第20話 あの夜のことは夢だと思ってくれ

 青いベルベットの一人がけ用のソファに、アガーテは座らされた。まるで姫に傅く騎士のように、ゴットフリートはアガーテの足許に跪く。

 青年は伏し目になった。長い睫毛が紫水晶の瞳にかかって見えるさまは、まるで至宝を金の紗で覆い隠しているようだった。薄い唇が、アガーテの太腿に愛おしげにつけられた。


 すでに部屋の灯りは落とされている。外のクリスタルガラスからは、群青色のカンヴァスに宝石を砕いて撒き散らしたような夜空が見える。

 

「殿下、お身体の調子がお悪いはずでは」

 

 アガーテは少年があまりに大人びているのに動揺し、友人から聞いた話をした。甘えるようにアガーテの白く豊かな腿に顔を埋めていた王子は、「ん?」と優しい吐息とともに顔を上げて首をかしげる。そのあどけない仕草はアガーテに毒だった。窓から降り注ぐわずかに青い光が、青年の整って研ぎ澄まされた輪郭と、やや青ざめた顔色を浮き立たせる。

 子供が母の膝に甘えるような姿勢を取りながら愛撫を繰り返す王子は、アガーテには暴君そのものであった。彼は白皙の頬を薔薇色に染めあげ、「僕のことを耳にしてくれていたのか」と心底嬉しそうに微笑む。

 

「単に軽い暑気あたりだ。それにここに来たかっただけ。貴女あなたがいると知って。父上になぜか珍しくひどく反対されたが、初めて我を通した」

「国王陛下の御反対を受けたなら、おやめ遊ば——」

「謀反人にされるかもしれんな? 貴女のせいで。父上は子にお甘いので、最後はしぶしぶご了承くださったが」

 

 そういって王子は最も愛おしい人のドレスを胸元から裾まで乱暴に引き裂いた。不在の恨みを込めるように。指から橄欖石ペリドット金剛石ダイヤモンドの散りばめられたプラチナの結婚指輪が丁寧に外され、ソファのテーブルの上に置かれた。

 彼女のしっとりとした白の素肌と、曲線美を描く肉体を飾るのは、蒼玉アクアマリンが控えめに輝くネックレスだけになった。それだけは暴君の劫掠から逃れられた。むしろ暴君は、そのネックレスの上にくちづけを落とす。


 王子は身につけている軍服の上衣を脱ぎ、近くにあった椅子の背もたれにかけた。上まできっちり留めていたシャツのボタンを二、三外すと、喉仏から鎖骨のあたりがうっすら見えて、野心に溢れた青年の色香を感じた。


 身をもだえさせるアガーテを両腕に閉じ込め、少年は、これ以上ないほど妖艶な顔をして、女の細い喉をかぷりと噛んできた。そして、甘く囁いてくる。まるで吸血鬼ヴァンパイアを思わせる姿で。


「僕は貴女の嘘に散々苦しめられてきた」

「……嘘?」

「無自覚だったのか? 失笑してしまうな。貴女はあれほど僕と皆には口にできないことをしたくせに、僕をおいて逃げた」

「……」

「嘘。嘘つき。僕をあれだけ気遣ってくれていたのも演技? 何が目的なんだ?」

「……殿下……?」


 少年は金の紗を思わす睫毛に、水銀のごとく光る涙を宿した。

 

「僕はこんなに愛しているのに。あの夜のことは夢だと思ってくれとでもいうのか?」


 あ、という間も無く、その涙が頬を滑り落ちていく。アガーテは少年と青年を行き来する彼の眦を、気づけばぬぐっていた。その手を抑えられた。

 

「アガーテはひどい。泣けば優しくしてくれるのか?」

 

 アガーテは「いえ」と首を横に振り、身体を起こして青年の面長の顔を両手で挟んで、その薄い唇を吸った。水銀のような涙が零れていく眦も、その水銀を飲み干すように吸った。


「わたくしとあなたは、本来関わってはいけない関係です。わたくしは、レーヴェンタール伯爵夫人です。夫がいます。あなたより十二も上です……、そしてわたくしは、子供ができず、夫にいつ離縁を申し渡されるかびくびくしている、いつ死んでも良い存在です。でも——」

「貴女の夫の話など聞きたくない!」


 ゴットフリートの嵐のような激昂に、アガーテはその怒りを紡ぐ唇を華奢な手で覆った。


「あなたは未来を生きるお方です。国王陛下や王太子殿下をお支えするお方でもある。そんな方が、そんなわたくしと関係を持って、周囲からなんと思われるでしょうか。……ね?」


 青年は「聞かせないでくれ、もういい」と首を横に振る。


「つまり、貴女は僕のことを厭うてい——」

「でも、あなたが病気だと聞いたとき、心が騒いでしまった。心底から心配してしまいました」


 その梔子くちなしの花の香りより甘く芳醇な声に、ゴットフリートは目を見開いた。


「神に夫を愛し続けたままでいたいと願ってしまった。わたくし、よっぽどでないと神様にすがらないの。それってつまり、あなたともう、離れがたくなっているということなのかもしれません」

「……アガーテ」


 その女の囁きに、くるおしいまでに女の寵愛を求める美貌の青年は声が掠れていた。

 女は王子の朱に染まっている耳に、さらに囁く。


「……罪深いでしょう?」

「ああ、罪深いな」


 青年は微苦笑しながら、アガーテに身体を寄せた。

 与えられる激烈な快楽に、彼女は理性が溶け出し、一人がけのソファの上でさんざん王子に媚態を向けた。王子はその媚態を言葉でも身体でも責めた。まるで犯しているかのように。

 気づけば寝台の上に移されていて、ゴットフリートの雪花石膏アラバスターのごとき肌が自分の肌の上を蛇のように這っていくさまに、アガーテは完全に理性をなくした。


 自分は本当に淫蕩でどうしようもない存在だったのだ。

 

 涙が零れた。ああ、自分は淫乱だった。貞淑の皮を被った淫らな女で、エリアスに無理強いするような真似ばかりしてきたのだ。


 ——エリアス、ごめんなさい。


 最愛の人の後ろ姿が浮かぶ。彼に振り向いて欲しかった。骨の髄まで愛して欲しかった。

 でも振り向いてくれなかったのは、夫がありながら、十二も年下の男性の熱情を受け入れて熱烈に応えてしまうくらい、アガーテが屑だから。

 ふと寝台から覗ける鏡を見た。

 ゴットフリートの白くくすみひとつない背中の向こうに見えた自分の顔は、快感と恍惚のあまり笑顔を浮かべていた。これでは夫に愛されるはずがない。


 ——エリアス……。愛してごめんなさい。 

 

 さほど気にしていなかったが、夫は欲求が薄いのに一夜の情事を繰り返していた。全部、淫乱な怪物のアガーテから逃げたかったからだと気づく。

 エリアスの特性を愛せず、子供ばかり——臥所を共にすることばかり望んでいたから。別の、休ませてくれる女に甘えたかっただろう。


「ごめんなさい……」


 涙で視界が見えなくなる。心が張り裂けた。裂けた心から血があふれ、涙となって零れていくのを感じた。


「もういい、アガーテ。夫のことは忘れてしまえ」


 その涙が王子の唇で拭われたのを最後に、アガーテの意識は途絶えた。

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