第5章 その両腕に絡めとられていく
第17話 もう取り返しがつかないほど
アガーテは一人の若い女性と話していた。
王国の東には温泉の湧く保養地がある。すでに夏の始まりかけのこの時期、避暑におおぜいの人がやってきていた。そのなかにはアガーテの友人もいて、彼女の紹介で、夫のエリアスの
エリアスの手配で、小さな別荘を借りているアガーテは、さらさらとした金髪の美少女と客間でお茶を飲んでいた。
「お好きなのは絵画?」
「はい。歌劇も好きで……」
友人が顔に困惑の色を浮かべながらも紹介してきた美少女は、明るくはきはき応答する。彼女はアガーテの目的を全く知らないし、レーヴェンタール伯爵夫人の話し相手をしているとばかり思いこんでいるようだ。
アガーテはティーカップに唇をつけたあと、微笑んで美少女に言った。
「わたくしは歌劇はさっぱりなの。夫は大好きなのよ」
「伯爵閣下が?」
「ねえ、今度、わたくしの夫に歌劇へ連れて行ってもらいなさいな」
美少女は少しだけ戸惑った顔をする。アガーテはさらに微笑んだ。
「嫉妬はしないわよ? 夫もあなたみたいなお嬢さんが好きだと思うの」
金髪であることを除けば。夫は特に夜に金髪の女性を見るのを嫌がる。目がちかちかするのだと言っていた。悲鳴をあげてアガーテにすがるから、害虫か何かと思ったら金髪の女性の使用人とすれ違ったせいだと知り、彼の頭を撫でて笑ったこともある。
だから、金髪の使用人には髪の毛を染めてもらっている。
でも、微妙に臆病な夫には、これからはそんなへたれたところを直してもらわないといけない。アガーテはいなくなるのだから。
「アガーテ様、そのう……」
「なあに?」
アガーテは首を傾げた。美少女は声をうわずらせた。
「あ、あまり未婚のわたしが男性と出歩くのはどうかと」
「あら。じゃあ、わたくしもいっしょに行こうかしら——」
アガーテはその少女の腰をじっくりと見た。しっかりとしている。この子であれば機会が少なくともエリアスの子を身ごもれるだろうか。
「じゃ、また今度」と手を振って、美少女を屋敷の玄関まで見送る。
一瞬だけ、無邪気に去っていく少女の背中を鋭い目で見てしまった。彼女がエリアスに抱かれ、ひどく乱れているのを想像してしまった。
首を大きく横に振る。そのための物色なのだから、嫉妬してどうするのだ。
アガーテは客間に戻って残った茶を飲みながら、窓の外を見た。
大きな遊歩道が一本通っていて、その周りには木が立ち並んでいる。そこには幸せそうな男女が何組かいた。子供連れもいる。アガーテは目を閉じて、ため息をついた。
みんな、子供を持つなど当たり前で簡単だという顔をしている。でも、アガーテとエリアスにはそれができなかった。
エリアスは女性への欲求が薄い。床を共にする時間は、他の夫婦に比べればおそらく少ない。
ふと、義母を思い出す。外国出身で言葉が不慣れなせいかいつも寡黙で、菓子作りが得意なエリアスの母は、息子とアガーテの臥所を共にした回数に、感情を振り回されていた。多ければ非常に愛想が良く、少なければアガーテを責める。最初はアガーテも自責したが、エリアスの母はぽっつり漏らした。
——エリアスは父親のヴェンツェルと違うと思っていた。ちゃんと妻を他の男性並みに抱くと思っていた……。
アガーテの魅力不足のせいにすることで、何かもっと大切なことから目をそらしたいみたいだった。
五年前、エリアスに本気の相手と思しき浮気相手ができたとき、義母はエリアスの寝室に単身入って行き、息子を怒鳴り散らしていた。妻がいるとお断りすればいいじゃない、どうして、また、こんな……、と。
そしてふっつり糸が切れたように言った。そうね、アガーテは魅力的ではないんだわ。アガーテ以外の女性であればエリアスもなんとかなるかもしれない。子供を産まないなら、エリアスと離婚なさい、と。
それに本当に珍しく、声を荒げてエリアスが反発した。
——アガーテと別れるくらいなら死にます……!
本家の公爵夫妻が介入したことでなんとかなったが、義母はそれ以来、王国の南でずっと保養している。
義母が去った日、エリアスに今までなかったほどしつこく激しく抱かれた。その日の昼から次の日の夜遅くまで。耳元で「私が全部悪いんだ」と囁かれながら、溜まってしまった借金を一気に返すように、抱きつくされた。
エリアスを全く理解できていない気がする、とアガーテはぼんやり天井を見た。あの時は、何が何やらさっぱりわからなかったが、今となっては奇妙だ。
義母は決してただの嫌な姑ではなかった。アガーテに優しいときもあったし、伯爵夫人としての心構えを丁寧に教えてくれたし、菓子の焼き方を教えてくれた。善良な女性で、貧民を救済する集まりに出入りしていた。
そんな義母を追い詰めたものはなんだったのか。
天井をぼんやり見ていると、先ほどの美少女を紹介した友人が、いつの間にかやってきていた。彼女は大きくため息をついている。
「アガーテ、満足?」
「満足。きっとエリアスの気にいるわ」
アガーテはにっこりと友人に微笑む。友人はさらに困惑した顔をした。
「エリアス様が望まれたの?」
「ううん。でも、エリアスにはわたくしよりもっと、こう、——若いお嬢さんがお話し相手になったほうがいいのかしらって」
友人はアガーテの手を取った。優しく穏やかに言う。
「アガーテ、そういうことは、エリアス様の意志を確認しないと」
「……きっとエリアスは首を横に振るの。でも、でないとわたくし……」
「アガーテ?」
「……」
気づけば涙を流していた。友人が見当外れなことを言ってアガーテをぐさりと刺す。
「アガーテ。あなたが今すべきことは、エリアス様に気分転換を用意するのではなくて、ここで、しっかり休んで子供をまた身ごもれる身体になることでしょう? 流産はつらい。わかるわ。わたくしも経験があるもの。一年も静養したわ。でも、そこでこんなに壊れていたら、一生崩壊してしまうわ」
もう取り返しがつかないほど崩壊しているのに、とアガーテは友人に洗いざらい叫びたくなった。
わたくし、先頃の春の終わり、第二王子殿下の初めての閨の指導をしたの、と。
エリアスのことを考えながら、殿下を受け入れて、お導きして、はしたない悦びの声を一晩中あげていたの、今妊娠していたら確実に殿下のお子だわ、と。
エリアスの子が産みたいのに、と彼女はその緑の瞳から涙を零す。ひとりでもいいから、エリアスの子をこの腕に抱きたかったのに、彼に申し開きできる身体ではなくなったの、と。
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