第7話 欺瞞とアフタヌーンティー(2)

 アガーテはしばらく激情を囁くゴットフリートの腕のなかにいた。

 だが、柔らかく彼を押し返す。そして、可愛らしい未熟なことをいう少年に、まるで亡くした胎児を重ねるかのような慈しみの視線を向けた。


「殿下、いけません。できもしないことを約束なさっては」

「……できもしない?」

「もし、殿下に妃殿下がお出来になられたら、『幸せ』という感情の陰に、『淋しい』『痛み』という感情が存在することにお気づきになるでしょう」

「……」

「子供を失って、わたくしの心は凍えていたのです。そのときに無理に、政情不安のグリューンガウへ連れて行くのは、むしろ残酷でございましょう? それに——」


 気づけば、少年の金糸の髪を優しく撫でていた。


「わたくしは仕事に邁進している夫を誇らしく思います。よろしいのですよ、これで」


 少年は涙をあふれさせた。目をきゅっとつむり、「違う」と首を大きく横に振った。


貴女あなたは自分に嘘をついている」


 ちょうどよく、口の堅そうな年老いた侍従が茶と菓子をワゴンに乗せてやってきた。素早く茶を注ぎ、菓子を並べてしまうと、すぐに去っていった。


 王子の、夫ある女性との禁断の逢瀬の現場。誰も、その場に長く居合わせたくはないだろう。

 まるでゴットフリートの心のように真っ白に照り輝く白磁のティーカップの中に、ヴァイオリンやチェロを思わす深い赤の紅茶が注がれている。バスケットに小さな菓子が詰まっていた。


「召し上がられますか?」


 ティーカップを手に取り、王子の前に差し出すと、彼はこくりと頷いた。

 気を落ち着けるように、彼は一口紅茶を飲んだ。


「アガーテは甘いものが好きか?」

「はい」


 甘いものには目がない。やや身を乗り出して笑うと、王子が頬を薔薇の色に染めた。


「僕も、……実は好きだ」


 そういいながら、上品な仕草でバスケットのなかの菓子をつまむ。少しいたずらめいた視線をアガーテに向け、ぱくりと口の中に放り込んだ。


「まあ、お行儀の悪い」


 アガーテがたしなめようとすると、王子は菓子を彼女の口の中に入れてきた。


「お揃いだ」


 菓子で頬を膨らますアガーテの顔を覗きこむと、真面目を絵に描いたような顔に花綻はなほころぶような笑みを浮かべた。


「リスみたいだ」


 そうなさったのはどなたです、と口を覆いながらアガーテが抗議しようとすると、さらに大笑いされた。


「僕より十二も年上とは思えないほど可愛いひとだ」


 なんとか菓子を飲みこむアガーテを見ながら、王子が言った。


「これからの逢瀬のことだが、……王宮では行わない」


 どきり、と心臓が凍りかけた。一切あきらめてはくれないらしい。


「アガーテが夫を大切に思っているとわかった。だから、夫の耳に入らないようにする。人の多い王宮では人の噂に必ずなるだろう。今日は昼間で単に王妃陛下の縁で貴女を招いたといえば、言い訳はつく。でもこれから先は夜を一緒にすることが多くなるから」


 夜。生々しさでむせかえるように、アガーテの心がさざ波立つ。目の前の少年と、臥所を共にするのだろうか?


「……あと、アガーテ」

「なんでしょう」

「貴女と話して、もっと貴女が愛おしくなった。こんなに可愛いひとだと思わなかった。誰にも触れさせたくなくなった。もちろん夫にも」


 絶句していると、さらさらという衣擦きぬずれの音が聞こえてきた。


「殿下」


 アガーテを案内してきた謹厳そうな女官が、屋内からテラスへとやってきて一礼してくる。

 逢瀬を邪魔されたゴットフリートは眉根を寄せ、明らかに不機嫌になった。


「なんだ、マルタ」


 謹厳そうな傅役はマルタという名前であるらしい。


「お時間でございます。このあと、法学のお勉強が」


 ふと、この子は本当に勉学に励んでいる最中の少年なのだ、とアガーテは胸を突かれた。彼はやはり、人の妻でひとまわりも違う自分より、気立ての良い少女を相手に純粋な恋愛をしたほうがいい。


 アガーテは一礼して立ち上がった。


「では、殿下。楽しいお時間をありがとうございました。、またお話に参じましょう」


 意図して、次の逢瀬はない、ということを婉曲に示したつもりだった。だが、王子はそれをすぐに察してか、傅役に微笑む。


「マルタ、とても楽しかった。彼女との次のはいつにしようか」


 ではなくという過激な言葉を使ったことに、傅役のマルタはアガーテをまじまじと見た。アガーテは懸命に首を横に振る。


「……なあ? アガーテ。次はくちづけ以上のこともしたいな? 夫は仕事が忙しくて、貴女を放ったらかしにしている。彼女は淋しがっているんだ、マルタ。僕がにならなければ」


 アガーテは、いくら剪定してもまだ生えてくる蔦に絡みつかれているような気分になった。マルタが震えながら、「かしこまりました、考えます」と頭を下げる。


 帰り道、マルタの鋭い目線が、アガーテを貫いた。


「殿下に何をなされました。余計に恋の炎を燃え上がらせてしまわれたご様子。はぁ、十二も年下のお方をあそこまで惑わすなど、……妖術でもお使いに?」

「……お会いするべきではなかったかもしれませんね」


 うつむいているアガーテに、謹厳なマルタはぽっつりと呟いた。


「……殿下は、わたくしどもではどうもお慰めできぬ心の氷がおありなのです。伯爵夫人ならばかすことができるのでしょうね。あんな笑顔を拝見したのは本当に久しぶりです」


 そういってマルタは大きくため息をついた。

 アガーテはそのときは、「心の氷」という言葉をさほど気にも止めず、マルタのため息に申し訳なさしか思わなかった。

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