第21話 勝利を確実なものに
***
深い海か夜空を思わす壁紙の部屋の、クリスタルガラスの窓から日の光が差しこむのを感じて、ゴットフリートは目を覚ました。自分の眠る青の寝台のシーツや掛け布には、激しい情交のあとが残っていて、彼は羞恥に頬を染めた。
起き上がると、誰もいなかった。
——アガーテはどこに行ったのだろう。
また逃げたんだ、あの女、「離れがたくなっているのかもしれない」と抜かしておいて……、と爪を噛もうとした矢先、扉が叩かれた。急いで寝台の上に丸め捨ててあった汗まみれのシャツだけ
「誰?」
棘のある冷たい口調で
夜の海を思わす黒い髪が、洗われて美しく結わえられていた。初夏にふさわしい涼しげな薄青の昼用のドレスを身にまとっている。
彼女はかいがいしく、自分たちが脱ぎ捨てた衣類をまとめ、情交のあとが残る掛け布をもまとめた。そして窓を開け放ち、涼しい風を部屋に取りこんだ。ゴットフリートは彼女を疑った恥ずかしさにうつむいた。
「アガーテ、来て」
アガーテは振り向く。そのままこちらにやってきた。
彼女は寝台に座り、まだ汗まみれのシャツ以外なにもつけていない、情交の余韻に耽っている王子の肩を抱き寄せる。額にくちづけた。
「ゴットフリートさま、朝食はいかがなさいますか、と傅役どのが心配しておりました。もう朝の時間を過ぎて、お昼に差し掛かろうとしておりますから」
愛しい女性は自分に向かっておっとりと首を傾げた。自分の名前を呼んで。
ああ、とゴットフリートは勝利を告げられたときのような気分になった。アガーテは自分の妻になった。もちろん法律上ではそうではないし、どこからも認められていないが、一緒にいることを許してくれた。
彼は嬉しさのあまり、子供のようにいたずらめいた笑みを浮かべ、その柳腰を抱き寄せ、豊かな胸に顔を埋めた。立ちのぼる彼女の薔薇のような優しい香りが鼻に心地よかった。
「まさか、こんな時間に裸で食堂へ赴けるわけもあるまい。食しはする。部屋で食べる」
手を叩くと、ひどいため息を繰り返し、額を抑えている傅役のマルタが入ってきた。ゴットフリートはアガーテから身体を離す。
「殿下。意中の女性と夜を過ごされたとはいえ、こんなに朝遅くまでお休みでは——」
「僕が寝坊したら、確かに珍事かもしれないが、たまにはそういう日もあるだろう」
勝利を手にしつつあるゴットフリートは機嫌よく微笑んだ。マルタはどこか後ろ暗い表情になり、顔を背ける。
「マルタ、お前は過保護すぎる兄上の傅役や、姉上をいじめて兄上に張り手されていた姉上の傅役とは違うことは承知している。よく働いてくれている。感謝してもし足りないくらいだ」
初めて傅役に感謝の意を表した気がする。だが、傅役は顔を背けたままだった。
「殿下、あまり、伯爵夫人を困惑させてはなりませぬ。ご夫君のもとに帰りたいとおっしゃったら、すぐにお帰しなさいまし」
王子は顔をきょとんとさせた。傅役の言いたいことがわからない。
「何故だ? 非道な夫なのだぞ? ……ああ、朝食はこちらでとるぞ」
「はい」
傅役は一礼し、ひどくため息をついて去っていった。
マルタがいなくなると、アガーテの緑の瞳をまっすぐ見た。その瞳は虚無の洞窟を感じさせた。痛ましくなって彼女の肩に手を回し、きつく抱きしめる。自分の体温を彼女に伝えていると、女の瞳がわずかに潤んだ。彼はそれに満足した。
「アガーテ」
「何でしょう」
「もう何にも考えなくていい。この離宮にいてくれ。僕のそばにいてくれ」
「……はい」
表情のぽっかり落ちた彼女は、ゴットフリートに自分からくちづけた。頭を撫でられ、深く唇を貪られた。彼女のきめ細やかな肌の滑らかさと密生した長い黒い睫毛の美しさに、彼の頬には赤みがさした。
愛おしい人間が名実ともに腕のなかにいるということは、なんと幸せなことだろう。
彼は勝利に内心が沸いた。でも、ひとつ懸念を解消しておかなくてはならない。あの夫にとらわれてしまう彼女だから。ゴットフリートを平気で捨てるような女だから。
この上なく愛しているが、信用はできない。
彼女の手首を握りしめた。手首にくちづけながら言い放つ。
「逃げるな。僕から」
さらに、女の首筋にくちづけを落としながら、自分のものだと主張するように、いま抱く全ての愛情を込めて白の肌に紅の焼き印をつける。今得ている勝利を確実なものにしておかなくてはならない。
「貴女がいなければ僕は生きる意味がない。貴女に捨てられたら死ぬことにしよう」
「おやめくださ……」
「良心が貴女のような女性にもあるのなら僕の前から逃げるな」
この世で最も愛おしい女はおずおずと頷いた。
アガーテは薬指に、ゴットフリートが外したはずの夫との結婚指輪をまだつけていた。手をとると、結婚指輪を外した。
「これも外してもらおうか」
「……!」
「昨日の夜のありさまを夫が見たら、夫自ら結婚指輪を
その言葉に、まだ夫に囚われているらしいアガーテはさめざめと泣いた。ゴットフリートは優しく微笑んでその涙を唇で吸い、甘く囁いた。
「大丈夫だ。僕のそばにいれば」
アガーテは頷いた。
朝食が持ってこられた。使用人は謹厳な王子が美しい女を侍らせているのを見て、目を疑うような顔をしていた。
昼、彼女の友人が彼女を心配して様子を見に来たようだったが、マルタが「レーヴェンタール伯爵夫人は殿下の格別のご厚意により、離宮に逗留される予定です」と告げているのが客間に響いていた。
普段真面目に生活していると良いことがあるものだ。その友人は何も疑うことなく、アガーテに言ったのだ。
「きっとこういう綺麗な離宮だったらすぐよくなって、エリアス様を笑顔でお迎えできるようになるんじゃないかしら。そうしたらまたみごもるわ。大丈夫。殿下も真面目な方だから、非道はなさらずに回復するまで置いてくださるわ」
ゴットフリートは客間と廊下で隔てられている書斎で本を読みながら、客間の会話に耳を傾けていたため、そのときのアガーテの表情を見ることがなかった。
「エリアス」という単語に、どれほど切ない表情をしたかを。
***
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