第15話 アガーテは僕に抱かれるのが嫌か?
ふと、隅のほうに小さな肖像画を見つけた。ゴットフリートと王妃だった。まだ一、二歳くらいだろうか、幼い王子を抱いて王妃が微笑んでいる。王子は母の首にすがっている。額縁のところに、走り書きがしてあった。
——こんな日が本当にあったのだろうか?
なんだこれ、とアガーテは眉を寄せた。そういえば、気になることがあった。父国王の肖像、兄のアルブレヒト王太子の肖像、姉のドロテア王女の肖像、弟のレオンハルト王子の肖像、妹のカロリーネ王女の肖像は存在するのに、母王妃の肖像が存在しなかった。
——あれ?
そう思っていると、どさり、という音がして、自分の身体がひどく締め付けられた。
振り向けば、ゴットフリートが自分を後ろから抱きしめていた。ひどく息を荒げている。よく見れば、目を大きく広げていて、顔が真っ青だった。
「……殿下!?」
「……アガーテは絵画が好きなのか? ……」
その声が虫の羽音よりも小さかった。急いで、様子のおかしい王子を抱えて三階の自分が寝かされていた部屋へ赴こうとする。だが、彼は首を横に振り、おそらく自室なのだろう場所に連れていくよう、部屋を指差した。
部屋のなかはやはり深緑色の壁紙が貼られている。アガーテにあてがわれたらしい部屋とは大違いだ。やはり深緑色の寝台と、ヴァイオリンを思わす曲線の美しい机と、本棚があった。本棚の近くにはおそらく本を読むための安楽椅子がある。
寝台に王子を横たえた。まだ、顔が青ざめている。急いで靴を脱がせ、掛け布をかけた。
「今、誰かをお呼び——」
「体調が良くないというのではない。医者が来る頃には元気になっている」
「え?」
「母上に個人的にお会いすると、いつもこうなるというだけのこと。三十分もあれば落ち着く」
「……は、はい」
所在無さげにしていると、王子がアガーテの手を握りしめてきた。その手がひどく冷たかったので、彼女は寝台に腰掛け、すぐに握り返す。
「王妃陛下にお会いになられたのですか?」
少年は頷いた。彼は、懐から瓶を取り出す。その瓶に透明な液体が入っていた。
「アガーテは……」
「なんでしょう?」
「僕に抱かれるのが嫌か?」
「……」
顔をそらす。身体中が熱くなった。そのことで自分がわからず、まさに悩んでいるのだが。
「もし、抱かれるのが嫌なら、これを飲めば楽になるらしい。母上曰く、貴女が抵抗していても、これを飲ませれば自ら身体を開き、僕に子種をせびって搾り取るようになる薬だそうだ」
すぐにアガーテはその薬を王子から取り去った。息を大きく吸って、吐く。
「……殿下」
「なんだ?」
「そのお言葉は、本当にお母君のお言葉ですか?」
王子はつらそうに頷いた。アガーテは立って、薬の瓶をヴァイオリンを思わす曲線の美しい机の上に置いた。それを年頃の息子にいう母親が、いるものだろうか?
「アガーテ?」
「本当に、王妃様がおっしゃったのですか?」
憧れの人が。そんな低俗な言葉を言って息子をここまで悩ませるとは思えない。
「……ああ。僕にはそうだ。兄上や弟が問題児だからな。僕は母上の基準では何も問題がなく、手を掛けるに至らないらしい」
「本当に?」
そんなこと、本当にあるのだろうか。自分はエリアスと自分の子なら、いや、エリアスの子でなくとも、自分が生んだ子は誰もが愛おしく感じたい。
「アガーテ、貴女にはきょうだいがいるだろう。敬虔な兄上と修道女をしている妹が」
「おりますけれども……」
「親は三兄妹を全員平等に可愛がった?」
「……あ、兄は跡取りなので一番可愛がられましたが、でも……わたくしも、妹も可愛がられましたし……、あ! 兄はわたくしたち姉妹を非常に愛してくれていますので、その」
王子はそんな言い訳めいた言葉を並べるアガーテを嘲笑するように見た。
「そう、きょうだいは平等に親から手をかけてもらえるわけではない」
「……殿下、そうではなくて……」
アガーテの瞳に涙が滲んでいた。ゴットフリートはその姿を見て、哀しげに噴き出す。
「ああ、そうか。貴女は母上を憧れの貴婦人として見ていたのだな。……おかしいとは思わないか? ではそんな素晴らしい人格の貴婦人が、どうして、息子に、不義密通を犯させる?」
「……」
「僕の脳天でも殴って貴女への思慕を止めさせるのが、真っ当な母親では?」
それは殿下が自ら死を選ばれようとしたからで、とは面と向かって本人に言えない。それに、ゴットフリートの言っていることはまごうことなく正論だった。自分をも糾弾する正論が、本人の口から出たものであるからこそ、母親への冷たい感情を感じた。
「僕に関して母上はいつも、その場しのぎだから。根本的な問題を解決しようとはしないから。母上は父上に絶望していて、父上に子供を近づけたくないから、僕は父上に助けを求めることもできない」
「……殿下?」
アガーテは寝台に座りなおす。その途端に、ゴットフリートは起き上がって彼女を抱きしめ、寝台に押し倒した。そして、囁いてくる。
「母上のことを考えるのは嫌だ。アガーテ、考えないようにさせてくれ。僕を快楽の渦へ連れて行ってくれ」
その響きの切なさに、アガーテは動けなくなる。
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