第16話 禁断の扉が開かれる鍵
少年がアガーテの顔を両手で挟み、唇を近づけてきた。
その紫水晶の瞳に涙が滲んでいる。絶望と虚無の涙が。
この子も、母親を求めていたのに、母親は何も振り向いてくれなかった。自分とエリアスの関係と同じ。けれど、自分と違うところは、夫婦を「やめる」のは簡単だけれども、親子を「やめる」というのは不可能に近いということだ。
そして、自分はそれでもエリアスが愛しいけれど、ゴットフリートは母親を愛せない。
王子の絶望のくちづけを受け取った。傷をお互い舐め合うように。
ゴットフリートはアガーテの襟のなかに手を差し入れて、たわわに実った二つの果実を引き出した。赤子のように口に含まれると、自然と少年の頭を撫でていた。
——子供を失ったわたくしと、母の手から漏れてしまう殿下と……。
禁断の扉が開かれる鍵と鍵穴がぴったりと合って、かちり、と解錠音を立てた。
いつの間にかお互いに一糸まとわぬ姿となり、身体を絡め、重ねて、全てを忘れる官能を激しく追い求めてしまっていた。
腕のなかの少年はあまりの快楽に、我を失っていた。アガーテにはその真剣さもまた可愛らしい。
とはいえ、少年はエリアスではなかった。夫との本当に満たされた夜の時間とは程遠い。
——わたくしは本当にエリアスを愛しているんだ。
一方で、いま腕のなかで喘いでいる少年の心の痛みを、少しでも忘れさせたい。許されている少しの間だけ。
アガーテは少年の苦しみを見てしまった。それを無視できる気持ちでも立場でもなかった。
少年の愛撫がたどたどしいので、女は少年の手をとって、導きはじめた。
少年を導いて、その腕のなかで悦びの声を上げ続けていた。その声にどこか哀しみが入り混じっているのを、だれも、女を何よりも愛する少年すらも聞き取れなかった。
女とひとつになり、彼女を自分で満たしたあと、思わず早く果てた少年はアガーテの腕のなかに崩れ落ちる。
「殿下……」
少年はアガーテの腕のなかで目を虚ろにし、呼吸が乱れ切っていた。動けなくなってしまっている少年の下から身体を抜き、ゆっくり寝かす。掛け布をかけ、優しくその上から撫でさする。
「……申し訳ない……」
「初めてのことですから、不慣れだったのです」
「……アガーテは満足できていないだろう? もう一度……」
「身体をおいといなさいませ。殿下が全てを忘れられたほどご満足であれば、かまいません」
アガーテは少年の
少年は甘美な体験を忘れ難いように、次第に眠りへと落ちていった。
***
気づけばもう月が空を照らす夜中であった。アガーテは身体を清めたあと、窓辺に立って月を眺めた。
——もうこれで。
アガーテのやるべきことが終わった。
これでエリアスは死ぬことはないだろう。
エリアスには決して申し開きできない不貞を働いた。男に乱暴されたのではなく、自ら男を招き、快楽を貪って痴態を演じた。夫はさぞ軽蔑するだろう。
母とうまくいっていないらしい少年に、幸多かれと願う。もう終わりゆく年増より、もっと良い若い姫が世の中にはいるはずだ。
あとは、エリアスの
——あの子のところへ行く。
生まれ来るはずだった子をひとりで冥府に旅立たせるわけにはいかない。半年遅れ近くになるが、母親が行って守ってあげないといけない。
そう、エリアスは正しい。アガーテは本当に笑ったことなど、子供を失ってから、ない。さきほどの画廊をみたとき以外は。
春のある日、思いついたのだ。エリアスの後添いを見つけるまでは生きていよう、と。その女性がエリアスと結ばれる前に、子供のところへ行こう、と。そのときまで精一杯笑おう、と。
王子との出会いは、アガーテにとって大きな戸惑いではあったが、逆に彼女を後押しした。
エリアスはきっと、奇妙に臆病なところがあるので、新しい妻を迎えたがらない。でも、前の妻にひどく裏切られたのなら、さすがに新しく優しい妻に心が向くだろう。
——何はともあれ帰らなくては。
アガーテは自分に与えられた部屋に戻り、身支度を整えると、無口な侍女を捕まえて馬車を呼んでもらった。レーヴェンタールの屋敷へ一旦帰還するためだ。
王子の執着が始まることなど、知る由もなく。
***
東国グリューンガウでは、幼少の国王を
——きっと、私は彼女を傷つけてばかりだから、頻繁には送らないほうがいいのかもしれない。
エリアスは、本国政府が確保した小さな屋敷で、安楽椅子に座って、読書をして考え込んでいた。妻から手紙が届いた。
どこで書いたものかいつも彼女は几帳面に書くが、今回は何も記されていないのが不思議だった。
妻から届いた手紙はみるからに明るい話ばかりで、自分を心配させないための言葉ばかりが重ねられていた。最近こちらでは花が本当に綺麗なこと。本家の伯父夫妻に会ったこと。王妃様のすすめで首都の郊外にある別荘を貸し出されたのだが、それはさすがに恐れ多いから、あなたの都合のいい場所で保養してみようかしら、ということ。
——首都郊外にある、王妃がすすめることのできる別荘?
はて、と彼は首を傾げ、あることに気がつく。
首都郊外には、王室の財産を散逸させない為に、第二王子がごく幼少期に亡き叔母から譲られた別荘がある。そこには、前の持ち主が愛好した絵画のコレクションがあるのを記憶している。
彼は息を呑んで灰色の目を見開き、その後、目を細めて視線を鋭くした。
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