第11話 重なる片恋
彼女の
少年の熱く甘い吐息によってもたらされる官能に理性の戒めが
「……殿下、女官たちは本当に何もお教えしなかったのですか?」
あらぬことを口走っていた。
少年は無言で頷いて頬を真っ赤にした。そのさまは、ひどく色香を
「……このあと、どうすればいいのか戸惑っている……」
なんと正直で可愛らしい返答だろう、とアガーテは少し起き上がり、ゴットフリートの首筋にくちづけた。そして指先で口を塞ぐ。
「あまり正直におっしゃると、殿下のお側に侍る予定の姫君は失望してしまいますわ」
少年は顔を背ける。
「
それでは困ります、とアガーテは少年の頭を抱き寄せて
彼の花嫁はどれだけ愛らしい少女だろう。第二王子、普通の貴族の娘を妻とするとは思えない。かなり高位の貴族か、外国の王族を妻に迎える可能性もある。この少年であれば、今はともかく、妻にかなり誠実だろう。優しい妻と真面目な夫の、穏やかな家庭が営めるだろう。子供も生まれるだろう。
そう、……自分たちとは違って。
アガーテは少年のつむじを指先でつつきながら、子供をたしなめるようにいう。
「殿下、今晩は頑張って
「嫌だ」
王子は頬を膨らませている。その仕草が愛らしかった。
もう、こうなってしまったからには一回教えてしまえばいい、とアガーテは妥協していた。
嫌だといって頬を膨らませていても、過激なことを言おうと、一晩過ごして、王妃に進上すれば、あとは王妃やあのマルタという傅役がなんとかしてくれるだろう。自分より、実母や傅役のほうが王子の扱い方を心得ているはずだ。
エリアスだって、一夜の情事なら妻に隠れて時たまやっている。五〜六年くらい前は結構本気の相手ができたらしく、仕事がない夜によく家を空けていた。すぐ外国赴任になったので、その相手とは別れたようだが。
暴走する若い獅子にむやみに立ち向かおうとせず、いちど意に従い、そのあと隠れてしまえば良い。
自分は体調が悪くなったとかなんとか理由をつけて、エリアスのすすめる通り転地療養でもすればいい。一級の保養地にでも行こう。それで、療養という名目でエリアスのために若くて身ごもりやすそうな女性を探す。——子供もできず、不貞さえ働いたのだから、こうするのが筋というものだ。
それで自分は——、彼が他の女性と一緒になるところを見る前に、静かに、生まれる前に冥府へ行った我が子のところへ行く。
エリアスはさすがだ。本当の笑顔なんて忘れてしまった。
春になって笑顔が戻ってきたのは、ぼんやりとこの発想が浮かんで、せめてその時が来るまでは笑顔でいようと思ったからだ。王子と対峙するなかで、ぼんやりしていたものが明瞭になってきた。エリアスに自責させない理由も整った。手段もなんとかなりそうだ。覚悟が決まった。
アガーテはそっと王子を寝台に倒す。恍惚の表情を浮かべてのけぞる王子の薄い唇を優しく吸った。少年の寝衣を脱がせてしまうと、首筋に、鎖骨に、平らな胸にくちづけを落とす。
少年は頬を薔薇色に染めて、小さく喘いだ。
だが、途中までされるがままになっていた少年が、何があったのか、いきなり泣き出した。
「……嫌だ!」
アガーテは起き上がり、頭を下げる。
「申し訳ございません」
火がついたように泣きわめくゴットフリートに掛け布を掛ける。
羞恥が襲ってきたのだろうか。それともしていることが怖くなったか。
——やはりまだお早いのでは……。
震え泣く少年の添い寝をしながら、アガーテはため息をつく。すると少年のほうが今度は体を起こし、大粒の涙を
「貴女に触れられていてはっきりわかった。貴女は、僕が貴女を情欲や
美貌の少年は、自分に掛けられた掛け布を握りしめながら、涙を流して震えだす。
「僕は、貴女の全てを知り尽くしたい。けれど、貴女は母上に義理がたてばそれで良いと思っている。僕の気持ちを考えもしない!」
アガーテは少年を抱きしめて慰めざるを得なかった。言葉を尽くして。
「僕を見て……」
少年はそう小さく叫ぶ。ひどく幼く、はかないもののように見える。なぜか、アガーテの心がその叫びにひどく共鳴した。
——エリアス、わたしを見て。
優しく誠実な夫。アガーテを深く愛してくれる夫。最愛の夫。けれども、アガーテの真の望みを一切叶えてくれない彼。寝室を一緒にしてくれない彼。国事に邁進し、流産したばかりの妻を首都へ残してしまう彼。政情不安の国なんかに赴いて自分を心配させる彼。そばにいてもくれず、転地療養を、とさらに自分たちを引き裂くようなことを言う彼。
ずっとアガーテは苦しくつらい片恋をしている。最愛の人は平和と国際情勢と、国ばかり見ている。出会ってから十年以上もずっと叶わぬ恋をしている。そして、その恋は叶わないほうが正しい。抑圧すべきなのだ。夫は自分などという無力で無能な存在とは違い、飛翔すべき人なのだから。
子供が欲しいのは、外聞やレーヴェンタール伯爵家の跡継ぎを儲けなければという義務や、子供を儲けたいという欲求ではなく、おそらく、——片恋ではなかったという証拠が欲しかったから。たまには、エリアスは自分に振り向いてくれたこともあったと、そう信じたかったから。
アガーテの緑の瞳から涙が滑り落ちていく。
——わたしを見て、エリアス。
けれどエリアスはいてくれない。見てくれない。もっとも親しい話し相手、無二の親友ではあるかもしれない。心底から必要とは、おそらくされていない。
自分が死んでも、彼は何事もなかったかのように起きて、外国へ行き、女性たちと戯れにならない戯れをして、仕事をして深夜まで夜更かしをして眠るだろう。そこにアガーテは必要がない。
少年が力なく訴えてくる。
「僕を見て、アガーテ」
「……見ております、きちんと」
涙と共にそう囁く。エリアスに言って欲しかった言葉を。声が震える。その紫の瞳をまっすぐ見ると、少年は力なく笑い、子が母にするように彼女の胸に顔を埋めた。
鳥のさえずりの声と共に目を覚ます。
アガーテは素肌の胸元にゴットフリートがまだ顔を埋めているのを見た。そっと起き上がると、彼の手が伸びてきて、寝台に引き倒される。
彼のほうが起き上がり、アガーテの額にかかる髪を掻きわけた。少年の身体が降り注ぐ陽に照り輝き、光明の神のようにさえ見えた。
「昨夜は取り乱してしまって申し訳なかった」
彼は
突然、ずきりと頭に痛みが走る。
「アガーテ、頭痛がするのか?」
「……感情が処理できなくて……」
ひどく不安げな顔をして、王子が顔を覗きこんできた。だが、彼は微笑んだ。
「大丈夫。ここでずっとゆるりと休んでいれば。母上もお許しくださった」
「え?」
「伝えそびれていたが、ここは僕の別荘だ。あまり使っていないので体調の悪い貴女に貸し出すことにした。療養されると良い。首都の郊外にある」
あの、王子の腕のなかで気絶しているあいだに、首都の郊外へ運ばれた? アガーテは混乱する。
ゴットフリートは自分の汗にまみれた寝衣に袖を通す。
「運命は捉えておくに限る」
アガーテは目を見開く。
「母上には申し上げておく、しばらく体調が良くなるまでアガーテをこちらに置いておきましょう、と」
彼は寝衣の上に、近くにかけてあったガウンを羽織り、満足げに部屋の外へ出て行った。
アガーテは寝台の上で呆然とした。
寝台からやっとの思いで起き上がると、夫からの手紙がまるで悪意を感じるようにぐしゃぐしゃに握りつぶされて、床に
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます