第10話 正義と戦を司る天使のように

 気がつくと、もう日没したのかあたりが真っ暗だった。


 白くふかふかとした寝台に寝かされていた。白い紗の天蓋で寝台が覆われているためか、外が見えづらい。起き上がると、白壁の美しい部屋にいるらしいことはわかった。まわりには蝋燭の明かり一つしかないらしい。その明かりが大きな窓を照らしている。その窓は少し開いていて、そこからそよ風が吹きこんでくる。


 アガーテが身体を起こしたのに合わせて、人の影が天蓋の向こうで揺れているのを見た。誰、と思っていると、天蓋が開かれた。

 薄衣を着た金糸のごとき髪の生真面目そうな少年が、無言のまま寝台に滑りこんできた。アガーテをこの上なく優しく抱きしめて寝台に押し付け、唇を重ねてきた。ちゅ、ちゅ、という音を立て、何度も角度を変え、深くくちづけてくる。


 ——嘘でしょう。


 こんなときに、いわゆる「閨のこと」を目の前の貴人に教えなくてはいけないのだろうか。そもそもここはどこなのだろう。

 抵抗しようと少年の肩を握って押し返そうとすると、彼は唇を離して彼女の手を握りしめ、自分の胸に当ててきた。


「……殿下?」


 そのまま、彼はアガーテの手を自分の頬に当てた。頬が濡れている。——少年が、涙を流していた。


「どうなさったのです」


 起き上がって金糸の髪を撫でると、王子の肩に顔を押し付けられた。厚い軍服ではない薄衣に身を包んでいるとはっきりわかる、まだしなやかで細いが、しっかりとした固さのある肩に。 


「アガーテ、よかった」

「……え?」

「僕の目の前で、……倒れた……から。……死んでしまったかと……思って」


 まだいとけなくてらっしゃるのだ、とアガーテは微笑ましくなる。人が倒れるだけでこれほど涙を流すとは。


「大丈夫でございます。少し、めまいがしただけ」


 肩から顔を離して微笑むと、ゴットフリートはその紫の瞳に哀しみをたたえる。もういちどアガーテの唇を吸った。


「母上の従妹にひどいことをいわれていたな」

「……え」

「母上に申し上げておいた」

「……殿下?」

「僕は母上のお怒りになる要点を心得ている。そこを刺激したら、——母上はひどくお怒りだったぞ。もうあれは二度と母上のお側にあがることはない」

「……は、い?」

「それから、あれの夫の領地を召し上げさせた。あれの夫は所領で横領を働いていてな。大したことがないと見過ごされていたが、父上はこの度、財政を引き締められる。周囲に示しがつかぬと申し上げたら、父上も兄上も賛成してくださった」

「……あ……の……?」


 なぜゴットフリートは知っているのか。自分のことで知らないことはないのではないだろうか。なぜ彼は、そこまで過激な手段を使うのか。

 確かにあの従妹はひどい人格だった。険がある性格だから近づかないように、と周りからも言われていた。自分はうっかりしていて被害にあった。彼女が何かひどい目に遭えばいいのにと思わなかったといえば、嘘になる。でも、例えば犬の糞を踏めばいいのにとか、夫と喧嘩すればいいのに、とかいう程度のことで、——こんなことではなくて。

 王子が切なげに睫毛を伏せ、深く甘いため息をついた。


貴女あなたのことは耳に入れるようにしている。貴女に幸福になって欲しいから」

「殿下……?」

「僕は貴女の幸福を一番に愛する。悲しい顔をしている貴女を慰め——」

「……」

「貴女に悲しい顔をさせるものは排除する。貴女に連絡していなかったこの二週間、ずっと自分の愛情はどうあるべきか、夫ばかり見ている貴女をあきらめるべきかさえ煩悶はんもんしていたが、そう決めることにした」


 正義と戦を司る天使のように凛々しく清冽せいれつな美貌がそう告げた。この上ない笑みを浮かべて。

 ここで、「まあ、ありがとうございます殿下」、と言えるくらい厚顔無恥な女であれば、アガーテは白樺の樹の下で吐いてうずくまってなどいない。


「殿下」

「何」

「なりません、ご自分のお力をそんなことにお使いになっては」

「どうして」

「あのご婦人には生まれたばかりのお子がおります、お子に罪はございますまい」

「アガーテ」


 王子は満足げに笑い、アガーテの口真似をした。


。……ふふっ」

「……殿下?」

「それは、親に罪が——母上の従妹に罪があると言っているのと同義だが」


 アガーテは言葉尻を捕らえられ、少し後ずさる。だが、ゴットフリートは本当に愛おしげなものを見るように彼女に迫り、額と額をつけた。


 そして本当に嬉しそうに囁いた。


「僕たちは気が合うな」 


 唇をまた貪られ、深くくちづけられた。その切ないまでの深い接吻に、女の背筋に快美の雷光が走る。身体の力を失くし、男に寄りかかってしまう。

 くらげのような身体になったアガーテを、ゴットフリートは寝台に押し倒す。彼は彼女の顔を両手で挟み、まっすぐにアガーテの森林を思わす緑の瞳を見つめた。熱を帯びた美しい紫の瞳に見つめられ、身体が痺れたように動かなくなる。


「さ、次は僕は貴女を慰めなければいけない」

「……お許しを、……」


 アガーテの身につけている白い絹の寝衣ねまきの上を少年の手が滑る。特に二つの柔らかな膨らみの上を。その膨らみがしなやかな手でおずおずと包み込まれた。暖かな手が探るように薄絹の上で動く。

 アガーテの心の奥底が、久しぶりの男性からの愛撫に悦びの吐息を漏らした。


「……嬉しいのか? アガーテ」

「ちがいま……」


 身体をのけぞらせていた彼女は、首を大きく横に振った。だが、まるでしなびていた花が水を与えられてみずみずしくなるようなつややかさを、その表情にたたえはじめたのは隠しようがなかった。

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