第14話 奇妙な事実と、煩悶

 ***


 夫への返信をさまざまな感情を制御して書き終え、封をする。アガーテは、使用人がいないかと声をかけてみたが、返事はなかった。

 だが、直後、扉がノックされた。


「どうぞ」

「お召替えをしますので、別室にご案内します」


 扉の向こうから女性のしわがれた声が聞こえる。だが、あのマルタという傅役の声とは違っていた。


「わかりました。あの、手紙を出したいのですけれども……」

「机の上に置いておいてくださればお出しします」

「……お願いします」


 扉を開けると、黒衣で無表情の白髪の女が立っていた。彼女は無言でアガーテを案内する。


 久しぶりに肩までバスタブのお湯に浸かる。

 侍女に薔薇水を振りかけられると、アガーテの丸みを帯びた美しい肉体は艶を放った。

 水面に映るのは、十年前、十八歳であれば王子と似合いであったかもしれないと思われる自分の顔だ。


 ——何を考えているの。わたくしの唯一はエリアスだというのに。


 けれど、身体が悶えている。彼の不器用で力技そのものの愛撫を受けていると、ゴットフリートに身体を全て捧げたい、と心の奥底から妖しい欲求が花開いてしまう。不器用だというのに、アガーテに触れる指先の動きは繊細で、心が震えてしまう。しかも、目を伏せがちにしたときのあの色気、頬を染めて出す喘ぎ声、真面目さゆえに紡がれる清純さ、すべてが可愛らしい。


 ——もっともっとお教えしたい……。


 彼を自分の色に染め上げたかった。


 今まで自分の考える男性といえば、エリアスであった。エリアスの優しい腕が、暖かい唇が、静かにアガーテを包み込むのはこれ以上ない至福であった。自分のすべてはエリアスのためにある。彼に尽くし、奉仕し、彼の子供を宿し、腹で育んで産み、夫と子たちとで幸せなひとときを過ごすとばかり考えて——。


 アガーテはふと、正気に返った。自分はいま、何を考えていた。

 自分が自分でないような気がする。

 吐きそうになる。自分のふしだらな思考に。

 気がおかしくなりそうだった。どうしていいかわからない。唯一わかるのは、二人の男性のことを考えただけでこれだけ動揺してしまう自分は娼婦に向いていない、ということだけだ。


 バスタブで顔色を変え始めたアガーテをすぐに見て取った侍女が、すぐに湯から上がらせた。


「伯爵夫人」


 すぐに彼女は洗面器を用意した。アガーテはえづきながら戻す。


「おそらくのぼせてしまわれたのでしょう」


 バスローブに身が包まれ、冷水が用意された。むさぼるように冷水を飲み、頭を冷やす。


 体調は大丈夫だと侍女に言うと、ラベンダーの色を思わす青紫のバッスルドレスに身を改めさせられた。

 化粧も念入りに行う。口紅はゴットフリートとくちづけたときにあとが残らないように、だが、十分に口元がえるものを。


 侍女が目の前に並べる口紅を選びながらそう考えたとき、鏡台の前でアガーテは慄然りつぜんとする。


 ――何を、……考えているの。


 自分のどこかは、ゴットフリートという男性を自然に受け入れてしまっている。


 寝室に戻ると朝食が用意してあった。暖かいスープがメインの軽いもので、心身ともに疲れ切っているアガーテの身体に染み渡る。


 昨日は見る余裕さえなかったが、部屋を見渡すと、いちめんの白い壁が広がり、白い家具で統一されている。そのせいか、実際の部屋の大きさより少し広く見えた。

 唯一の黒、黒曜石か何かでできているのだろうマントルピースの上にはクリスタル・ガラスの花瓶が置かれていて、薔薇が生けられていた。王妃の間に置かれていた花瓶と同じものだった。

 家族仲を思わす。

 息子に甘い母と、母に甘える息子——、そう思ったが、アガーテはひとつの疑問にたどり着く。


 ——待って。


 次男であるゴットフリート王子の話を、閨云々の騒ぎより前は、王妃の口から一切聞いたことがない。


 長男でもあり溺愛しているアルブレヒト王太子は「頭は良いらしいが、如何せんわがままで放蕩息子だ」。三男のレオンハルト王子は「先日も熱を出してしまった。今日は喘息の発作も治まり、何とか良い」。長女のドロテア王女は「真面目で頭でっかちなのが悩み」。まだ五歳でしかない次女のカロリーネ王女は「おちびさん」。そう、王妃は優しい笑顔を交えて語っていた。


 しかし、王妃はそんな個人的エピソードを、ゴットフリート王子に関しては語っている記憶が、ない。


 奇妙な事実に気づきながら、アガーテは食事を終えた。

 することがないということに気づく。

 家にいれば、使用人の差配をしたり、夫の代行で伯爵領の管理をしたり、侍女たちとおしゃべりに花を咲かせたり、王妃のところへ参じたり、友人のところへ赴いたり、絵画やピアノのレッスンが入っていたりとそれなりに忙しい日々を過ごしている。けれども、王子の別荘ということ以外わからないここでは、どうしたらいいのかわからない。


 とりあえず、部屋の外へ出てみる。


 赤く細長い絨毯じゅうたんが廊下に敷かれ、壁が深緑色だった。自分が眠っていた部屋と随分と違う。

 廊下をあてどなく歩きながら、先ほどの問題を、とりとめもなく考えてみる。


 ——ゴットフリート殿下は実は陛下が女官に産ませた継子とか……。


 継子いじめの話はよく聞く。どうしても継子は無視してしまうというひどい親戚がいて、親族揃ってたしなめたこともある。けれど、それはあり得ない。王妃と王子はよく似ていた。

 国王の息子でないという線もあり得ない。国王は身近で拝したことは滅多にないが、王子によく似た紫色の瞳を持ち、やはり王子と面影がよく似ている。国王夫妻は不仲ではない。


 ——たまたま?


 これが一番あり得そうだ。ゴットフリート王子の話をするとき、自分が王妃のもとに参じていなかったのかもしれないし、記憶違いかもしれない。


 ——でも、それにしたって。


 王妃が次男について話す姿を、断片さえ想起できない。


 まさか、そんな、ねえ、とひとりごとを言いながら、なんとなく廊下の真ん中にある大階段を降りていく。そのとき、今までいた空間が三階だったことに気づいた。

 二階へ降りると、部屋が並んでいたらしい上の階とは様相が違っていて、図書室と画廊のみがあるのを見た。


 画廊へ引き寄せられていく。扉は開け放たれていて、階段からも絵画が見えた。

 一歩、足を踏み入れると、圧倒されるほど絵がぎっしり壁にかけられていた。人物画に静物画、歴史画、神話や宗教画、風景画、ありとあらゆる絵画がある。


 アガーテは久しぶりに心底から微笑んだ。

 子爵令嬢だった彼女は、小さい頃から絵画に興味を示していた。母と自分を描かせた肖像画が実家に残されているはずだ。

 エリアスと意気投合したのも、彼も絵画を非常に好んでいたからだ。


 親族同士にすすめられて会った。当時、二十前後で、女性に見まごうほど美しかった彼は、自分に会ったとき、灰色の瞳をげんなりさせていたのを覚えている。

 どうしたんですか、とこっそり聞くと、あまり結婚そのものに乗り気ではない、といらいらとした返答が返ってきた。これで今月、お見合いが五回目なんですよ、と。彼女は、そうですかぁ、それはたいへんだわ……、と間延びした声を出してしまった。すると、向こうが噴き出した。まるで張り詰めていた緊張の糸が切れたように。

 そのおかげか、話が弾み、お互い絵画に興味があることを知り、あちこちの画廊へ赴いたり、芸術論について意見を戦わせたり、拙い絵を描きあった絵日記を交換しているうちに、お互いの薬指に指輪がはまっていた。 

 夫が外国に赴任するとき、夫とともに画廊に寄るのはちょっとした楽しみだった。


 この別荘の画廊に飾られている絵画を見るうちに、若い頃のエリアスによく似た肖像画を見つけて笑い声を立ててしまった。少女の肖像画なのだが。

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