第13話 呪われている

 それでもアガーテは、身なりを整えて夫に返事を書きはじめた。


 ゴットフリートは馬車に乗り、朝陽のなか、王宮へ帰りながら、爪を噛む。

 なんども愛おしいと伝えているのに。なんども自分のものだと伝えているのに。


 母の元へ出入りするアガーテの美しさにせられた。行動の端々から感じられる性格を愛おしいと思った。仮面舞踏会で、奔放な兄は「レーヴェンタールの妻は何って堅い女だ、時候の挨拶しかしない」と文句を言っていたが、それこそ好ましかった。


 自分に向けられた柔らかい声。優しい仕草。それを思い出すと、ゴットフリートは心穏やかに眠れる。


 彼女は夫婦関係に苦しんでいる。の隣でひとり苦しんでいる。十年ほど経ってようやく身ごもった女が、流産に見舞われて、どれだけつらい思いをしただろう。夫は何もわからないのか?

 ゴットフリートなどは、アガーテがどれだけ苦しんでいるだろうかと、気がつけば王宮のバルコニーから身を乗り出して、周囲に止められたというのに。


 それでも健気に彼女は言うのだ。


 ——わたくしは仕事に邁進まいしんしている夫を誇らしく思います。よろしいのですよ、これで。


 会わなくとも良いのに庭園で密会してくれた彼女。出会ってすぐに、自分に深いくちづけの仕方を教えてくれた彼女。快楽に弱く、ゴットフリートの与える愛撫に身を悶えさせる彼女。一方で、どこか一線を越えることを許してくれない彼女。夫ばかり見ている彼女。彼の腕のなかでは妖艶の極みなのに、普段は聖女のように慎ましやかな彼女。

 十二歳も年上なのに、菓子で口をいっぱいにするところは自分より年下に見える。


 ——まるで魔性だ。


 﨟長ろうたけていながら、可愛らしい女性に心が囚われていく。

 彼女の身体の隅々までくまなく知りたい。自分を受け入れてほしい。自分を誘惑する彼女の囁き声がもっと聞きたい。自分を彼女に刻み込みたい。一生忘れられない快楽を彼女と味わいたい。——なんというふしだらな欲求だろう。

 これほど人に言えぬ欲求を抱いたことは、生まれてこのかたなかった。その原因の彼女がひどく恨めしく思えてくる。


 ——アガーテ。


 彼女が夫の手紙を持ちながら腕のなかで失神したのは僥倖ぎょうこうだった。


 レーヴェンタール伯爵家とつながりの深い老公爵に尋ねたら、彼女の夫は転地療養を望んでいるらしい。

 そこですかさず、「自分のほとんど使用していない別荘なら首都の郊外にあり、閑静で休める」と善良で善意に満ちた王子の顔をしていったのだ。

 同じ理屈をつけて母王妃の許可を取って自分の別荘に送ったときは、アガーテの身体を味わうことしか考えていなかった。


 別荘に連れてきてしまえば、母の目も、王宮にいる口さがない紳士淑女の目も気にせず、日夜自分とアガーテだけの空間を作れる。

 あの母の性悪な従妹の声のごとき、彼女に迫り来る嫌な声はその可愛らしい耳に届かず、穏やかに日々が過ごせる。自分は適当な口実をつけて別荘にたびたび赴き、彼女を寵愛する。


 ——子を産ませてもいい……。


 ふと、妖しい欲求が心をかすめる。流産したということは、逆にアガーテは子を身ごもれる身体だということだ。むしろ、夫が外国ばかりにいて、アガーテと臥所を共にしないから子供ができないのではないだろうか。

 アガーテと自分の子だ。どちらに似ているだろうか。母親に似た黒髪。自分に似た金の髪。ようやく子が産めた彼女は喜ぶのではないだろうか。

 

 王宮についた。妄想に耽る王子にそれを知らせようと、御者が扉を叩いてきた。


 

 しれっとした顔をして王宮の西翼の自分の部屋に戻っていつも通り過ごしていると、母の王妃が顔をのぞかせた。


「母上?」


 ゴットフリートは書棚の整理をする手を止めて振り向く。王妃は優しく笑んだ。

 彼はその微笑みに、心の洞窟のなかで嵐が吹き荒れるのを感じる。

 その笑みが向けられるようになったのは、去年、バルコニーより身を投げようとしてからだ。死を望んでいるゴットフリートを見て、まるで忘れ物を見つけたかのように、母は自分を気にかけるようになった。

 母は自分のそばに近寄ると、手を伸ばして頭を撫でてきた。小柄な母が長身の自分を撫でるのは、少し不恰好で滑稽でもあった。 

 

「首尾よくいったか」

「……」


 彼は頬を染め、顔を背けた。王妃は目をまたたかせる。


「……何もできておらぬのか? あれを早う家に戻してくれ。レーヴェンタールは国王陛下の……ぞ。露見したらレーヴェンタールは陛下に直訴し、陛下は我々を許さぬだろう。……


 そうだ、と内心で舌打ちをする。アガーテの夫は父の側近だった。厄介極まりない。


「母上、父上には内緒にしておいてくださいね」

「わかっておる。で。首尾は?」


 母に愛人との逢瀬について語るのは気が引けたが、仕方がない。


「何もしていないというわけでは。でも、めておきました」

「なぜだ。あれは、どうしておる?」


 ゴットフリートは、はにかむようにうつむいた。


「体調が悪かったようです。そうと知らずに臥所に招いてしまって……。昨晩は無理をさせかけてしまったので途中で止めました。今朝も頭痛がひどかったらしくて。僕の別荘を貸し出したのは正解だったな、と」


 母親に向かって、事実を上手に組み替えて自分を美しく取繕とりつくろうことに、ゴットフリートは慣れていた。そうでないと生きていけなかったから。そして、真面目な次男のふりをして母にすがる。


「母上、しばらく閨のことはお預けにしていただけませんか。彼女の体調の回復が優先されると思います」


 だいたいこれで少なく見積もっても一ヶ月ほどは猶予が与えられるだろう。その間に、アガーテに自分を刻みこめばいい。

 王妃は額に手をやり、ため息をつく。


「ゴットフリート」


 眉根を寄せながら、息子に囁く。


「もしや、拒絶されたのではないだろうな?」

「……その」


 展開が変わってきたぞ、と母の顔を見る。長男と三男の表情はすぐに読み取るのに、次男の表情を見るのに疎い彼女は、得心がいったように頷いた。


 手を取られ、小さな小瓶を握らせた。


「閨に入る前に、彼女に飲ませてやってほしい」

「これは?」


 首をかしげる。中に透明な液体が入っていた。


「これを飲ませれば、彼女はそなたの意のままになるどころか、自ら身体を開き、そなたに子種をせびって搾り取るようになる」


 ゴットフリートは表情をなくした。今の自分にとってはあまりに甘美な話ではあったが、それを母親の口から聞きたくなかった。

 母はふしだらなことを年頃の自分に平気で話してしまえるほど、自分を見ていない。人格の低俗さを息子に見せつけて何が楽しいのか。


「……は、あ。……受け取っておきます」


 不審げな顔を作って頷いた。母は満足げな顔をする。


「ではな。今朝方からレオンハルトが肺炎を起こしておる故、これにて失礼する。うまくやれよ」


 病弱な弟はまた病気らしい。三年前、自分が肺炎にかかったときは何もしてくれなかったくせにな、と彼は思った。父が見舞いに出向こうとした際、尊貴な身に肺炎が感染うつるかもしれない、とめたのは母だったという。


 母の都合もわからなくはない。

 同じ時期、どんなことをされたのか詳しくは教えられていないが、いつも明るい兄のアルブレヒトが、妹のドロテア——ゴットフリートには慕わしい姉——に突然ひどいを振るった。それが原因で、姉は気鬱の病になり、なぜか当時の婚約者との婚約も破棄になった。

 レオンハルトは姉の気鬱と兄の剣呑な様子を恐れて、部屋から出てこなくなってしまった。

 しかも母が四十近くになってぽっつりできた妹のカロリーネは二歳で、わがまま盛りだった。自分に構っていられなかったのだろう。そして、父に子供を近づけたくはなかったのだろう。


 ——それで人妻に恋した僕。母上も苦労なさる。


 ひどい怪我をしたという姉に、花を持って見舞いに出向いた時のことを思い出す。

 姉は寝衣を着たまま、寝台の上で丸くなって震えていた。どこも怪我していないように見えたが、自分を怖がらせないように隠しているだけで、寝衣の下はあざだらけなのだろう、と痛ましく思った。ゴットフリートが近づくと、息を荒げて悲鳴をあげた。 


 ——嫌、来ないで! やめて……!

 ——……姉上?

 ——なんだ、ゴットフリートだったの……? 


 弟だとわかると、あからさまに姉は安堵した顔をした。あれはなんだったのだろう。どうして、姉はあれ以来、まるで魂を殺されたように正気を失ったり、元に戻ったりを繰り返していたのだろう。

 おととし嫁いで落ち着いたはずだったのに、去年、兄の婚約者が決まったと聞いた途端、姉は大好きな花で作った花束を抱えて、湖に沈んだ。すぐに救出されたが、兄は一ヶ月後、ドロテアが目を覚ましたのを見て、なぜか司祭の前に跪き、拳銃で自分を撃ちかけた。

 その一ヶ月後、自分がバルコニーから飛び降りかけた。


 その三つの事件、少なくとも自分の事件は兄姉の事件と関係していないが、母と父はどう見ただろう。

 ほとんど意識を失っている自分の手を握りながら、父が「呪われている」とぽっつりいったのを覚えている。母が「レオンハルトは、レオンハルトはどうしておる、カロリーネは……?」と泣いていた。


 別荘に戻ろうと思った。母に会ったせいか、

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