第3章 重なる片恋

第8話 子供を産んだことのない方には

 王子との「逢瀬」から二週間ほど経つが、王妃からもあの傅役もりやくからも、もちろん王子からも、連絡は一切ない。

 アガーテは、やはり殿下の気の迷いだったのね、ちゃんと失望してくださったのね、と安堵して日々を過ごしていた。


 王国が誇る宮廷詩人のけざやかな朗読の美声が、王妃の間に響く。白銀の、裳裾の長いドレスを身にまとった王妃は中央に座り、優雅に扇をあおいで、その声に酔いしれている。

 王妃の隣には、今日の集まりの主賓である貴婦人がいて、赤子を抱えていた。その華やかな装いと同じくらい華やかな笑いを漏らしている。

 アガーテは上品なくすんだ青サックス・ブルーのドレスに身を包み、隅のほうでおとなしくしていた。


 王妃の年の離れた従妹が子を産んだので、そのささやかな祝いのために、詩作の席が設けられたのである。アガーテにとってはいたたまれなくなる会だ。


 王妃の従妹は幸福に酔いしれながら口走った。


「子供を産んだことのない方には、この幸せはわからないでしょうね」


 子を持つ貴婦人がみなで笑っている。

 これは何十回もいわれてきたことだ。小さな棘でかする程度の傷にしかならない。それがなんだというのだ。子供がいなくともエリアスと自分は幸せだ。


「それとも、子供は母親を選んでくるという説が本当なら、子のいない母は生まれ来る子に遠ざけられているのかもしれませんわね」


 子を持つ貴婦人が、またみなで笑っている。

 これも何百回といわれたことだ。だからアガーテは、以前は心の支えにして人格修養の糧としていた、「子供は母親を選んでくる」という話を信じるのをめてしまった。全ては運にすぎない、と考えたほうが、エリアスも自分も侮辱しないで済む。今さら傷つく要素などない。


 ——ああ、嫌な空間だな。


 少しだけ足が扉のほうへ向かう。だが、王妃の言葉が足を止めた。


「なにをいうか、我が従妹よ。子のない者もおるなかでのその言葉、少々軽率ではないか」

「さよう。わたくしめのように。妻子がおらずとも、ここに集う皆様のおかげで幸せでございます」


 美声の持ち主である麗しい宮廷詩人が、貴婦人たちに向かって一礼する。貴婦人たちは彼を取り囲んで黄色い声を出す。

 王妃がアガーテを向くのを見た。急いで一礼すると、主君は少しだけ笑みを残した。


 ——王妃様。


 感謝の言葉で頭がいっぱいになっていると、美貌の宮廷詩人に貴婦人たちの注目を奪われた王妃の従妹が、いつの間にかアガーテのそばに近寄っていた。


「王妃陛下に怒られてしまったわ」

「……」


 黙って一礼する。少しけわしい性格と評判なので、あまり関わらないほうが吉だ。


 だが、王妃の従妹はアガーテの耳に囁く。


「あなたのせいよ。あなた、せっかく授かった子を流産したとか。お優しい王妃陛下はあなたのためにきつい物言いをなさらざるを得なかった」

「……」

「エリアスさまがかわいそう。あのお方は明るくてお優しい性格で、結構社交界で人気があったのでしょう。妻になりたいと思った方も大勢いたはずよね。なのに、なんでかあなたみたいな子供を産まない女にひっかかっちゃって——」

「……」


 社交界で出会ったわけではなく、お互いの祖母同士が仲が良かったことによる紹介だった。他の女の影は、周囲により用意されたといって等しい逢瀬を重ねるさなかには一切感じたことはなかった。

 でも、ああいう華やかな性格だし、容姿も端整だから、相当人気だったのかもしれない。


「本当にかわいそう」


 それは同意する。エリアスから不要と言われたら潔く身を引くつもりだった。


「あなた、子供も産めないくせに、王妃陛下のお側にいて、とっても邪魔」


 子供が産めないことが、なんだというのだ。

 流産したことが、なんだというのだ。


 アガーテを責め苛んで満足したらしい王妃の従妹が口調を変えて、彼女を揺さぶってくる。


「あら、顔が真っ青! どうしたの」

 

 王妃が近づく前に、アガーテは顔を覆って、息を荒げて、「申し訳ございません、頭痛とめまいが」と言い捨ててその場から走り去ってしまった。



 走り去った先の王妃の間の近くの庭園では、薔薇の花が咲き切ろうと大輪の花を咲かせ、ゲラニウムがそれを彩り、百合が蕾を膨らませ始めている。まさに春の終わりといったところだ。 

 アガーテは咲き誇る花々に目を楽しませることなく、白樺の木の根もとにひどく戻した。


「……っ、はぁ……」


 しゃがみこんで額に手の甲を当てる。熱はないようだ。あの王妃の従妹の物言いに心を苛まれたのだろう。子供がいないことで、、傷つくようなことがあったのだ。

 それとも、小さな傷が同じ場所に何度もできると取り返しのつかない膿となるように、もうすでにアガーテの心には膿が溜まっているのだろうか。


 ——帰って休もう。


 ふらふらと立ち上がった。すると、声が飛んできた。


 「レーヴェンタール伯爵夫人!」

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