柔らかな不安

みたか

柔らかな不安

 息苦しくなって手を伸ばしたら、目の前には見慣れた天井があった。カーテンの隙間から光が差し込んで、スポットライトのようにおれを照らす。朝が来たのだ。スマホを見ると、アラームより三十分も早く目が覚めたようだった。

 隣に手を伸ばす。シーツの冷たさが肌に染みた。あらたの姿がない。きっといつものように早起きをして、本でも読んでいるんだろう。そう思ったが、おれの思考は不安定に揺れた。新は本当にこの家にいるんだろうか。この目で確認しないと安心できない。

 リビングに向かうと、新はソファーに座って本を読んでいた。その静かな横顔が、またおれの思考を揺さぶる。白いTシャツが光っているように見えて、思わず目を細めた。

「あらた」

 おれの声は掠れて、小さく震えていた。おれの頼りない声は、ちゃんと新に届いただろうか。目の前の新は、本当に本物の新なんだろうか。おれはまだ夢の中なんじゃないか。

 本を見つめていた優しい目が、ゆっくりとおれに向けられる。まだ整えられていない髪が額で揺れた。新の黒髪は、光を吸い込むと少し茶色くなる。柔らかそうなその髪に触れたくなった。

はる、おはよう」

 ざらついた声が、おれの心に染みていく。新の声はなんでこんなに心地いいんだろう。

 コーヒーの香ばしい匂いが鼻先をくすぐる。新の頬を朝日が優しく撫でた。うちのリビングは朝日がよく入る。今はきっと、我が家が一番美しい時間だ。そこに新が存在していることに、おれは心底安心した。

「……おはよ」

「今日は早起きだね」

「ん」

「そこ座ってて、朝ごはん作るから。あ、コーヒー入れるね」

「それくらいおれが」

「いいよ。そんな寝ぼけた顔で入れられてもこわいから」

 からっとした笑い声が響く。返す言葉もなく、おれは大人しく椅子に座った。

 キッチンに立つ新を見るのが好きだ。おれより広い背中が動く様を、いつまでも見ていたい。

 ずっと朝だったらいいのに。

 コーヒーの香りが、朝が来たのだと実感させてくれる。ハムエッグとトーストの匂いも、無防備な新の背中も。

 じっと見つめているおれを振り返って、新は不思議そうに微笑んだ。

 この瞬間が、おれは一番幸せで、一番怖い。



 毎日、祈りながら生きている。眠って次起きるとき、おれはこの世界にいるだろうか。新はいるだろうか。魂が抜けて、ただのモノになった新が隣にいたらどうしよう。そんなことを毎日考えてしまう。たまらなく恐ろしい気持ちが溢れてくる。この日々が続きますように。そう毎日祈っている。

 こう感じるようになったのは、新と暮らし始めてからだ。一人暮らしをしていたときは、そんな心配などしたことがなかったのに。あの頃のおれにとって、朝は必ず訪れるものだった。家族も友人も、朝を迎えるのが当たり前だと思っていた。日常すぎて気に留めたこともなかった。

 ぬくもりは、麻薬だと思う。一度知ってしまうと戻れない。おれは怖くなった。新のぬくもりがなくなってしまうことを想像して、離したくないと思った。

 おれを一人にしないでくれ。

 こんなおれの気持ちを、新はどう思うだろう。考えすぎだよ、と笑うだろうか。新のことだから、きっと笑わず頷いてくれるだろう。受け止めてくれるだろう。そう思うのにおれは、この気持ちを打ち明けられずにいる。言葉にしたら、この気持ちが伝染して現実になりそうで怖い。そうなるくらいならおれは、この気持ちを一人で抱えていたい。このあたたかく柔らかい不安は、苦しいが嫌いではない。新がくれた気持ちだから。

 こんなことを毎朝考えているなんて、おれはおかしいんだろうか。でも、その瞬間はいつやってくるか分からない。明日か、もしかしたら今日かもしれない。必ず来るのだ。おれたちの間にも。



 スーツに着替えて、玄関に向かう。靴を履く新の向こうにドアが見える。おれはまたそこで恐ろしくなる。ただのドアがでかい城門みたいに見える。これをくぐったら、違う世界に出てしまう。おれも新も、生きて帰って来られるか分からない。この朝が最後になるかもしれない。そんな気持ちに支配されて頭がいっぱいになる。

「晴」

 新はおれの手を取ってそっと握った。新はいつも玄関ドアの前で手を握ってくれる。おれの気持ちを察しているのかもしれない。

 汗でじっとりと濡れたおれの手のひらは、新の肌に吸いついた。離れないでくれ、と身体が言っているみたいだ。

「晴の手、今日も冷たい」

 新の手はあたたかくて、おれの体温をゆっくりと上げていく。新の心のぬくもりが、手のひらから伝わってくるみたいだ。

「今日の夕飯何にする? 晴の好きなオムライスでも作ろうか」

「……またおれのことをお子様扱いするのか?」

 お子様ランチみたいだね。

 何が食べたい? と聞かれて答えたとき、新はそう言って笑った。新と暮らすようになって、すぐの頃だった。頬を緩ませたその顔を、今でもはっきりと覚えている。

「ふふ、そうじゃないよ」

「一応おれのほうが歳上なんだけど」

「そうだった、そうだった」

 整えられた指先が、おれの前髪をふわふわと撫でる。

「好きなものを考えてると、一日があっという間でしょ」

 新の言葉に、おれは小さく頷いた。厚くて重い扉が、少しずつ形を変えていく。

「じゃあ行こう、晴」

 新の声、言葉、微笑み。その全てが光となって、おれの心に染みていった。

 今日も新と朝を迎えられたこと。新が隣にいること。おれの一部になった日常が、おれの身体を支えている。

 おれたちは手を繋いだまま、玄関ドアを開けた。



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柔らかな不安 みたか @hitomi_no_tsuki

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