第19話 絡めとられていく

「アガーテ!?」


 友人が急いでやってくる。ああ、とうとう、という哀しい表情をして。友人は彼女を抱きしめた。


「ごめんなさいアガーテ。このあいだは言い過ぎちゃったわ」

「ち、ちがうの……あの、ことじゃない、から」


 アガーテは大きく首を振った。友人はもっと哀しげな表情になる。


「アガーテ、少しお休みを頂けるところを探しましょう」


 靴音がした。その靴音さえもがアガーテの神経を苛んでゆく。衣擦れの音がし、目の前に美しい黒の軍服を着た第二王子がこの上なく慈悲深い笑顔で立っていた。


 身体から血の気が一気に引く。呼吸が小刻みになり、友人にすがって大きく震えだす。

 友人は焦った声でとりなした。


「殿下、申し訳ございません、わたくしの友人のレーヴェンタール伯爵夫人は、その……子を失ったばかりで、その傷のあまり昼も夜も泣き暮れていて……」


 真面目な顔に威厳と慈悲深さを添えた、裁きの天使を思わすゴットフリートに、なぜかアガーテはひどくおびえていた。友人にさらにすがる。全部気のせいだ。彼と自分は今は何もない。未来も何もない、過去、二夜共にしたのも王妃に命じられただけ。ただのだ。

 友人とその愛人の音楽家に比べれば、全然、まったく、何もない。


「左様か」


 王子の硬質だが優しい声は余所よそ行きのものだった。非常に安心する。


「その調子では来客用の寝室を使ったほうが良いのではないか?」


 友人はその慈悲深い声にアガーテを抱きしめながら感謝する。


「演奏会を続けるがいい。使用人に彼女は部屋までおくらせよう。必要とあらば医者も呼ぼう。安心せよ。美しい演奏を止めたことで責めたりはせぬ。良い演奏だ。もう一度聞かせてくれ」


 友人は王子の言うなりになった。アガーテは抵抗しても、失神しかけた人間がうなされているとしか見なされず、使用人たちによって部屋へ運び込まれてしまった。王子がぞっとするほど美しい笑みを刷いたのをみた。


 担ぎこまれたのは部屋は青い壁紙の部屋だった。窓はクリスタルガラスで、そこから星々のきらめきが部屋に照り注ぐ。


 部屋の中に、白髪の女官、王子の傅役のマルタがいた。


「傅役どの、わたくしは何も変なところはありませんわ。家に帰してくださいませ」


 すると、ひどく睨まれてため息をつかれた。


「殿下は貴女さまが別荘からいなくなられた事、ひどくご立腹、いえ、ご心痛でらっしゃいました。貴女さまの貞淑さには恐れ入りますが、荒れ狂う殿下をおなだめなさってくださいませ。わたくしにはもう無理です」


 そう言いのこし、去っていった。


 部屋の真ん中にあった一人がけ用のソファに座ってくつろぐふりをした。アガーテを運びこんだ使用人たちが扉を閉めて去ってしまうと、急いで立ち上がる。


 ——早く帰らないと……。


 ここから逃げ出さないと、何かまずい気がする。戻れなくなる気がする。エリアスの腕のなかに。レーヴェンタール伯爵家に。


 取手に手をかけて扉を開ける。

 花綻ぶような満面の笑みを浮かべたゴットフリートが立っていた。

 身体が凍りつき、声が出なくなった。


 ゴットフリートはアガーテが固まっているうちに、部屋の中に入って、扉を閉めて鍵をかけてしまった。

 ふ、と彼は笑うようにため息を吐くと、アガーテを壁に追いやり、唇を重ねてきた。

 甘やかで痺れるような激しく深いくちづけに、彼女は毒を盛られたような気分になった。まさに、僕は貴女の若くて美貌の年下の愛人なのだが、と主張されるように、心に彼が割り込んでくる。

 気を失ってしまいたいほど淫らなくちづけだった。


 ——どこでこんなくちづけの仕方を覚えてきたの……?


 アガーテは壁を背にしたまま、地面に座り込んでしまった。唇を抑えて。


「アガーテ」


 ゴットフリートはアガーテの前に膝をついた。肩を優しく掴んでくる。


「何故、僕の別荘から逃げてしまった?」

「……役目を終えたと……」

「僕は貴女あなたに何かの役目を与えた覚えはない」


 彼女の首が王子の手に絡めとられた。そして囁かれた。


「……貴女は僕の運命だから。僕は貴女に幸福でいて欲しいだけなのだが。心も、身体も——」

 

 脚を抱きしめられた。膝にくちづけを落とされる。

 凄絶な美貌の彼の熱情に圧倒されながらも、アガーテは首を大きく横に振った。


「お許しください」

「何故?」


 肩を引き寄せられ、二度と離さぬようにきつく抱きしめられる。うなじの香りを堪能されるように、顔を首筋に寄せられた。


「殿下、わたくしたちは、外聞……」

「外聞? 貴女くらいの歳なら、この国では若い愛人を持つ貴婦人が多いはずだが。もちろん、王子と情を交わした貴婦人もいる。兄上はいつも公爵夫人だの侯爵夫人だの伯爵夫人だのと情を交わしているが?」


 薄い唇が紡ぐ淫蕩な事実にアガーテは首を横に振る。だが、アガーテのはそれに手を緩めることはなかった。

 雪花石膏アラバスターを思わす骨ばった白い指が、彼女の耳に触れ、耳飾りの留め具を緩める。熱い息を吹きかけられながら、口で、涙めいた形の翡翠ジェイドと真珠の耳飾りを外された。

 ぴくり、と身体がその動きに反応してしまう。


「貴女の友人と、今日の音楽家はそうだろう? 随分と仲が良さそうだ。……僕たちもああなりたいものだな」


 そういって今度は、アガーテの黒髪に手を伸ばした。指がつややかな夜陰の色の髪の上を滑り、耳飾りと合わせている真珠の髪飾りを外していく。

 はらりと垂れた髪は夜の海のようだった。ゆるやかに波打ち、ところどころつやめいている。

 王子はその夜の海のごとき髪にくちづける。


「綺麗な髪だ……。この髪も僕のものでいいんだろう?」


 アガーテはあまりの若い情熱に何もなすすべがなかった。

 少年は——いや、青年は、アガーテと床を共にした夜に比べて、はるかに大人になっていた。まだあどけなさを残す白皙の顔は陰翳を帯びて色香を漂わせ、奇妙に心を引きつける。身体も、いまだにしなやかでほっそりとしているが、次第にたくましくなっていくだろう萌芽をところどころに感じる。


 ——あれから、どなたか別の方を夜のお相手にされていたのかしら?


 そんなことなどくこともできず、しだいにぐらついてしまう。

 気づけば彼の熱情の炎に焼かれて、倒れ伏しそうになっていた。

 

 「壁だけが支えだと保たぬか?」


 王子が囁く。肩と膝裏に腕が回され、抱き上げられ、一人がけ用のソファに座らされた。

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