第18話 「年若い美貌の愛人」

 ——本当に耐えられない。


 アガーテは立ち上がって震えだした。

 何も知らない友人が顔色を変えて、「いいすぎたわ、ごめんなさい」と彼女を抱きしめて肩を撫でる。


「ね? アガーテ。何か考えるのをやめましょう。そうだ。わたくしのお友達の音楽家の演奏会があるの。来ない? あ! そうだぁ……」


 何も知らない友人はまるで空気を取り戻すように明るくもじもじとした。アガーテは次の瞬間、耳を疑った。


「ご静養されることが決まった第二王子殿下もいらっしゃるの!」

「……え? ご静養?」


 本当に何も知らない友人は、アガーテの声音が変わったことに気づかないまま頷いた。


「そうそう、春の終わりからずっとここにいたアガーテは存じあげないと思うけれど……。半月前ね、国王陛下の御前で会議中に意見を述べていたら昏倒なさったの。少し暑気あたりを起こされただけみたいなんだけれど、国王陛下はああいうふうに子煩悩でらっしゃるでしょう? 十六のお子様を粉袋のように自ら抱きかかえて、王宮を走り回って自ら御典医のところに赴かれてね……」

「へ、へぇ……、あなた、みたのね?」

「ええ。あれはここだけの話、笑っちゃったわ。陛下の子煩悩は王宮名物ね」


 ゴットフリートの父である国王は子供たちすべてを非常に溺愛している。見聞きする話はいずれも名物といっていいほど愛情表現が微笑ましいものばかりだった。王太子が初めて政治的な意見を述べたときは感動のあまり号泣し、音楽好きでヴァイオリンが得意な第一王女のために世界最高の名器を取り寄せ、幼い第三王子や第二王女と本気で戯れる。

 普段は寡黙なお人柄と評判なのだが。


 だが、アガーテ本人は、王妃と子供達がいるところに国王が姿を見せたのを見たことはなかった。つねに意識にのぼるわけではないが、少しだけ気にはなっていた。


「……心配だわ。悪い病気でなければ良いけれど」


 春終わりの王子の別荘での様子は明らかにおかしかった。心配だ。

 何を心配しているの、と心が揺れかけたが、


 ——殿下のご様子を「心配」するのであれば、臣下として普通よね。


 アガーテは自分の心に生まれる小さなさざなみに理由をつけた。

「ねえ」、と友人がアガーテと同じ心配そうな顔をして頷くのに、安心した。


 友人が音楽家を招いたはずなのに、演奏会は友人の保養地に所有する屋敷で開かれるのではなくなった。

 第二王子ゴットフリートの好意で、彼の静養する離宮のサロンに変更された。

 主賓として王子を招くことの気の重さから解放してくれた、その慈悲深さに、友人は滂沱ぼうだの涙を流して、美貌の若い音楽家を王子に紹介した。


 ——お友達という名の、愛人だったのね。


 この国の貴婦人はふしだらなもので、子供を産んで子育てがひと段落していれば、望みもしない結婚で得た夫と臥所を共にするのはやめ、愛人を持つようになる。そんな年齢なのだと、——アガーテは突きつけられた。

 そういえば、後継になる子供たちを産み育て終えた友人の何人かは、美貌の年若い愛人を持っている。だいたいは夫に内緒にしているが、夫公認で複数の愛人を持つ天晴あっぱれな友人もいた。


 貴族の妻としての責務を終えた友人と、若く美貌の音楽家の意味ありげな視線の交錯は、アガーテの心をひどくかき乱す。


 ——年若い美貌の愛人。


 ふと、視線の隅で友人とその愛人の音楽家と話している第二王子を見た。

 彼は椅子に座っていて、折り目正しい笑顔を見せていた。だが、ゴットフリートは前より少し痩せて青ざめていた。そのせいで美貌に凄絶ささえ感じる。奇妙な男性としての色香も。確かに体調がすぐれないのかもしれない。


 彼と視線が絡まる直前で、アガーテは窓の外に目をやった。

 すでに陽も落ちていて、紺色の空に星が点在しているのを見た。もう一度視線を戻してみると、王子はもう別の人間と話していて、アガーテなどいたっけか、というふうに振舞っていた。安心する。


 ——そう、忘れておられたほうがいい。


 けれども、なんとなく居心地が悪く、所在ない気分でいっぱいだ。王子がおぼえていなくとも、自分が憶えているせいで。


 ——もし、殿下とのあの秘事がばれたら。


 周りはどう思うだろうか。自分だけではなく、王子に対しても。何があっても黙っていよう、とアガーテはあらためて決意した。墓まで持っていく。まあ、あの金髪の美少女さえエリアスが気に入れば、すぐにでも墓に入るだろうが。


 とりあえず友人とその愛人の音楽家のところへ行く。


「そ、わたくしのお友達のレーヴェンタール伯爵夫人、顔は綺麗だけれど本当に頭がカチコチ、つまり石頭なの。この世で最高な美術は絵画だって言い張るから、あなた、ちょっと認識を改めさせてちょうだい」


 悪口と冗談まがいの、だが親しい者どうし特有の親しみが込められた紹介をされた。

 しばらく音楽家と話していた。非常に控えめで穏やかな性格であり、明るくておおらかな友人が心開くのも当然と思われた。すっかり気安くなって、友人とともに彼とずっと話していた。

 それを紫の瞳が凝視しているとも気づかずに。


 美貌の音楽家は、ピアノの前に座ると、繊細な手つきで美しい演奏を始めた。

 もちろん友人はピアノの近くに大きく陣取り、孔雀の扇で自らをあおいでうっとりしている。第二王子は主催としてやはりよく聞こえる位置に座っていた。


 アガーテが真ん中のほうで演奏に聞き入っていると、ぴたりと、王子の紫の瞳が彼女を見据えてきた。びくりとする。すぐに視線を下にうつむかせた。だが、あまり下を向いていても友人や今演奏している音楽家に失礼なので、視線を元に戻す。気のせいだろう。

 すると、また王子が視線を絡めてきた。気のせいだ、と今度は視線を別の方向へ向けた。ただ、ずっとあらぬ方向を見ているわけにもいかない。

 だが、演奏がはげしくなるごとに、王子の熱を帯びた視線がアガーテの緑の瞳を捉えて離さなくなる。金の長く整った睫毛に縁取られた紫水晶のような瞳は美しかった。心を槍で貫くような、まるで見たくもない心の内奥をも暴きそうな視線に身体がざわめいてしまう。

 まるで密かに熱情を交わし合う恋人同士のようだ、と気づいた瞬間、彼女はひどく震えだした。

 照れではなく、エリアスとゴットフリートに心が引き裂かれゆく恐怖で。


 ——誰か、神様、エリアスを好きでいさせて!


 気づけば、病的な悲鳴をあげていた。

 演奏が止まった。

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