首都の郊外のホテルで、外務卿の密使を迎えた。密使に報告を済ませてしまっても、密使が帰っても、夕刻になっても、エリアスはホテルから出ようとしなかった。

 グリューンガウに与えられた自宅ではなく、気ままに振る舞えるホテルに泊まり続けている。もう自宅を引き払おうかと考えている。


 自宅は嫌だった。与えられた下女たちの気に障る視線や仕草に発狂してしまいそうだったから。 

 彼女らの噂話に興じる不愉快な話し声や、緩慢な動きが日に日にエリアスを追い詰めた。下女のひとりは長い金糸のような髪だったから、恐怖に嘔吐する前に適当な理由をつけて解雇した。頭を下げて、「申し訳ない」といえたが、ちゃんと穏和な態度を取れていたかどうか。


 その下女を解雇した日、ひどく戻した。半月ほど嘔吐と熱が止まらない。いつもどおり、予想通りの症状だった。それでも滞りなく仕事をした自分は勲章が授与されるべきだと思う。

 そんなことを手紙に書いたら、アガーテが、「また始まっちゃったの? 無理しないでね。仕事で必要じゃないなら、おうちを引き払って、ホテルに行けばいいじゃない。金髪じゃないメイドを指定できるわ」と書いてきた。それはいいね、と洗面器を片手に床に倒れながらひとりごちた。


 妻のアガーテが、使用人たちと自分の間に入らないとどうしてもだめだ。


 ——どうしてもがだめだ。


 薄気味悪く恐ろしい。

 そういうふうに脳内に刷り込まれてしまっている。特にを持つ女がだめだ。恐怖の限りを味わわされたから。

 高級娼婦から貴族の令嬢まで、様々な女性たちとなんども火遊びめいたことを繰り返してそれを治そうとはしているが、どうしても心の傷は治らない。


 アガーテは、傷を抱えたエリアスの心のなかに、何故かひょっこりと入りこんできた稀有な存在だった。

 金髪と程遠い黒髪だったから、趣味があったから、人格が好ましかったから、どこか危なっかしいのでついつい面倒を見たくなってしまう魔性があるから、相性があったからというのが大きいかもしれない。

 もし彼女が男でも——いや、男ならもっと良かっただろう——、身も蓋もなく愛しただろう。むしろ自分たちに性別がない方がエリアスはアガーテを心ゆくまで愛し抜くことができるのかもしれない。


 だが、アガーテもおっとりと温和で穏やかに見えて、まだ十二歳になって間もなかったエリアスの髪を引き倒して腹を蹴り上げて暴言を吐き、今でも嘲り続けると同じ「女」なのだ。恐ろしく薄気味悪い存在なのだ。

 愛おしい存在とは言えど、油断していたらという本能的な恐れが、臥所をわけさせている。


 外務卿の密使は「顔色が悪くないか?」と聞いてきた。ここ半月、どうにも不調なんですよ、と返したら、夏に弱いのか、私もだ、と返されたので曖昧な笑みを浮かべた。


 そして、その密使はエリアスを地獄の門に誘う密書を渡してきた。


「——の女官からだ。おそらくグリューンガウ情勢のことだと思う。——は国王陛下のために情報を集めるのになりふり構わないから」


 エリアスは頷いた。心が凍える。どうして彼女は自分に手紙を送ってくるのだろう。なぜずっとエリアスを苛むのだろう。今は、貴族としての身分と爵位を持つだけの、どこにでもいる一介の外交官に過ぎないというのに。


 密使が帰り、ホテルの隅で洗面器を用意しながらその手紙を開く。


 その手紙には、妻が第二王子と関係を持ったと赤裸々に記されていた。エリアスがアガーテに用意した保養地にさえ第二王子は赴き、妻を昼も夜もなく寵愛しているらしい。

 エリアスは瞳に鋭く冷たい光を宿す。ひどくため息をついた。


 夫としてこの発想は失格だろうが、妻はおそらく不倫するだろうと思っていた。どこかでエリアスではない男性に身体を許してしまうだろう、と。

 エリアスの女性嫌いは、おそらく彼女にちゃんと伝わっている。誠実に振る舞ってはきたが、夫としてふさわしからぬ不誠実な行為を繰り返しているのも、なんとなくわかっているだろう。


 五年前、面と向かって母親に責められた。

 母の故郷であるローゼンキルヒェンの言葉と、こちらの国の言葉をちゃんぽんにして母は怒鳴った。


 ——あなたが女が嫌いなのはわかる。アガーテならまだマシだということも。でも、夫としてはどうなの。あなたね、アガーテに不誠実だと思わないの。どうしてのお誘いを断れないの!? 妻がいます、その言葉だけで十分じゃあないの! 

 ——断れない、よ……。

 ——ヴェンツェルと同じこというのね! じゃあアガーテと離婚してあげなさいよ! あなたのしていることは妻がいる以上、でしかない。……それとも不倫するほどアガーテに魅力がないということなの!? 

 ——そんなことない……!


 母になじられるほどの夫婦関係だ。破綻しないほうがおかしい。

 第二王子の寵愛を受けたのだから喜ぶべきだ。伯爵夫人たる彼女が王子の子を妊娠して出産したら、レーヴェンタール伯爵家は配慮されるだろう。おそらくあの世の祖父も父もそれを望んでいるはずだ。


 だけれど、とエリアスは心が軋む。母親の気持ちが今ならわかる。

 妻が王子に寝取られてみてはじめて、子供や配偶者を貴人に送り出した祖母の気持ちや母の気持ちが痛いほどわかる。嫉妬や不安や妻への心配や、屈辱や、後悔や、なんで私の妻が、という様々な感情が交錯する。それは家を投げ出してもいいのではないかと思うほど。

 苦しくて血を吐きそうだ。


 洗面器に戻したが、血ではなかったのが悲しかった。


 アガーテは、ごく慎ましやかだが教養の深い父母と、敬虔な兄と修道女の妹のいる家庭に育った。

 自分たちの出世のために、祖父、父、孫三代に渡ってなどという発想をするレーヴェンタール伯爵家とは訳が違う。

 貴人に身体を捧げることに慣れていない。きっと今頃、精神的に参っているだろう。参っているどころか、もう自分の意志で動くことができていないかもしれない。

 一方で、さぞ王子は彼女の腕のなかで官能の極みを味わっているだろう。アガーテの無自覚に人の心をくすぐる癖と、閨でしか見せない妖艶な媚態は、生真面目な青年には依存と中毒を引き起こすに十分だ。

 アガーテに触れることで王子がどんどんと良識を失くしていくのが困る。


 かなり危ない女なので、人生を壊す前に世話係の私にお返しください、と忠告するのも一興かもしれない。妻に夢中なのだろう王子の手で、その手紙は破り捨てられるだろうが。


 ——グリューンガウに連れて行けば良かった。


 栗色の巻き髪をぐしゃぐしゃと掻いた。何をやっていたのだろう。出立前にアガーテにすがられたとき、一笑にふすことなく応じていればよかった。

 おかしいとは感じていた。本当は母の故郷である南のローゼンキルヒェンへ赴任する予定だったのを、いきなり政情が不安定な東のグリューンガウに変更させられた。今となっては自分を殺してまでアガーテを第二王子に寵愛させたかったのだとわかる。

 王妃の元に出入りしていた妻が、第二王子に見初められるのは、ありえないことではないだろう。だが、問題は、第二王子の恋情が「認められた」ということである。

 十六歳の頑是ない王子ひとりの力では、外交官の任地を変更することはできない。親の保護下にある彼は、女を自身のところへ招くのが精一杯だろう。それとて出来るかどうか。

 そして、王家は醜聞を出したくないはずだ、これ以上。


 王太子アルブレヒトは妹のドロテアとただならぬ関係にあった。

 ドロテア王女によれば、女官に手を出されたことへの嫉妬と、兄妹は普通肉体関係を持たないと知ったこともあり、はじめて兄に抵抗したのだという。そして強姦された。

 引き離して理解ある老公爵に王女を嫁がせたはいいものの、王女は王太子が妃を迎えると知って動揺し、自殺未遂をした。王太子は自分の罪を痛感して自殺未遂した。

 これが大きな醜聞となるなか、ゴットフリート王子が今度は自殺未遂をする。


 普通であれば、王子が何を言ったとて、周りがもみ消すはずだ。王太子が妹と通じたということのみならず、第二王子が人妻に横恋慕したという醜聞まで重なれば、王家の威信失墜につながる。

 ドロテア王女は今、どこぞの離宮で静養しているようだが、同じ離宮に付き添いという名目で人妻への恋慕を訴える弟も送るのが普通だ。ゴットフリート王子とドロテア王女は「健全に」、相当良好な関係の姉弟なのだから、お互い傷を慰めあえるはずだった。


 醜聞となることなど構わず、王子の恋情を認めて燃え上がらせ、エリアスの任地を変更するほどの力を持つ人物、そして次男の将来と精神を壊しても構わないと考えるような発想を持つ人物はひとりしか思い浮かばない。


 ——復讐だ。私に対する。


 外務卿の使者から渡されたのは、使者本人は外交上の指令だと考えていたようだが、ひどい嘲りの手紙だった。


 ——配偶者を寝取られた気分はどうだ? お前の妻はゴットフリートと保養地の離宮で共に暮らすようになったぞ。女男よりは、子供のゴットフリートのがよかったと見える。


 から、彼女は決めたのだ。復讐をするのだと。

 慮外に子供ができたとき、嬉しさ以上にひどく動揺した。そして予想通り、恐怖の根源から、妻には祝福の手紙が、自分には嘲りの手紙が来た。


 ——女にもきちんと勃つではないか、わが夫を誘惑する必要などないではないか。


 エリアスはぐしゃりと手紙を握りつぶし、深く考え込んだ。

 夏生まれの、第二王子の誕生祝賀会が近いな、休暇を申請して戻って、アガーテの様子を見に行くか、と。

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